由 緒 略 記

 


境内図

江戸安政の頃

 当地は、知内川(旧大川)、生来川、百瀬川の三本の川が、琵琶湖に流れ入り、東に伊吹山、雲仙岳、竹生島をのぞみ、白砂青松の浜に面する風光の清明なる神域で、祓戸の神々の鎮座地として、禊祓の祭祀を行う、古代の川社(かわやしろ)であった。古い神社は、必ずといっていいほど、清流のわきにあり、当社地も先の三本の川の中に、なお、二つの小川(殿田川、ミソギ川)にはさまれて、川につからないと行けない斎庭になっていた。こうした例は、熊野信仰で知られる、熊野本宮大社のかつての社地「大斎原」(おおゆのはら)もそうであり、伊勢の神宮の五十鈴川も、橋がなかった時代は、徒歩で川を渡り、自然に禊をし、身を清めることができるようになっていたのである。

当社の創始は、周囲に集落のできるはるか以前、久遠にして不詳であるが、天智の朝には既に鎮座し、延喜式内社大川神社は当神社のことであると伝えられている。社号は大川明神、三光明神、川裾大明神、唐崎大明神と尊称され、変遷してきているが、「川裾さん」という通称が最も広く親しまれている。川裾信仰の霊地であり、中昔、神仏習合し、明治にはいって分離された。

天文年間(1532〜1555)に当地は兵火にかかり、社傍の大川堂に安置されていた大川神社本地仏は水玄堂に移され無事であったが、古器物は殆どが烏有に帰したと伝えられている。その本地仏は水玄堂の火災(明治26年)により、現在は上知内の安養寺内の観音堂に、唐崎神社奥の院として祀られている。

現在の社殿は明治18年、拝殿は文政10年の再建で、以降、御屋根など数回にわたり大修復されている。正面の鳥居は、正徳元年(1711)木造を石材に換え建立された。また、参道口には、湖東、西湖各千人講奉納(安政年間)による石灯篭があり、湖上交通による参拝も盛んであった。安産、下の病、などの御利益でも知られている。

明治6年知内村絵図