宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書24章13節~35節


 「人生を共に生きてくださる神」

説教者  江利口 功 牧師

 

〇ギリシャ神話(スフィンクスの問いかけ)

“朝は四本、昼は二本、夜は三本”これはどんな生き物でしょうか?

皆さまは、この“なぞなぞの答えが分かりますか?正解は人間です。

幼児のころは手足を使って“はいはい”して進み、大きくなると日本の足で歩く、しかし、高齢になると歩くのに杖を必要とし、それが見た目には三本足に見えるというわけです。この話はギリシャ神話の中に出てくる話で、旅人に対して投げかけられた、少し深い意味を持った問いかけなのです。

詳しくは書きませんが、例えば「朝は四本、昼は二本、夜は三本」この問いかけに対して、「これは私の一生です。」と答えてみると、少し、」リアルに感じないでしょうか。

〇作者不詳の言葉

また、こんな言葉があります。

「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ、来た道行く道二人旅、これから通る今日の道、通り直しの出来ぬ道」この言葉も人生の有様を面白可笑しく言った言葉ですが、特に「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」という部分は、なかなか味わい深い言葉だと思います。

〇聖書の言葉

一方で幼い時、老いたときを必ず通らなければならない私たちに対して、み言葉は次のように言っています。「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イラエルの家の者よ、共に、あなたたちは生まれた時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いた日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書4634節)私たちは小さいときは、親におぶられ、また、手を引いてもらって、いろんなところへ連れて行ってもらいます。歳をとれば今度は、誰かに支えられて、また、車に乗せてもらったりして連れて行ってもらいます。

普通に考えるならば、どこか虚しい人生のように思われます。

しかし。神さまは「私たちが生まれてきてから、年老いて死に至るまで、ずっと、私たちから離れることなく、私たちと共に人生を歩んでくださるお方。

そして、弱った私たちを背負ってくださるお方である」ということを教えてくださっています。私たちは無力な存在です。自分で思ったように、願ったような人生にはなりません。神さまが共にいてくださるからこそ、私たちは新しい喜びと希望をいただくことができるのです。

〇聖書箇所のあらすじ

今日の聖書箇所には、エマオという村に向かって歩いている二人の弟子たちの話が描かれています。彼らはイエス様の十字架の死を目撃しました。

そして、イエス様が復活なさったことを他の弟子たちから聞いていました。それだけのことを知っていたのにも関わらず、彼らはエマオに帰って行っているのです。しかも、暗い顔をしていたと書かれています。なぜなら、イエス様がイスラエルをローマ帝国から解放してくれると思っていたからです。

彼らの願いは、イエス様の十字架の死によって挫かれてしまいました。

そんな彼らの傍にイエス様が近づいて行かれ、彼らの目を開こうとなされたのでした。イエス様は、道すがらご自身の死と復活が、聖書のみ言葉の成就であることを聖書の澪言葉を一つ一つ取り上げて説明していかれたようです。

弟子たちはその時の様子をこう記しています。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」

目的の村に近づいたとき、日が暮れたので、イエス様は彼らと宿を共にすることにします。そして、一緒に食事をしているときに彼らにとって劇的な時が訪れるのでした。イエス様が彼らの前で、パンを割いてお与えになった時、彼らの目が開かれて、ずっと一緒にいたのがイエス様だと判るのです。

しかし、その瞬間イエス様は見えなくなるのでした。

〇イエス様は今も一緒にいてくださっている

イエス様はエルサレムからずっと彼らを追いかけてきて彼らと合流されたのではありません。また、彼らがイエス様だと判った瞬間にイエス様の目的が達成されたので、次の処へ行かれたということでもありません。

彼らの目を開くために見える形でご自身を現されたのです。

なので、彼らがイエス様だと分かった時に姿が見えなくなったのです。

このことは、忘れてはいけないことで、イエス様は見えないのですが、今も私たちと一緒にいてくださっているのです。弟子たちの時のように現れてくださることはありませんが、イエス様が今も一緒にいてくださっていることを忘れないでほしいと思います。

〇知識だけでは駄目

キリスト教の単なる知識や、聖書の知識だけでは、本当の信仰者になることはありません。多くの人がイエス様の復活のことが知識で終わっています。

イエス様はご自身が復活されたことが真実であるということを知ってほしいと願っておられます。この弟子たちも、エルサレムで起こった出来事、イエス様が復活なさったということを他の弟子から聞いて知っていました。

でも、それらは、彼らにとって深い信仰には繋がりませんでした。ですので、私たちも、いつも、聖書のみ言葉を読み、そこに教えと同時に、イエス様の姿を見るようにしなければなりません。そうすることで、弟子たちのように、心が熱くなるのです。また、復活がリアルになれば新しく生きる希望が生じてくるのです。

〇イエス様の復活は新しい生き方を与える

私たちは、聖書と出会った時、はじめは自分なりの期待を持つものです。

境遇がよくなるのではないか。人生がよくなるのではないか。願いが叶うのではないか。そういった願いを持つはずです。しかし、思ったようにいかない。むしろ、信仰を持ってもその願いが叶わないことに気づかされます。

そうして、信仰から離れてしまうこともあります。この二人の弟子たちもそうでした。この二人の弟子たちのイエス様に対する期待は、弟子になることによって自分たちの境遇がよくなることでした。具体的にはイエス様がローマの支配からイスラエルを解き放ってくれることでした。しかし、叶わないと分かった時、彼らは希望を失い帰って行きました。しかし、イエス様は彼らを放ってはおかれませんでした。聖書を解き明かされ、そして、ご自身が聖書に約束されているように復活されたことを彼らにお示しになりました。

そうすることで彼らは、イエス様が願いを叶えてくださる以上の希望・目的を戴くことが出来ました。

〇神さまは人生の同伴者

私たちは四つん這いから始まり、最後には杖をついて歩くようになります。

また人生の全てにおいて、うまくいかないことが多くあります。

時に、潰されそうになってしまうことさえあります。でも、神さまは、私たちが弱い時、また、苦しい時、辛い時、私たちを背負ってくださっているのです。神さまは私たちの人生の最初から終わりまで、ずっと見守り、傍らにいて、私たちの人生を共に歩んでくださいます。そして、信仰が弱りそうな時には、私たちに問いかけ、諭し、目を開き、信仰を養ってくださるのです。

私たちは、親に手を引いてもらい、導いてもらっていました。

大人になればそういうことはないでしょう。しかし、神さまは、ずっと、私たちの人生に深く関わってくださっているのです。その神さまが望まれるのは、主が、今も生きておられ、約束通り、いつも私たちと共にいてくださっていることを喜ぶことなのです。