永遠に生く

 親子とは

 初めての御子様が少し智慧遅れで悩んでゐられます若いお母様が、
 或る日知人のご紹介で私をお訪ね下さいました。

 人は信仰の有る無しにかかはらず、神や仏を知る人も、知らない人も
 皆一様に大きな神仏のみ心あっての故に、
 その人、その人の別々の姿に現はされてゐる事と存じます。
 笑いを知らぬ空ろな眼は、どんなにあやしても
 何の反応も見せては呉れませんが、その赤ちゃんの無心なお姿に、
 私は何だか神様のみ心を伺はせて頂きました様な気が致しました。
 そして、次のような尊いお諭しを頂きました。

 親が子を思ふ心は神仏の心です。その神や仏の心で、我が子を見て、
 「ああ、愚かだな・・・可哀想に・・・」
 と、思ふ心は即ち神仏が自分をごらんになられて、
 思し召してゐられる心なのです。

 何とかして、この愚かな我が子を賢くしてやり度い、
 と一心に思はれるが故に、み姿を現はされて、
 「このような姿が、お前達の心なのだよ」
 と、教へて下さってゐるのです。
 我が児が智慧遅れで、不憫だ、不憫だと思ってゐる心は、
 実は神が自分達をご覧になって、いとほしんでゐて下さった心なのですよ。

 ここが、人間が神に通じてゐる証拠なのです。
 それで、自分の本当の魂は神に通じ、神と同じ処に居る故にこそ、
 この実相を現はされて、真の自分に還へさんとして下さってゐる処なのですよ。

 この世一切の現はれはすべて、
 自分の心が姿、形になって現はれてゐるのです。

 さあ!そうすれば、何と愚かな自分であった事でせうと、
 分かるでせう。

 我が子がいとしい、不憫だ、と思ふ心は、
 神様が自分を思って下さる心だったのです。

 「お前はこの様に愚かであるぞ」
 と、実現して見せて下さってゐるのです。

 我が子では無くて、自分自身の姿だったのです。
 元は神である自分が、こんな愚かな姿をしてゐるとは、
 何と情けない事かと気付かせて下さる為の、
 神仏のお慈悲だったのです。

 この子を見て、我が心の姿であると気付く処に、
 先づ大いなる神のみ心を悟り、我が子を良くしたければ、
 先ず自分が良くならなければいけない、
 我が子とは、自分の心を鏡に写した姿なのだと悟り、
 自分が元の神に還へるべく修行してゆく事こそ、
 我が子を本来の姿に還へす道であるのです。

 さあ!元の神の姿を取り戻すべく修行してゆく事が、
 我が子を治す一番の近道、最良の医薬なのですよ。

 これが、神仏に還る道、即ち信仰なのです。
 「般若心経」を写経するのも、我が子を治し度ひ一心からですが、
 実は自分自心を治してゐるのですよ。

 その心を悟るまでは、いくら写経しても我が子は治らないのですよ。
 何故ならば、自分の愚かな心を悟ってこそ、
 悪因縁は綺麗に消えてゆくのです。

 この自分の愚かさが悪を呼び、悪に染まってゐる元凶なのです。

 さあ!我が子の姿を、自分の心の現はれだと悟る瞬間から救はれる、
 即ち、医薬の効果の現はれる初めなのですよ。

 我が子、我が子と思ふ心は、
 実は神仏が、自分に向かって一心に思ってゐて下さる
 大愛だったのですよ。

 さあ!この大御親(おおみおや)の大きな愛を、今こそ知って、
 この大恩に報い奉る為には、一生懸命自分の心を磨いて磨いて、
 大御親たる神の子に恥ぢない自分とならなければと、
 決心する事なのですよ。
 これが即ち、いとしい我が子を治す秘訣です。

 と、懇々と噛み砕く様にお教へ頂きました。

 この日から、その若いお母様も、そのお子様のお祖母様も、
 毎日一生懸命「般若心経」を写経されます様になられました。

 そして半年、
 満一才を迎へられましたお子様は、見違へる様に、瞳が輝き
 日増しに智慧づいてゆかれます様は、
 只々感謝の外ございません心地がいたします。

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