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小さい頃、出かける時に、お母さんが皆さまによく言った言葉はなんでしょうか?「傘持った?」「習字道具持った」「忘れものない?」そんな言葉ではなかったでしょうか。必要なものを忘れる・・・。それが私たちです。
言ってくれる人が居るといいのですが、大人になってくると、さすがに言ってくれる人は少なくなってきます。ですので、自分の身の回りにものを確認しなくてはなりません。必要なのに、忘れている・・・でも、声をかけてもらって思い出します。もし、皆さまが、出かける時、こう声をかけられるとどうでしょうか?「財布持った?」「定期券ある?」「診察券持った?」「信仰持った?」「信仰忘れてない?」出かける時に、忘れてはならないものは、信仰です。
持っていくことではなくても、持っていることを忘れてはならないのが信仰です。朝に余裕のある人、ほとんどいません。多くの場合、いきなり、一日が始まってしまいます。目の前のことに気が奪われてしまうのは確かです。
しかし、バタバタしていたマルタにイエス様はこうおっしゃいました。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカによる福音書10章41節42節)マルタに欠けているものは、マリアのように、イエス様の傍近くにいて、イエス様の声を聴くことでした。家と世間は全然世界が違います。私たちは、家を出ると、社会との関りが始まります。家から一歩出ると、そこは、色々な人がいる世界、色々なことが起きる社会です。甘えなど赦されません。御免で済んだら警察はいらない世界です生きるって大変です。小学生であっても、小学生なりの心配事があります。学生であれば、学生なりの重荷、心配事があります。
大人になれば、もっと大きな問題を抱えることもあります。その時、大切なことは、イエス様を意識し、イエス様の声を聴くことです。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛
くびき を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは、安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28節~30節)
今日は、このみ言葉を見ています。休ませてあげよう。安らぎを得られる。
ここで、休ませるというのは、“一息つかせてあげよう”という意味もありますが、“思い煩いの生き方から解放してあげます”という意味もあります。
イエス様は知っておられます。私たちが疲れているということを。
肉体的にも、精神的にも、霊的にも、疲れている。これが私たちです。
休ませる、解放する、そのために必要なのは何かと言いますと、イエス様はこうおっしゃいます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」イエス様はただ、「疲れて、人生の重荷を負っているのなら、わたしのところに来て、休みなさい。」そういうことだけを言っているのではありません。
イエス様の言葉は、旧約聖書と合わせてみるとよく判ることがあります。
ここでは、“重荷”という単語と“軛
くびき ”という二つの単語がカギになっています。先ほどお読みしました、イザヤ書にはこう書いてあります。
「それ故、万軍の主なる神はこう言われる。シオンに住む我が民よ、アッシリアを恐れるな、譬え、エジプトがしたように彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても、やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。万軍の主は、彼らに対して鞭を振るわれる。かつて、オレブの岩でミディアン人を打たれたように。また、エジプトでなされたように、杖を海の上に伸ばされる。その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる。」(イザヤ書10章24節~27節)
重荷を取り除き、軛を砕くというのは、不自由からの解放、支配からの解放を意味します。イスラエルの民は、これまで、色々な敵と戦ってきました。
時には奴隷になってしまいました。偶像礼拝をしたために、滅ぼされ、連れ去られて行きました。彼らが、その状態から抜け出せないのは、彼らが他の神を崇めたり、神の力を信じなかったからでした。では、彼らは自ら神を見出し、帰って行ったのでしょうか?彼らの神を求める声を聴き、神が彼らを顧み、彼らを導き、連れ出したのです。そして、多くの場合、人が驚く“しるし”が伴っていました。この世の力に支配されている状態、また、この世の価値観で生きている状態を、軛を付けられ、重荷を負わされている状態というのです。
イエス様が「荷を下ろして休みなさい、わたしの軛を負いなさい」とおっしゃる時、それは、見えない古い軛を負う人生から解き放たれ、新しい生き方に変わることを意味します。主がなさろうとしているのは、私たちの生き方を180度変えると言いうことです。「これどうなるのかな」「明日どうなるのかな」「どう言えばいいのかな」・・・色々なことを思い煩いはあります。
そういう時、どうすればいいのでしょうか?コリントの信徒への手紙にはこう書いています。主の方を向き直れば、覆いは取り去られます。(コリントの信徒への手紙Ⅱ3章16節)主の方を向けば、主と一緒に、主が行こうとされる方へ進めば、未来の不安は取り除かれていくのです。そのためには、考え方を180度変える必要があります。霊によって生きることです。イエス様の譬え話で、「愚かな金持ちの譬え」があります。金持ちが愚かだと言っているのではありません。彼の生き方や考え方が、この世的だったので、それをイエス様は、愚かであるとおっしゃっているだけです。彼は、物凄い豊作に恵まれました。彼は沢山採れた穀物を入れる蔵を立てようと考えます。これはいいのです。でも、彼はこう言っています。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの貯えが出来たぞ。食べたり飲んだりして楽しめ」ここで“一休みして”という言葉が使われているのですが、この休むという言葉も、イエス様が使われた“休ませてあげよう”という単語と同じです。金持ちは自分の富に、安らぎを感じていました。目に見える富に安らぎがあると考えたのです。
一方で、ダビデは詩編23編でこう言っています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」ここで言われている「憩い」という言葉は、イエス様が使われた「安らぎ」、金持ちが言った「休む」という言葉と同じです。ダビデがこの詩を詠んだときは、私たちが言う、平和、平安な状態ではないんです。
でも、ダビデはその境遇で、主と共にいることに安らぎを見出したのです。
愚かな金持ちが何に安らぎを感じ、ダビデが何に安らぎを感じていたのか分かるでしょうか。イエス様だけが、私たちに本当に必要なものを知っておられ、私たちに必要なものを与え続けることが出来るお方なのです。是非、イエス様の方を向いて、イエス様が行かれる方へ一緒に歩もう、そう思って欲しいのですが、その時に一つ知っておいて戴きたいことがあります。最後にそのことをお話しします。イエス様は、わたしと“一緒に軛を負いなさい”という風におっしゃいません。わたしの“軛を負いなさい”とおっしゃっています。
ここに二つの意味があります。私たちはこれまで、この世の価値観で生きて来ました。悪魔の軛です。悪魔の軛はいつも人を不安にします。与える安らぎは本当の安らぎではありません。しかし、イエス様は、わたしの軛を負いなさいとおっしゃいます。それは、神がご準備された軛です。それは、新しい生き方です。また、本当の安らぎを提供します。これが、わたしの軛とおっしゃる一つ目の意味です。そして、もう一つあります。それは、軛というのは、その形を見ても想像できますが、聖書では、天秤のような秤
はかり も同じ単語を使います。ですから、軛とは、二つのものがバランスよく繋げられているということを意味します。つまり、軛を負う時には、私と一緒に軛を負ってくれる存在が必要ということになります。それが、イエス様なのです。しかし、注意しなければならないことがあります。民数記19章をご覧ください。
主はモーセとアロンに仰せになった。主の命じる教えの規定は次の通りである。イスラエルの人々に告げて、まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雄牛連れて来させなさい。それを祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る。祭司エルアザルは、指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りまく。ここで、軛を負ったことがない、無傷の欠陥のない雄牛と書かれていますが、軛を負ったことがないというのは、清さの象徴なのです。更に自由の象徴なのです。神の御子であるイエス様は、軛を負う必要がないんです。軛を負ってはならない方なのです。それは、神の独り子だからです。神の独り子が仕えるというのは相応しくないのです。でも、そのイエス様があなたと一緒に軛を負いますよ、いえ、あなたと軛を一緒に負うために来ました。そうおっしゃるのです。何故ですか?あなたを救うためです。イエス様が十字架に架かられた時、両側にイエス様と同じように十字架に架かっていた人がいました。その一人の人がイエス様を神と告白し、謙遜に「私を思い出してくださるだけで結構です。」そう願ったとき、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」そうおっしゃいました。彼の視点でみるならば、イエス様は、彼を救うために、同じ姿にまでなられたのです。神なのに彼の傍らにまで降りられたのです。罪がないのに、罪人にまでなられたのです。死ぬ必要がないのに、死を選ばれたのです。
彼を楽園に導くためにです。彼は人生の最後にイエス様に出逢うことができました。イエス様が十字架のあのような姿になってまで傍に来てくださったから、イエス様と出逢えました。軛を負う必要のない方が軛を負われた。
それは、罪人を救うためでした。それは、私たち一人一人のことです。
イエス様は、ご自身を求める者を求めて、降って、降って、降って行かれるお方です。そのイエス様が、さ、こちらだよ」と、「新しい生き方を始めよう、わたしの軛を負って一緒に行きましょう」そうおっしゃるのです。生きるって大変です。心配事があります。不安があります。問題がいっぱいです。
でも、それをこの世の方法で解決しようとしていませんか?負けると言うことを、恥のように感じていませんか?イエス様は十字架に架かり、人にあざけられ、死にまで従われましたが、復活されました。イエス様が共にいて下さる。それだけで、そこに勝利があります。誰かが出かける時、「信仰持った」そう言ってあげるのもいいかも知れません。自分自身には「信仰持ったかな?」そんな確認をしてもいいでしょう。イエス様の存在を意識してください。
イエス様が行く方向は、私たちが思う方向と違うことがあります。
でも、そこに勝利があり、最後には、魂の平安があります。神さまがくださる新しい価値観がある。そのことを忘れないでください。
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