宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マタイによる福音書14章22節~33節
申命記8章1節~3節

 「神さまとの本当の絆」

説教者  江利口 功 牧師

   おはようございます。信仰は、神さまの言葉がみなさまの耳に入ってきたときに起こされます。そしてその信仰はみなさまの中で命となります。栄養ではありません。命です。さびていて動かなくなっていたものが動くように、また、花のつぼみが花をさかせるようにです。今日も神さまはみ言葉をお語りになろうとしています。それは、みなさまに知識を与えようとしているのではありません。みなさまとの間に絆があることを悟らせようとしているのです。神さまはいらっしゃいます。存在しておられます。決して、みなさまは一人ではありません。神さまの目は注がれています。私たちは時に、神さまが沈黙しておられるように感じることがあります。でも、神さまは時を待っておられるのです。

そして、神は、私たちが自分の力にあきらめる時をまっておられるのです。

そのことを今日の聖書箇所は示しています。イエス様は、五千人以上もの人々に、2匹の魚と5つのパンを用いて全ての人の空腹を満たすという奇跡をおこなわれました。それは、旧約聖書で天からマナを神が与えたその神が目の前に現れたことを示すかのようにです。そのような大きな奇跡をおこなわれたあと、イエス様は弟子たちを船に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に渡るように命じられました。しかし、イエス様ご自身は、群衆と最後の交わりを持ち、解散させ、山に登られ、祈る時を持たれました。ガリラヤ湖はとても大きな湖です。

小高い山に登るととてもきれいにガリラヤ湖を見渡せます。私たちは祈るとき、霊的に引き上げられる経験をします。イエス様が祈られるとき、それは、父なる神さまと心を一つにする時でした。絆を深めるときでした。イエス様はいつも祈る時を大事にされていました。イエス様は山で祈っておられたので、人々が生活している世界の様子もまた良く見えたのです。つまり、霊的な気持ちと、現実の世界の間にイエス様は、おられたわけです。イエス様が湖をご覧になると、弟子たちが強風のために船をうまく進めることができず、難儀している姿が伺えました。聖書を読みますと、群衆に食事を与えたのが日が暮れようとしている時であり、イエス様がお祈りされ始めたのも日が暮れた時です。

イエス様が弟子たちにことに気づいたのが夕方なのに、弟子のところに行かれたのが夜の三時でした。わたしは、この時間の経過に疑問を感じました。

なぜ、イエス様は、弟子たちが漕ぎ悩んでいるのに、行かなかったのだろうかと。私たちが弟子の立場でしたら、夕方から深夜の三時までイエス様が行動なさらなかったのを知ればこういうのではないでしょうか?「どうして知っておられたのに助けてくださらなかったのですか?」と。ところで、聖書には、神は、私たちが祈る前に、私たちの願いを知っておられると書いてあります(マタイによる福音書6章8節)。確かにそうであるはずです。全地、全能の神ですから。私たちのことを知っておられるのです。では、なぜ、祈るのでしょうか。なぜ、祈れとおっしゃるのでしょうか。それは、祈りがただ願いを告白する時なのではなく、父なる神さまと心を一つにする時、絆を深めるときだからです。弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを知っていたように、神さまは、私たちが試練の中にいて何を必要としているのかをよくご存じです。時に、それが絶えることができない試練となることもあります。そのような苦難が私たちに何を教えるのかと言いますと、申命記に書かれていることばがその答えです。

「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」このことを私たちが知るためです。これは、言い換えますと、人は自分の力で生きているのではなく、神のみ手の中で生きているということを知らせるためであるということです。弟子たちは漁師です。漁師は船を操るのは得意なはずです。その彼らが漕げなくなったとういことがとても大事なポイントです。つまり、自分の経験や知恵ではどうしても解決できない危険に遭遇しているのです。そして、自分の力に限界を感じるのに時間が必要なのです。

時間が必要なのです。夕方から夜中の三時までイエス様が待っておられたのはそのためです(もちろん、父なる神さまと祈りを通して弟子たちのことを語っておられたと思います)。さて、イエス様は、山を下り、岸部に行き、そこから、湖の上を歩いて弟子たちのところに歩いて行かれます。ここに、神と人との違いが描かれています。人は船を使わないと水の上を移動できない。

さらには、自然の力に逆らって進むことはできない。しかし、神は、天候に左右されることも、沈むこともないのです(物理的な摂理)。もし、イエス様が、船を漕いで弟子たちのところに行かれたのであれば、弟子たちは助け船で来られた程度にしか思えなかったでしょう。しかし、イエス様が、船に乗らず、嵐に翻弄されず、水の上を歩いてこられた時に、この方は、私たちと全然違うという信仰が芽生えるのです。神の子と人とは、生きていられる世界が全然違うことわかったはずです。彼らに、信仰が起こされたのです。

そのことは弟子のペトロを見てもわかります。彼は、超越したイエス様を知っただけでなく、主が命じられると、自分も湖の上を歩くことができるという信仰にまで引き上げられました。そして、実際に、湖の上を歩き始めたのです。

これは、信仰が呼び起こされた人には不思議な力が働くことを意味しています。初めに言いましたが、神は私たちにみ言葉によって信仰を呼び起こされます。それは、錆びて動かなかったものが動くように、また、花のつぼみが咲くようにです。そこには不思議なことが起こることがあります。

さて、ペトロは湖の上を歩いたのですが、嵐に目がいき、不安に感じた時、彼は沈み始めるのでした。魔法が解けたかのようです。ペトロが、「主よ、助けてください」と叫ぶと、主が彼の手を取り、彼を助けるのでした。そして、二人は船に乗り込んでいきました。その時、嵐はおさまりました。夕方から深夜にいたるこの期間は、自分の無力さ、弱さと、イエス・キリストの全能であるお姿との違いをはっきりと心に刻まれる期間となりました。申命記8章にこう書いてありました。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」ここに、神は、彼らを苦しめ、飢えさせたとあります。

しかし、それは、あなたが、神の口からでる言葉(すべてのもの:原文)によって生きることを知るためであった。と神はおっしゃるのです。

人間は、神の前に、弱さを知る必要があるのです。そして、今日の聖書箇所のように、神が、論理も自然の摂理も物理法則をも超えている方であるということを知る必要があるのです。でも、それはただの知識に終わらず、「だから、わたしの力があなたに働くように明け渡しなさい」ということを教えようとされているのです。は、あなたにそのことを知って欲しいと願っておられるのです。そのために、時に神は、どうしても自分の力では乗り越えられない試練をお与えになり、じっと待たれるのです。それは、神さまとの本当の絆を回復させるためなのです。「祈り」についてお話しして終わりたいと思います。

「祈り」は「願い」ではありません。聖書でも「祈り」と「願い」は別の単語です。「祈り」は神さまとの絆を深める時です。祈る時間が長くなるほど、神さまとの絆は深まります。自分を明け渡せば、明け渡すほど、神さまとの間のパイプは太くなります。るときに大切になってくるのは、わたしの理性や経験や考え方を超えた方と会話しているという認識です。今日の聖書箇所ですが、ペトロが信仰者でありながら、おぼれるとき、「主よお助けください」と叫んだとき、神の手によって救われたとあります。お分かりになるでしょうか。

ペトロは二度、自分の力の限界を感じたのです。一つ目は、船を漕いでいた時でした。二度目は沈みそうになった時です。聖書には、越えられない試練は与えられない。と書かれています。しかし、これは、見方を変えますと、主は、試練を与えられるということです。それは、神との絆を回復していくためです。

祈りは、長さではありません。真剣さです。イエス様は試練を通して、ご自身に対する信仰を芽生えさせ、信仰とは何かを教えようとされるのです。

しかし、そうして、神さまとの絆、関係と言うよりも、絆が回復したときに、イエス様が洗礼をお受けになったときに、天が開け、父なる神さまの声が聞こえ、聖霊が鳩のようにくだってきたように、私たちに対して、天の窓が開かれるのです。そして、「あなたはわたしの愛する子」という父なる神さまの声が心にこだましてくるのです。どうして、こんなことになるのか。

自分の力ではどうすることもできない。そんな思いになった時、神さまに真剣に求めてください。自分の力ではどうしようもない時、その時こそ、本当の神さまと出会うチャンスなのです。本当の神さまの姿を知るチャンスなのです。是非、そのことを今日、覚えていただきたいと思います。