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◯ 足元を見る
おはようございます。皆様は「足元を見る」と言う言葉をご存じですか?「相手の弱みに付け込む」ことを意味します。時代劇を見ていると、時々、男性が二人前後に並び、その間に駕籠と呼ばれる人を乗せる座敷
があって、そこに人を乗せて運んでいるシーンを見ることあるかと思います。「足元を見る」とは彼らから生まれた言葉だそうです。駕籠に乗ると料金はいくらなのか。今のタクシーと違って、初乗り料金とか、何キロ何円という統一された料金があるわけありません。簡単に言えば、交渉次第です。すると、駕籠を担ぐ人はどこを見るのか。旅人の足を見るのです。そして、疲れているのか、そうでないのか判断するそうです。客が疲れているとわかると・・・料金を上げるのです。しかし、客は疲れているので妥協してしまうのです。そこから、「足元を見る」という言葉ができました。
◯ 悪魔は足元を見る
悪魔は誘惑がとても上手です。悪魔は私たちの心の状態を良く知っています。「足元を見る」のが上手です。私たちが怒っている時、良いカウンセラーであれば、その怒りに共感してくれます。つまり、「その気持ちわかるよ」と相槌を打ちながら、正しい方へと導いていくのです(時間がかかる)。しかし、悪魔は違います。「その気持ちわかるよ」と言って、ナイフをそっと渡すのです(すぐに効果が出る)。火に対して薪をくべるのです。悪魔は、巧みなセールスマンです。彼は色々な資料を持っています。怒っている人にはどれだけ相手が良くない人なのか分かる資料を次から次へと見せてきます。また、寂しい人には、不幸に思わせる資料を沢山見せてきます。不安な人には、人生を失敗した人たちの写真集を沢山見せてきます。
◯ 聖霊は命の源を示す
では、良いカウンセラーはどんな資料を見せるかご存じですか?実は良いカウンセラーとは聖霊のことですが、聖霊はイエスさまを見せるんです。
何を見せるか分かりますか?それは、十字架に掛かられたイエスさまのお姿です。そして、聖書の中に書かれているイエスさまの言葉を紹介するのです。なぜ、イエスさまの十字架を指し、イエスさまの言葉を示すのでしょうか。
それは、イエスさまの十字架に私達の全ての答えがあるからです。そのような意味では、悪魔はイエス・キリストから目を離すように仕向けます。なぜなら、そこに希望があり、慰めがあり、恵みがあり、命があるからです。悪魔は全ての解決が、イエス・キリストにあるということを良く知っているのです。
◯イエスさまを試す悪魔
さて、イエス様が荒野で断食をし空腹を覚えられた時、悪魔はイエス様のもとにやってきました。悪魔はイエスさまに何といったでしょうか?断食をやめれば?とか、川に行ってごらんよ魚いるからとかは言いませんでした。悪魔が言った言葉は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」でした。しかし、イエスさまの言葉はこうでした。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
◯ 大変な時、待てない時、焦るときこそみ言葉が救う。どうでしょうか。
イエス様の立場であれば誰もがこう言うのではないでしょうか。「今、必要なのはパンなんだ」と。しかし、聖書はこう教えているのです。そういう時こそ焦ってはいけない。み言葉を待ちなさい。み言葉を求めて祈りなさい。
皆様是非覚えておいてください。試練の時こそ、誘惑を受けたとわかった時こそ、み言葉が皆さまを救います。
◯ 旧約聖書のマナの話し
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』。イエスさまがおっしゃったこの言葉は旧約聖書の申命記に出てくる言葉です。イスラエルの民は、エジプトを出て、カナンと言われる、今のイスラエルの場所に着くまでに荒野をさ迷っていました。その時、神さまは、毎日毎日、彼らに、天からのマナという甘い食べ物を送り続けられたと聖書は言っています。これは、先祖も味わったことのないものだと言っています。ここで大事なのは、神さまは『毎日、毎日』途切れることなく、マナを与え続けたということです。
◯ マナとはみ言葉
毎日、毎日、神は、彼らにマナを与えたのです。辛いときも多々ありました。恐れることも多々ありました。それでも、彼らは毎日神がくださるマナを頂いたんです。さらに、彼らが、神さまに逆らった時でも、怒った時でも、不平を言った時でも、神さまはマナを与えていたのです。マナとは、ヘブル語で「何(これ)?」という意味です。彼らは、いつもマナすなわち「何これ?」と言うものを食べていました。恐らく彼らはマナだけでなく、他の食べ物も食べていたと思います。パンとマナ。パンと何これ。実は、マナすなわち「何これ」というのは、霊的な糧を象徴していました。
◯ 神の口から出てくるもの
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』聖書が「口」という時、それは、言葉を発する器官だけを意味しません。聖書は「口」とは「心にあるものが出てくる場所」であると言います。
つまり、怒りが心にあると悪い言葉がでてきます。心が穏やかだと穏やかな言葉出てきます。悪い思いでいっぱいだと、口から出てくる言葉はどこか嫌な言葉になっています。しかし、愛で心が一杯であれば、人を生かす言葉があふれ出てくるものです。
もし、神が①愛のお方であるならば、②神のおっしゃる言葉は言ったとおりになるのだとすれば、それはどのような言葉でしょうか。
◯ 神の言葉は命の言葉
今日お読みした詩編の19編にはこう書いてあります。
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」つまり、神さまは、わたしの魂を生き返らせ、無知な私に神の知恵を与えるため、そして、わたしの心に喜びを与え、目に輝きを与えるために、毎日お語りになるお方なのです。そして、詩編19編11節に何と書いてあるでしょうか。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」。マナと同じように甘いと言うのです。クリスチャンはみ言葉、み言葉とよく言います。初めて聞く人には「それが何になるのだ」と思われがちです。つまり、「何(それ)=マナ」なんです。しかし、この「何」と思われる神の言葉に信仰を持った人には命が宿るのです。
◯ 神の心から出てきた愛情がイエス・キリストとなった 。神さまは、その愛情から、憐みから、私たち命を与えたく、私たちと永遠に共にいたいという思いから、何をなさったでしょうか。それは、ご自身の御子、イエス・キリストを世に遣わし、十字架につけられたのです。聖書記者ヨハネは、イエス・キリストは神とともにあった言葉が人となった方だと証ししています。わたしが昨年、なるほどなと思った言葉に、「贈り物は贈り物であることが分かった時に贈り物となる」という言葉があります。贈り物というのは、「贈りたい」という愛情がこもっているわけです。でも、贈り物というのは贈られた方はその愛に気づかないものです。本当の愛情というのは、実は気づかないものなのです。
神様の最高の贈り物は、イエス・キリストであり、イエス・キリストを通して示された神の愛です。すると・・・「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」これは、こう置き換えることができます。「イエス様は完全で、魂を生き返らせ、イエス様は真実で、無知な人に知恵を与える。イエス様はまっすぐで、心に喜びを与え、イエス様は清らかで、目に光を与える。」
◯ イエス様に対する信仰を土台として
「おしゃれは足元から」という言葉があります。なぜ、そのように言うのかは、色々と説があるようですが、わたしは、足元までおしゃれをしっかりとしている人は、全体がしっかりしていて完璧に見えるという意味だと思います。
足元は案外気が付かないようで、実は、全体を引き締めるということに由来すると思います。わたしは、信仰も足元が大事だと思います。足元は案外気づかないことが多く、弱く適当になっていることが多いのです。そのような意味で「み言葉に生きる」ということが当たり前のようで大事だと言えます。
み言葉を軽んじず、時に、原点に返るということです。それは、愛に生きるということ。隣人を愛するということ。そして、イエス・キリストの十字架に帰るということです。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」人は、全体がしっかりしていて完璧に見えるという意味だと思います。足元は案外気が付かないようで、実は、全体を引き締めるということに由来すると思います。私は、信仰も足元が大事だと思います。足元は案外気づかないことが多く、弱く適当になっていることが多いのです。そのような意味で「み言葉に生きる」ということが当たり前のようで大事だと言えます。み言葉を軽んじず、時に、原点に返るということです。
それは、愛に生きるということ。隣人を愛するということ。そして、イエス・キリストの十字架に帰るということです。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」そして「イエス様は完全で、魂を生き返らせ、イエス様は真実で、無知な人に知恵を与える。
イエス様はまっすぐで、心に喜びを与え、イエス様は清らかで、目に光を与える。」このことを大事にしていきましょう。
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