宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書14章1節~10節


 「愛は必ず道を探す」

説教者  江利口 功 牧師

この前、ある学者の方がヌーの話をしていました。ヌーは牛に似た動物で、食べ物を求めて群れで移動し、特に大群で川を渡ります。

しかし、悲しいことに川を渡る時に何頭かはワニの餌食になってしまうのです。それでも、ヌーは食べ物と繁殖を求めて移動し続けるそうです。

一人のコメンテーターがこう尋ねました。「川を渡らない選択をする群れはないのですか?」すると、学者の方は「ない」と答えられました。

犠牲があっても群れ全体の存続を優先させる。わたしは自然界の力強さを感じました。また、この話を聞いた時に、大学生の頃に見た映画のセリフを思い出しました。「ジュラシックパーク」という恐竜を題材にした映画なのですが、その中でこういうセリフがありました。Life will find a way (ライフ ウィル ファンド ア ウェイ)この言葉は、映画の中で、数学者の人が言った言葉です。Life will find a way、映画での日本語訳は「生命は繁殖する道を探す」となっていました。このジュラシックパークという映画は、蚊のお腹に残された恐竜の血液の遺伝子を使って、恐竜を再び蘇らせるという話です。そして、蘇えらせた多くの恐竜をサファリーパークのようにして見物できるようにするのでした。勿論、人には害を与えてはいけませんから、色々と予防します。

例えば、恐竜を放し飼いにするのですから、逃げていかないように離島の中で運営します。また、好き放題に繁殖するとどうなるか判らないので、雌だけを島に放とうと考えるのです。そうすれば、子供を勝手に産まないので、恐竜の数を管理し続けることが出来ると考えたのです。そういった方法を得意げに話す技術者に対して数学者が言った言葉がLife will find a way、でした。

この数学者はこう言っていました。「生命を甘く見てはいけない。生命は押さえつけることも管理することも出来ない。生命は危険を冒してでも、垣根を壊し、自由な成長を求めるのだ」この映画では、他にも恐竜を制御しようと、高圧電線を設けたり、カメラで管理したり、遺伝子で管理したりするのですが、人間の意に反して野生の恐竜の雌が雄化し始めていました。お金を儲けようとした人によって島の管理システムが壊され、結果的に、恐竜たちが暴れだし、人間の制御が効かなくなり、最後に人間が島を逃げ出して終わっていきます。

Life will find a way 映画の中では、“生命を甘く見てはいけない。

生命は押さえつけることも管理することも出来ない。生命は危険を冒してでも、垣根を壊し、自由な成長を求めるのだ”と説明されていました。

私はLife will find a wayという言葉は、生き物の遺伝子の中に書き込まれた力強い、逆らえない本質を現した言葉だと思います。そして、そのことは愛にも言えるのです。格言とはいかないかも知れませんが、外国の歌のタイトルにもなっている言葉に「love will find a way(ラブ ウィル ファンド ア ウェイ)という言葉があります。Life will find a wayとよく似ています

love will find a wayは「愛は必ず道を見つける」という意味です。

Life will find a wayと同じく、愛もまた、抑えることも出来ず、生命の危険を冒してでも、愛するものを得ようとする。そういう力ある本質なのです。

わたしは、神さまの愛がそうなのだと思いました。ダビデはこの言葉に似た、神さまの愛の本質をこう表現しています。詩編236節です。

「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」昔に聞いたこととのあるのは、この追うという言葉は、動物が獲物を追う時に使う単語だそうです。

愛という単語では表現できない動きのある愛の本質を現した表現ではないでしょうか。神さまは、罪で汚れた私たちを見捨てることはなさいませんでした。

イエス様の十字架を見る時、罪人を愛する神さまの愛がどれほどに深いものなのかがよく分かります。パウロはローマの信徒への手紙でこう言っています。

「よい人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙578節)神さまの愛は、人間の愛とは全然違います。この神さまの能動的な愛のお姿にこそ、love will find a way“愛は必ず道を見つける”という姿を感じるのです。神さまは、私たちが再び清さを取り戻し、もう一度神さまと永遠に住むことが出来るようにしてくださいました。ダビデは先ほどの詩編でこう言っています。「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこに留まるであろう」 (詩編236節)

聖書のメッセージは、罪の赦しを与えたという十字架のメッセージだけではありません。私たちには帰る場所がある。そこで、父なる神さまが待っておられる。これも聖書が私たちに伝えようとしているメッセージです。

創世記を見ますと、罪を犯したアダムとエバは楽園から出されてしまいます。創世記はエデンの園の東に「ケルビムと煌めく剣の炎を置かれた」

と書かれています。このことから、アダムとエバはエデンの園の東から出て行ったことが分かります。私がイタリアに旅行に行った時、現地のガイドの人が教会を見れば今いる場所の方角が分かりますと教えてくれました。

教会の入り口は必ず東側にあるそうです。それから後になって分かったのですが、神が臨在される幕屋の入り口が東側にあったのです。だから教会も東に入り口があるのですね。さらに、人間が再び神さまとまみえる時に東側から戻ってくるということを示しているのです。そう考えると、イエス様に会いに来た博士たちも東の方からやって来たというのも関係があるかも知れません。

エデンの東から出て行った私たちは、再び神さまにまみえるために、東から戻って行くということになりますが、もう一つ意味が隠されています。

ある牧師がおっしゃっているのですが、ヘブル語で“東”とは、“元に戻る”や“迎える”また“出会える”という意味があるそうです。

ただ、入り口があるのではありません。父なる神さまは、そこで、待っておられる。出迎えてくださるというのです。ルカによる福音書にある放蕩息子の話を読みますと、父の家から出て行った息子は、自分の力で生きていくことが出来なくなり、父の家に帰って行きます。その時、父は走り寄って息子を迎えたと書かれています。出て行った息子が帰ってくるのか分からないのですから、父は毎日、気にかけていたのが分かります。誰でも「待つ」経験をされたことがあるかと思いますので、神さまがどんな思いで私たちを待っているのかは想像できるのではないでしょうか。私たちには帰る場所がある。これは人生を生きる私たちにとっては、とても」大切なことです。人生の目的も知らず、また、死んでそれで終わりだと思って生きているのは、行先の判らないバスや電車に乗っているようなものです。そのような状態ですと、虚しく、心細く、また、不安です。人生も同じです。しかし、聖書は、はっきりと、天の父が私たちを待っていると教えているのです。また、イエス様は道に迷い、自分がどこにいるのか、どうなるのか分からなくなってしまった私たちを連れて行って下さるのです。イエス様はおっしゃいました。「わたしは道であり、心理である、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」 (ヨハネによる福音書146節)これは、私たちが自分の力では父の身元に帰ることが出来ません。わたしについて来なさいという意味です。

私たちは、人生の目的も行き先も知らずに生きているのではあありません。

羊飼いのように私たちを探し出し、父のもとへ導いてくださる神さまによって今の時を歩んでいるのです。