永遠に生く

 寿命の真価

 九月下旬の或る夜、二輪の月下美人が、
 仄かな夢の様な匂を漂はせ乍ら見事な花を開きました。

 只一人、私はうっとりとして眺め入り、
 時の立つのも忘れてしまひました。
 そしてこの花が、朝までにはもう凋んでしまふのかと思ふと、
 惜しまれてならず、写真に撮っておこうかと思ひました時、
 何処からとも無く聞えて来る、声なき声に諌められました。

 その、声なき声とは、次の様なお言葉でした。

 僅か四、五時間の命と、惜しむなよ。

 一時間の命でも、百年、千年の命でも、
 悠久の無限から見れば、何れも一瞬の間なり。
 形とは、すべてこれ幻の如し。

 写真に撮って何となす。写して見た処で、所詮、皆空言なのだ。
 姿、形を徒らに遺す要なし。
 姿、形は、すべてこれ空なり。

 姿無きこそ、真実なり。

 真実は永遠にして不変なり。

 人も草木も、万物一切の肉眼に映ずるものは、
 すべてこれ妄想なり。

 万物はすべて、これ、神の現はれにして、神、即、光そのものなれば、
 諸々の、其れ其れ異なった姿、形は、只一瞬々々の心の現はれに過ぎず。

 美しきも、醜きも、様々の形に現はれては消え、
 消えては現はす花火の如し。

 捕へて永遠に永らへ得べきものは無し。

 その時々の、その場、その場の神の現はれ、神の諭しと心に頂きて、
 己が心の向上の糧となすのみなり。

 かくてこそ、人其れ々の神に通ずる道しるべなりと観ずべし。

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