宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マタイによる福音書14章13節~21節
詩編23編1節~6節

 「食卓を整えてくださる神」

説教者  江利口 功 牧師

  聖書には「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせた。」(創世記2章9節)と書かれています。

神はアダムとエバのために、園を特別に設け、そのエデンの園を見るに好ましく、食べるに良いものをもたらす木で満たされました。そして彼らに「全ての木から取って食べなさい。」そうおっしゃったのです。神さまは、いつも、私たち一人一人をご覧になっています。そして、私たちに必要なものを与えて下さるお方なのです。まず、今日、覚えて頂きたいこと。それは、神さまは、私たちを愛し、私たちのために、特別な場所を準備し、食べ物で満たして下さるお方だということです。さて、創世記には、神さまが特別な木を二本お造りになったと書かれています。その木は、エデンの園の中央に生えていました。

その二本の木の名前は「命の木」と「善悪を知る木」です。よくご存じかと思います。神が「光あれ」とおっしゃると光がありました。「植物が現れよ」と命じれば植物が現れてきます。「動物が現れよ」とおっしゃれば動物が現れてきます。神の言葉には、私たちの想像を超えた力があります。その神さまが、「命の木」と「善悪を知る木」という風に、その木を呼ばれた訳ですから、それらの木には、真の“命”があり、また、真の“知識を与える力”があるのです。しかし、私たちが知っているように、神さまは「善悪を知る木からは取って食べてはならない」そうアダムとエバに命じられたのです。よく「なぜ、神は食べてはならないものをお造りになったのか?」と言われます。

私はその答えを導くヒントが「命の木」にあると思っています。命の木は園に生えている他の木と同じではありません。命の木がもたらす食べ物は、霊的な食べ物、それを食べる者は永遠に生きる者となるのです。まさしく永遠に命をもたらす木でした。創世記3章22節にこう書いてあります。これは、アダムとエバが取って食べてはならないと言われたその木から取って食べてしまった後の話です。「主なる神は言われた。人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある。」神さまは、園にいたら、永遠に生きる可能性があるとは言っておられません。園の他の木から取って食べても彼らはいずれ土に返るのです。歳を取り、病気になり、そして、土に返っていくのです。しかし、「命の木」は違うのです。「命の木」は人を永遠に生きさせる力を持っています。

霊的な食べ物なのです。アダムとエバは必要な時はいつでもエデンの園の中央に来ていました。霊的な命となる果実を取って食べるためです。しかし、彼らが命の木から取って食べようと命の木の前に来ると、いつもその横には、善悪を知る木があったのです。彼らは善悪を知る木からは取って食べずに、命の木から取って食べるだけでよかった。園の中央にやって来て命の木から取って食べる。これは神を第一とする行為であったし、それがアダムとエバにとって神を愛している証だったのです。ちょっと、ここで、頭の体操をしてみましょう。一枚の絵があります。箱に入ったお菓子が二つ並べて描かれています。

そして、両方の箱から一つずつ出ていて半分に割れています。この二つはコピーして造りましたから、全く同じものと言っていいでしょう。もし、神さまが、こうおっしゃったらどうでしょう。「右側のお菓子を食べると死ぬ」すると、誰も右のお菓子には毒が入っているのかなって思いますね。もし、神さまが「右の箱のお菓子を食べると死ぬ」と言われたら、この箱も同じように毒が入っているのかなって思うでしょうが、もう一つの捉え方があります。

右のお菓子を選んだ貴方は死にます、という意味です。エデンの園にどうして、命の木と善悪を知る木が、園の中に二つ並んでいたのか・・・。何故、神は食べて欲しくない木を生え出でさせられたのか、答えは簡単です。永遠の命とは、神を第一とする人の処に存在しているのです。そして、神のみ言葉を百%信頼する人は、いつでも霊的な命に包まれているのです。先ほどの絵にある半分になったお菓子、科学的には毒は入っていません。善悪を知る木の実を調べても、毒は出て来ません。むしろ、神がお造りになったのですから、見るに好ましく、食べるに良いものなのです。永遠の命は、「ここにあなたの永遠の命の食べ物がある。」その神の言葉を信じ、そうして、神が整えて下さった食べ物の前に行き、それを戴く、それが、永遠の命に至る方法なのです。

そして、その場所に本当の人の安息があるのです。もう、お分かりかと思いますが、イエスキリストは、その安息を教会の中に準備してくださっています。この聖卓です。私たちは、イエス・キリストというお方が整えて下さった食卓、そこにある霊的な命に与かりに来るのです。エデンの園の命の木の前に来るように。さて、今日の福音書ですが、皆さまよくご存じの話です。

二匹の魚と五つのパン用いて、イエス様が男だけで五千人の人たちに食べ物を与えられたという話です。これは、イエス様の奇跡をただ弟子が書き記したものではありません。この話は、イエス様が神さまであるということ。

また、旧約聖書を通してずっとイスラエルの民と歩んで来られた神が人となったお姿がイエス様であるということを表しているのです。少し長文ですが、詩編の78編17節からご覧ください。「彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとし、神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整えることが神に出来るだろうか。神が岩を打てば水がほとばしり出て川となり、溢れ流れるが民にパンを与ええることが出来るだろうか、肉を用意することが出来るだろうか。」主はこれを聴いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり、怒りはイスラエルの中に燃え盛った。彼らが神を信じようとせず、御救いに依り頼まなかった。それでも尚、神は上から雲に命じ天の扉を開き、彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きる程の糧を送られた。神は東風を天から送り、御力をもって南風を起こし、彼らの上に肉を塵のように降らせ翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ、彼らの陣営の中に宿る処の周りに落としてくださった。彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。」(詩編78編17節~29節)経緯は別としまして、神さまは、イスラエルの民のために、荒れ野であったにも関らず、天を開き、天からマナを降らせ、有り余るほどの鳥の肉を彼らに与えられました。これが出エジプト記の話です。

この話が、今日のイエス様の奇跡と重なるのです。イエス様を求めて大勢の人がやってきました。イエス様は、彼らにみ言葉を語り、彼らを癒されました。恐らく、病をいやしながら、あなたの罪は赦された。安心して行きなさい。

神の国と神の義をただ求めなさい。あなたの信仰があなたを救った。・・・色々な言葉をお掛けになったことと思います。しかし、日も暮れようとしている時、イエス様は、人々のために、肉とパンをお腹いっぱいになるまで与えられたのです。食べ物が手に入らない人里離れた荒れ野で。この出来事を通して、イエス様は、ご自身がエジプトを出てからずっと民と一緒に歩まれた神であることをお示しになろうとされたのです。でも、それだけではありません。

ヨハネによる福音書を見ますと、もう一歩、深い意味が隠されていることが判るのです。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしは天から降って来たパンである。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンである。これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネによる福音書6章48節~51節)イエス様こそ、命の木、そして、イエス様から命の糧を戴いたのです。

イエス様の中に、永遠の命が湧き出ているのです。「イエス様は言われた。はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得、わたしはその人の終わりの日に復活させる。」  (ヨハネによる福音書650節~54節)天からのパン、わたしの肉、これは、よく判ります。

ではぶどう酒は何を意味しているのでしょうか。それは、罪の赦しです。

イエス様の血による罪の赦しです。私たちは、祝福のパンと罪の赦しを与える命を戴かなければなりません。もう一度、エデンの園に戻りましょう。

エデンの園には、沢山の木がありました。それらは、朽ちる食べ物でした。

しかし、園の中央には「命の木」がありました。これは、永遠に命に至らせる実をもたらす木でした。アダムとエバが、園の中央に行き、そこにある命の木から取って食べるとき彼らは永遠に生き続けることが出来ました。

今、私たちは、聖餐式のテーブルの前にいます。ここに霊的な糧があります。多くの人が言うでしょう。それを科学的に分析しても、ただのパンとぶどう酒(ジュース)です。しかし、私たちは、イエス様の言葉を信じているのです。

「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得、わたしはその人の終わりの日に復活させる。」 (ヨハネによる福音書650節~54節)そして、イエス様はパンを取っておっしゃいました。

取って食べなさい、これはあなたのために与える私の体です。そして、この杯を飲みなさい。これは、罪の赦しを得させるようにとあなた方に与える、わたしの血による新しい契約です。ここに、信仰が働く時、パンとぶどう酒は霊的な糧となるのです。そこから取って食べるのです。神を信じて、その前に集い、信仰をもって、それを戴く時、私たちの霊的な命が蘇るのです。

何を食べるかではなく、何から取って食べるかです。神が与えて下さるものから取って食べるのです。さて、詩編23編を見てみたいと思います。

主は羊飼い、私には何も欠けることがあない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水の畔に伴い、魂を生き返らせて下さる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。(詩編231節~3節)私たちは今日、五千人の人たちが、青草の原に憩い、糧が与えられている姿を見ました。イエス様の中にダビデが見た主の姿があるのです。そして、ダビデはこう言っています。

私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓をと問えて下さる。私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせて下さる。(詩編235節)神さまは、いつも、愛する者のために食卓を整えてくださるお方なのです。エデンの園がそうでした。そして、エジプトで初子が全て打たれている時も、イスラエルの民は、建物の中で子羊の肉とパンを食べていました。神が彼らに安息を与えられたのです。同じように、神は私たちに、いつも、この場所で、食卓を整えて下さるのです。ここで戴くのは、霊的な糧、でも、神が臨在し、そこに糧が与えられた時、そこに私たちの安息があるのです。ダビデは敵が多かったのです。心落ち着く時は、いつも、主の前に出る時だったのでしょう。

今、コロナで世間が騒いでいます。でも、そのような時でも、主は、私たちに食卓をこうして整えて、さあ、食べなさい。命の糧を食べなさいとおっしゃいます。コロナに限りません。色々な問題を前にしても、神は、私たちを食卓の前に招き、安息を与えようとして下さるのです。今から、聖餐式を執り行います。私の立っている位置から見ますと、イエス様の十字架はイエス様ご自身に見えるのです。そして、その前に、パンとぶどう酒が並べられていて、私は弟子のように、皆さまに給仕するのです。また、こうして、島のように間隔をあけて、座っておられる姿は、イエス様の前に、五十人、百人づつ座った、荒野のパンの前の人たちに見えるのです。今日の福音の出来事は、朽ちる食べ物の話ですが、私たちは朽ちない、霊的な食べ物の前に、今集っています。

主は、霊的な食べ物、永遠の命に至る食べ物を今、私たちに与えようとしてくださっています。キリストのこの食卓から取って食べる人は、み言葉の約束にあるように、永遠の命に生きている人なのです。