宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マタイによる福音書10章40節~42節
創世記14章17節~15章1節

 「神による報い」

説教者  江利口 功 牧師

 

教会はキリストの身体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場所です。(エフェソの信徒への手紙1章232節)

このみ言葉を覚えておられますか?私たちが集まる時、イエス様の何かがこの場所を満たしています。何でしょうか・・・イエス様はこうおっしゃいました「二人または三人がわたしの名によって集まる処には、わたしはその中にいる。」(マタイによる福音書18章20節)イエスキリストの名によって私たちがここに集まっているのであれば、私たちの主イエス様は、ここにいます。ですから、私たちがまず、礼拝において捉えなければならないのは、主の存在です。そして、この空間の中で、語ろうとしておられる主の言葉を感じなくてはなりません。私の言葉そのものでないこともあります。私が語っている言葉のちょっとしたフレーズでもいいし、聞いた時にふと浮かんできたことでもいいし、それを、主の言葉として受け止めて欲しいのです。

私たちの思いの中で、今、主が私たちの間におられるという認識がとても大事になってきます。イエス様は、「あなた方が集まる時、わたしはその中にいます」そうおっしゃいます。しかし、一つ言葉が付いています。

「わたしの名によって集まる」とは、集まった私たちが主役ではなくて、主役がイエス・キリストであるということを意味しています。そこでは、御名が崇められ、御名が唱えられ、御名で祈りが捧げられ、御名が賛美されます。

礼拝の空間こそ、イエス様が一番近くにいらっしゃる時なのです。

ここで、「御名によって」という言葉はとても大事な言葉だということを覚えてください。イエス様は、弟子たちを集め、その中から12人を選び、福音を宣べ伝えさせました。勿論、この時は、まだ、イエス様が十字架に架かっておられないので、託した言葉は、「天の国は近づいた」という言葉です。

この言葉は、「メシアが来られた」ということを意味します。

また、神があなたの人生の重荷を解放してくださる時が来た」ということを意味します。イエス様は、弟子たちを派遣する時、帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。余分な履物も、杖も持って行ってはならないとおっしゃいました。どうしてでしょうか?イザヤ書にはこう書かれています

いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は、彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は主となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声を上げ、皆共に喜び歌う。(イザヤ書52章7節~10節)そうなんです。弟子たちがよい知らせを告げ知らせる時、人々は、その告げ知らせる喜び、その告げ知らせる彼らを迎え入れるからです。何も持たない代わりに、イエス様が弟子たちに与えたのは、汚れた霊に対する権威です。「この権威によって、あなた方は、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒しなさい。」そうおっしゃいました。イエス様が、彼らに与えたのは、汚れた霊と戦う根気とか、勇気とか、武器ではありません。彼らに与えたのは、汚れた霊に対する権威でした。

違う聖書箇所では、宣教から帰って来た弟子たちは、こう言って喜びました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」

イエス様のみ名によって、悪霊に命じると、悪霊が出ていくのです。

また、病人に御名によって命じると、癒されるのです。その権能を弟子たちは戴いたのです。権能とは、もともと人が持っている権威です。

しかし、その権威に命じられたのもまた、その権威を用いることが出来ます。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」

弟子たちが、イエス様の権威力に対してどれだけ驚いたのか、想像できるのではないでしょうか。このように、“イエスのみ名によって集まる時”に、大切なのは「信仰」です。でも、それは「知識」ではありません。

必要なのは「イエス様の言葉に対する確信」です。神さまは私を祝福してくださる。神さまは私を見捨てない、神さまは私を愛してくださっている。

それは、神さまが約束してくださっていることだし、その権威がある時、その約束はすべて、私たちのものとなるのです。旧約聖書にアブラハムという人物がいます。信仰の父と言われていますから、よくご存じかと思います。

ちなみにアブラハムは、始めアブラムという名前でした。アブラムがアモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいたとき、一人の男がアブラムのところにやってきます。彼はアブラムに、戦が起こっていて、あなたの甥のロトがいるソドムが負けそうになっていると伝えます。アブラムはそのことを聞き、訓練を受けた者、380人を集めて、ロトを助けようと進軍します。功を奏してアブラムは勝利するのですが、その帰り道に、一人の人が現れます。メルキゼデクという祭司です。聖書は、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクと言っています。へブル人への手紙では、メルキゼデクの中に、イエス様を見ることが出来ると言っています。さて、アブラムに近づいてきたメルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って彼を祝福しに来ました。聖餐式のようですね。

メルキゼデクはアブラムを祝福してこう言います。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように、敵をあなたの手に渡された。いと高き神が讃えられますように」恐らくアブラムはメルキゼデクと逢ったのは初めてだと思います。アブラムはこの祭司を特別な祭司だと思いました。メルキゼデクは言っています。「天地の造り主いと高き神にアブラムは祝福されますように」メルキゼデクは、自分の富や権力によって、アブラムを祝福したのではありません。“天池の造り主、いと高き神”からあなたは祝福を受けますと言っています。アブラムは、それを喜んで受け入れました。アブラムは、メルキゼデクが本当に神から遣わされたことを受け入れたことが分かるのは、アブラムが自分の持っているものの10分の一をメルキゼデクに捧げたことから判ります。アブラムは、喜んで、メルキゼデクの祝福を受け入れました。

つまり、神さまからの祝福を喜んだのです。メルキゼデクの後、今度はソドムの王がやってきました。ソドムの王とは。アブラムが戦争に加わったことで、勝利した国の王です。ソドムの王は、お礼に取り戻された財産は受け取ってください。そう言ってきたのです。しかし、アブラムはこう言います。

「私は、天地の造り主、いと高き神、主に手を挙げて誓います。あなたのものは、糸一本、靴紐一本でも、決して戴きません。「アブラムを祝福したのはこの私だ」と、あなたに言われたくありません。私は何も要りません。」

このことは、何を意味しているのでしょうか?神からの報いと、人からの報い、アブラムは、神からの報いのみを自分の祝福の基としたいと戦ったのでした。その後、アブラムに何が起こったのでしょうか。聖書はこう書いています。これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。

「恐れるな、アブラムよ、わたしはあなたの盾である。あなたが受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは、メルキゼデクを神さまの名によって来た方だと信じ、そして、その方から戴だける祝福だけを、祝福として受け取りたい、報いとして受け取りたい。そう願った後に、神はその信仰に対して、「あなたの受ける報いは非常に大きいだろう」そうおっしゃったのです。

勿論、言葉だけではありません。アブラムは知っていました。「主よ、わたしを見てください。子供もいません。家は、違う者の子供が継ぎます。

あなたが私に子供を与えて下さらなかったので、僕が跡を継ぐことになりました。」アブラムは自分があまり祝福されているとは感じていなかったのかも知れません。それでも、アブラムは何時でも、人ではなく、神の祝福を自分の人生の祝福にしようとしていたのです。そのアブラムに神はこうおっしゃいました。「あなたの跡を継ぐのは、あなたから生まれた子供です。」「天を仰いでみて見なさい。この星ほどにあなたの子供は増える」そうおっしゃったのです。アブラムはその言葉を信じました。つまり、受け入れたのです。

その後、神は、彼にイサクを与えただけでなく、肉の父としても沢山の子孫を与え、ユダヤ人の信仰の父としても多くの子孫をお与えになりました。

アブラムは、メルキゼデクを神の遣いだと受け入れました。その時、神がメルキゼデクを遣わして与えようとした祝福がアブラムのものとなっていったのでした。これは、型です。イエス様は、弟子たちに悪霊に対する権能を与え、それから、こうおっしゃいました。「あなた方を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」ここでは何度も「受け入れる」という言葉が出て来ます。

弟子を受け入れる人は、弟子ではなくてイエス様を受け入れることになるのです。つまり、イエス様が見えるようになる、イエス様との関係性が始まるということです。それは、イエス様の愛に生きる人となるということでもあります。では、イエス様を受け入れる人は、イエス様を遣わされた方を受け入れるとはどういうことでしょうか。イエス・キリストというお方は、大祭司というお方であるとへブル人への著者は言います。祭司というのは、特別で、年に一度、民全体の罪の贖いのために犠牲の羊を屠り、その血をもって、一年の気づいた罪、気づかない罪、全ての罪の贖いをする人でした。イエス様は、その大祭司なのですと、聖書は言うのです。しかし、イエス様は、動物を連れてきて犠牲に捧げたのではありませんでした。罪の赦しのための動物ではなく、ご自身の命を罪の赦しのための犠牲になさったのです。つまり、イエス様は父なる神の前に大祭司として立ち、こうおっしゃったのです。「わたしは来ました。わたしは全ての民の罪の赦しの犠牲、宥めの香りとなるために、わたしは来ました。わたしが全ての人の罪を背負います。私を通して、全ての民の罪をお許しください。彼らの罪を私の罪としてください。彼らは、罪清められた時には、あなたが私にくださっていた祝福を全て彼らに与えてください。」

イエス様はそう言って十字架に架かって、死んでいかれました。

これは、イエスキリストを、メシアとして受け入れる者は、イエスキリストと共に神に見なされるということです。つまり、イエス様を受け入れた人は、罪の赦しを戴き、神がイエス様を受け入れたように、その愛と同じ愛を受けることが出来る。更に、愛と義に生きたキリストを神が復活させられたのですが、同じように、イエス様を受け入れる人は、その同じ報いを受け復活するということなのです。父なる神さまのメッセージはこうです。わたしの愛する独り子をあなたが受け入れるなら、わたしの愛する独り子イエスキリストがあなたのためにした、全てのことがあなたのこととなる。そして、わたしが御子を愛したように、わたしの愛は、あなたに豊かに注がれるようになります。

預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受けると書いてありますが,イエス様を、メシアとして受け入れる者は、イエス様と同じように神の祝福を受けるということなのです。さて、アブラムは、人からのお礼を断り、神からの祝福を一番の願いとしました。それは、神の恵みに勝るものがないといいう信仰を持っていたからです。私たちは、どうでしょう?

イエス様の存在そのものに、どれだけの喜びを感じているのでしょうか。もし、まだよく分からない・・・という方がいらっしゃったら、また、この世のものに安心、喜びを感じるものがあるというのであれば、もっと、イエス様を見てください。もっと、イエス様を受け入れて欲しいと思います。

イエス様が、ここに集う私たちに与えたいと願っておられるのは、私たちが想像している以上に、豊かなものなのです。