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少し前のことですが、深夜に用事が出来て会堂に行きました。
玄関に近づいた時、傘立てがガタガタと動いてドキッとしました。
猫かなって思ったのですが、猫であれば、すぐに走り去っていくでしょうから違うなと思いました。蛇かなとも思ったのですが、蛇はそんなに俊敏な動きはしません。「ワッ」って声を出すとババババって隅に逃げていきました。
更に追いかけるとピョンピョンと大きく跳ねているのが薄暗い明かりの中に見えました。カエルだなと思ったのですが、初めに建物の陰に行った時はカエルの動きではなかったように思えます。結局、何の動物か判りません。
何故でしょう。わたしの目が悪いからでしょうか。そうではなくて、光がないからです。いくら目が良くても、光がなければ、見ることは出来ません。
まずは、光があって、目はその光を通して物事を判断するのです。この世界には二つの光があります。一つは太陽の光です。天地創造の四日目に造られました。もう一つ、夜を照らす光があります。それは、神さまの栄光の光、神さまの霊的な光です。これは、天地創造の“一番初めの時に顕れました。”
この光は造られたのではありません。この世界に顕れた光です。
この栄光の光は、輝かしく見える光です。この栄光は、世界を覆って支配しています。この栄光の光は、輝かしく見える光です。また、目には見えない光でもあります。私たちに、神が支配しておられるこの世界の本当の姿を悟らせる光でもあります。神さまが霊的な光で照らしてくださると、私たちには真理が見えてきます。歩んでいる道、歩むべき道が見えてきます。そこに何が待っているのかを知ることが出来ます。エレミヤ書を見ますと、それは、災いではなく、平和の計画であると書かれています。また、パウロは私たちの人生は、万事が益となるように神が働いてくださると言っています。(エレミヤ書29章11節)(ローマの信徒への手紙8章28節)神の栄光が顕れる時、そこには喜びがあります。希望が与えられるのです。平安が与えられるのです。
植物が太陽の光が必要としているように、私たちは、目に見える神の栄光、目には見えないけれども悟りを与える霊的な光をいつも必要と「しているのです。そして、私たちは、一つのことを決して忘れてはいけません。
それは、神はそのご栄光を、神の御子イエス・キリストを通して、私たちに表されたということです。イエス様は、私たちに全てを教えて下さるお方なのです。さて、今日のみ言葉を見ていきたいのですが、今日は「独麦の譬え」と呼ばれているお話です。「天の国は次のように例えられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人の処へ来て言った。「旦那様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」主人は「敵の仕業だ」と言った。そこで僕たちが、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は言った「いや、毒麦を集める時、麦まで抜くかもしれない。刈り入れ迄、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦の報は集めて蔵に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう」(マタイによる福音書13章24節~30節)確かに、当時の麦畑に、毒麦と呼ばれる雑草が生えて来ることが多くありました。一般的には、畑をしている人は、雑草をこまめに抜くということをしていたかも知れません。毒麦と呼ばれる雑草は麦によく似ていたそうです。また、毒麦の根は、良い麦の根と絡み合ってしまうので、毒麦を抜く時に一緒に良い麦まで抜いてしまうといいう危険があったそうです。ですので、当時の人たちは、毒麦も良い麦もそのまま成長させて、刈り入れの時に一緒に刈って、それから選別して毒麦を処分していたそうです。
ですから、この譬え話は、当時の人からすれば、よく判るし、イエス様は、この様子が天の国と同じですとおっしゃるのです。どういうことだろうか?・・・これでしたら「サルも木から落ちる」というように言葉遊びだけで終わっているようなものです。イエス様は、弟子たちにこの譬えの意味をご説明なさいました。「善い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は天国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるもの全てと不法を行う者共を自分の国から集めさせ、燃える炉の中に投げ込ませるのである。そこで、泣きわめいて歯ぎしりするだろう。その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」(マタイによる福音書13章37節~43節)さて、皆さまは、この譬え話をどう理解されましたか。
アリとキリギリスという童話があります。あの話を書いた人は、キリギリスのようになっては駄目ですよという教訓を書いたのです。しかし、子供たちの中には、アリに焦点を当てる子供がいたそうです。ですから、アリとキリギリスのお話は二つあって、一つはキリギリスが死んでいくという話と、アリさんがキリギリスを憐れんで、食べ物をあげるという話です。一方は律法的で、もう一方は福音的ですね。イエス様の毒麦の譬えは、律法的でしょうか。
福音的でしょうか?それは、自分が、良い麦か悪い麦かのどちらに焦点を当てるかで違ってきます。自分を毒麦として理解すると、この譬えは、律法というか裁きの言葉になってしまいます。しかし、この言葉を理解するならば、毒麦は決して、良い麦にはならないのです。つまり、滅びの子として自分は生まれた以上、救われる可能性はないという解釈になってしまいます。
そうなると希望はありません。でも、恐らく、当時の人たちの中には、自分は毒麦だと思ってしまう人もいたのではないでしょうか。例えば、重い皮膚病を患ってしまった人、中風の人、目の見えない人、口のきけない人、徴税人、娼婦、そして異邦人、・・・そういった人たちは、聖書を知っている偉い人たちからは、罪人とレッテルを貼られていました。彼らはこの譬えを喜んで聞けたでしょうか。そのままでは、福音には聞こえないでしょう。
彼らもまた、イエス様を知り、教えられながら、この譬えが福音に聞こえるようになるのです。親に愛されずに育った人は、自己肯定感が低いと言われています。ある牧師のお話ですが、親に「あなたが生まれてこなければ良かった」と言われたために、生きる希望を失っていた人が、「あなたに命を与えたのは神であって、あなたが生まれてきてくれてよかったと思ってくださっている」という意味の聖書の解説を聴いて、福音に大きな喜びと希望を感じたそうです。譬えだけで話された時、その意味が分かりません。その意味が話された時、その譬えの意味が見えてきます。しかし、聖書の言葉は、もう一歩、進んでみなくてはなりません。それは、イエス様を通して、イエス様の光を通して読まなければなりません。皆さまのよくご存じのみ言葉にこういうみ言葉があります。「灯火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聴きなさい」(マルコによる福音書4章23節)このみ言葉は、イエス様が譬え話の話をなさった後に語っておられる言葉です。ですので、これは、譬えを読むときには注意しなければならないことを教えているのです。ここで「灯火を持って来る者は」と書いてありますが、そう言われると、誰が持ってくるのかな?私が持ってくる時かなって思うじゃないですか?でも、もともとのギリシア語では、どう書いてあるかと言いますと、「灯火がやってくるのは」となっているのです。イエス様がおっしゃった言葉に「わたしは世の光です。」という言葉があります。そうなんです。これは、わたしが世にやって来たのは、あなたの目を開くため、聖書の言葉の本当の意味を教えるため、あなたの目の前を照らすためなのです。そういうメッセージなのです。イエス様の光で燈すと、隠されていたものが全て見えるようになってくる。そう教えているのです。
私は中学生の頃に聖書と出逢ったのですが、実際に教会に行くようになったのは、もっと、期間が経ってからです。そのきっかけは「愛」を学びたかったからです。その答えを求めて、教会に行き始めました。でも、教会に行っても、愛する方法は聞けませんでした。解き明かしはいつも自分が罪人であることで、イエス様の十字架の話ばかりでした。神学校に行き、牧師になり、段々見えてくるものがありました。「愛する人になりたいのですか?だったら、わたしを見なさい。そうおっしゃるようでした。私がしていたのは、愛そう、愛そうと自分の力に頼ることでした。でもイエス様は、「ストップ、ストップ、信仰です。信仰です。信仰があなたを変えるのです」とおっしゃるのです。
そうなると私は、「はい、信仰で頑張ります。頑張ります」と返していました。すると、信仰とは、自分の業を止めることだとイエス様はおっしゃるのです。愛とは、私が想像していたものとは、全然違うものであることが判ってきました。本当の愛は、イエス様の中にしかありません。そして、その愛は、触れる人を変えていく力があります。イエス様の業です。私は何もしなくて、ただ、マルタの妹のマリアのように、動きを止め、イエス様の前に座り、聖書を開き、イエス様の十字架を見て祈ることが、自分が変わる方法だと解りました。「灯火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聴きなさい」(マルコによる福音書4章23節)真理を知りたいとき、行くべき道を知りたいとき、未来の不安を解決したいとき、是非、イエス様の栄光の光に照らして、み言葉を呼んでみてください。また、それを解釈する人の言葉を聴いてください。神さまの栄光を通してみることが出来ると、そこに、喜びと希望が湧き上がってきます。これが霊的なものが見える人に与えられている幸いです。
今日はこの後、聖餐式を行います。私たちの前にある、パンとぶどう酒の向こうにキリストが立っておられます。そして、パンとぶどう酒と共に、キリストの命があります。神の栄光はそのことを照らし続けています。
まだ、信仰の目をもってしても、良く見えていない方もいらっしゃるかと思います。でも、ここの命があるのです。そのことが見えてくると、喜びと希望が湧き上がってきます。
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