宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書20章1節~31節


 「生きておられる主」

説教者  江利口 功 牧師

 

〇皆さまと一緒にハレルヤと主を賛美したかったのですが、

イースターおめでとうございます。イエス様の復活を心から喜び賛美します。さて、復活祭の日に一番言われる言葉は何でしょうか?

それは「ハレルヤ」です。ところで、「ハレルヤ」という言葉の意味をご存じでしょうか。最近、太陽の日差しが心地よいのですが「ハレルヤ」は天気のことではありません。この言葉は、「ハレル」と「ヤ」に分かれます。

「ハレル」は賛美せよという意味で「ヤ」は神(ヤハウェ)を意味します。

つまり、ハレルヤは「神を賛美せよ」という意味になります。

これは、神さまは素晴らしい、その神さまを私は心から賛美します。

そして、あなたもその神さまを一緒に賛美しましょう。そんな意味を持った言葉です。本来なら、皆さまと一緒に神さまを賛美したいところですが、残念なことに、コロナウィルスのために、そうも行きませんイエス様が復活されたことをお祝いする時なのに、不安、恐れ、それが今の私たちを覆っています。

〇不安な中にあっても主は励まそうとしてくださいます。

そう思って、今日の聖書箇所を改めて見ますと、イエス様の復活の記事なのに、弟子たちの心も同じように最初は暗かったかが判ります。どこか似ている気がします。でも、その彼らの目が開かれて行かれたのがイエス様でした。

平安あれ、平安あれとご自身が今も生きておられることをお示しになりました。何故でしょうか?それは、霊的な事柄が、現実に生きる私たちの力となるからです。

〇復活の主が弟子たちに信仰を与えられる

さて、イエス様が復活された日、マグダラのマリアは朝早く、墓に行きました。マリアは復活したイエス様に誰よりも早く逢いに行こうとしたのではありません。マリアは死んだイエス様のために、香油と香料を携えて墓に行ったのでした。彼女の心は悲しみでいっぱいでした。彼女が墓に行ってみると、墓石が取り除けてありました。大変なことが起こったと思い、急いで弟子たちにそのことを告げます。弟子のペテロとヨハネはそのことを聴いて、急いで墓に向かいます。ペテロとヨハネは走っていった理由はイエス様の復活を確認したかったのではありませんでした。イエス様の遺体が奪われたと思ったからでした。ペテロとヨハネは墓を確認した後、家に帰り他の弟子たちにそのことを告げました。彼らはそれから何をしたかと言いますと、彼らは鍵をかけて家に閉じ篭ったのです。ユダヤ人を恐れたからです。ところで、マリアは墓の前に残っていました。すると、彼女は天使たちと出逢います。天使たちは言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか?」これは泣いている理由を聞いているのではなく、「泣く必要があるのですか」ということです。しかし、彼女はその質問の意味が分かりませんでした。すると、今度はイエス様が「婦人よ、なぜ泣いているのか?誰を探しているのか?」と尋ねるのです。

それでも彼女はイエス様だとは気づきませんでした。それほど打ちひしがれていたのです。しかし、イエス様が「マリア」と呼び掛けると彼女はイエス様だと気づきます。聖書を見ますと、彼女はイエス様の方を向いて会話したのに「マリア」と呼ばれた時、振り向いて「ラボ二」と言って、縋りついたと書かれています。このことから、一度目は顔だけ振り向き、また、墓を見つめ直し、今度は体全体で振り向いたことが判ります。この動きの変化の中に、彼女の目が開かれた姿を、私たちは見ることが出来るのです。イエス様の「マリア」という語り掛けが彼女の目を開いたのです。さて、家に閉じ篭り、鍵をかけてじっとしていた弟子たちは、その後どうなったのでしょうか。聖書を見ますと、イエス様は、鍵のかかっていたのに、その中に入って行かれたことが判ります。そして、「平安がありますように」と息を吹きかけ、彼らの目を開かれました。イエス様は、復活を知らせるだけではなくて、復活のイエス様に対する「信仰によって生きる人」へと変えようとしておられるのです。イエス様の復活を信じる、つまり、イエス様が今も生きておられるという信仰は、私たちに平安を与えるのです。

〇弟子たちと私たちの共通点

今、コロナウィルスのことで、世界が暗い闇に包まれています。

ある人はマリアがずっと墓の穴の中を見ていたように、ずっと暗い世界に目を向けているかもしれません。また、ある人は、弟子たちが怖くて家に閉じ篭っていたように、身動きがとれなくなっているのかも知れません。

仕事はどうなるのだろう、家賃はどうなるのだろう、食費はどうなるのだろう、食べ物が手に入るのだろうか、学校はどうなるのだろう、感染するのではないか、死ぬのではないだろうか、マスクはどうしよう、戦争が起こるのではないだろうか・・・そのような思いは誰にでもあります。でも、イエス様は、弟子たちにされたように、今の私たちにも、同じように、ご自身の存在をお示しになり、そのような状況の中で、平安を与えようとしてくださるのです。

〇情報だけでなく見たという事実は大きな事実です。

マスクは今でも入手困難ですが、一時期は、トイレットペーパーが手に入りにくくなりました。私は、それほど心配になりませんでした。

何故なら、トイレットペーパーの殆どは国産ですから大丈夫だという情報を得ていたからです。それだけではなく、実際に公務員時代に古紙のリサイクルとしてトイレットペーパーを製造する工場を見学していました。

情報だけでなく、実際に見た経験もあり、不安はありませんでした。

やはり、パニックになると、人は恐れ、正常な判断が出来なくなります。

勿論、対策を取ることは大事です。しかし、必要以上に心取り乱してしまうのは危険です。イエス様はおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み心を乱している。必要なことはただ一つだけである。マリアは善い方を選んだ。それを取り上げてはいけない」

(ルカによる福音書1038節~42節)

〇今、大事なことは、今も生きておられる主との交わること

今、私たちに必要なのは、み言葉に耳を傾けること、生きておられるイエス様に目を向けることです。そうすれば、他の人と同じように、経済的な不安、病気、命に対する不安、食料に対する不安、物資不足に対する不安、戦争になるかの知れない不安がある中でも、主からしか戴けない平安を戴くことが出来ます。イエス様が復活されたのは、今の陽気と同じような季節でした。

でも、墓の中は、暗いところです。また、家に閉じ籠っていたら気がめいります。イエス様は、墓の暗い穴を眺めていたマリアをイエス様の方へ、お日様の方へと振り向かせました。また、家に篭って鍵をかけていた弟子たちには、平安あれと言われ、弟子たちは外に出て行きました。勿論、私は「自粛せずに好きなように生活しよう」と言っているのではありません。イエス様に目を向けて欲しいのです。「元気になったら病院に行きます」という人はいません。

身体を洗ってから銭湯へ行く人もいないでしょう。「この問題が解決したら、お祈りします。」ではなくて、こういう時だからこそ、聖書を読み、イエス様に祈って頂きたいのです。今、人との距離を開け、長話をしないようにと言われていますが、イエス様との距離は開けてはいけません。

イエス様は何とか、私たちに「わたしは復活して、あなたと共にいる」そのことを一生懸命に知らせようとしてくださっています。

「手元に聖書を握っていたら、コロナウィルスに感染しない」ということはないでしょう。でも、聖書はこういった時、私たちがどういう風な心構えをしなければならないかを教えています。

〇弟子たちの変化に注目してください

マリアはイエス様の声を聴いて「ラボ二」と言っています。

著者ヨハネがあえて、彼女の使った言葉をギリシア語に訳さず、そのままに載せているのは、彼女が、普段通りの呼び方に戻ったことを示したのだと思います。また、弟子たちは「主を見た、主を見た」と外に飛び出しています。

また、トマスはイエス様の傷に触り「わたしの主、わたしの神よ」と告白しています。今日の聖書箇所。勿論、色々な読み方があるかと思います。

しかし、今日は、皆さまと一緒に、主は復活し、ご自身を信じる人達の傍らに近づき、平安を与えようと一生懸命になっておられる。

そのイエス様のお姿を見たいと思いました。

〇最後に

主は復活されました。今も生きておられます。あなたの後ろに今立っておられるかも知れません。最後にトマスに語られたイエス様の言葉を一緒に読みましょう。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」この幸いとは何のことでしょうか?考えてみてください。