永遠に生く

 

 三十年来の仏教信仰の果、遂にこの世にいとまを告げる臨終に際しまして、
 夫、勲の余りにも尊い昇天の姿に唖然としてしまひました私は、
 それからは只、神様、神様と、神を求めて、各神社に、又神道の教へにと、
 ひたすらに真実の教へとは?救ひとは?と、求め続けて参りました。

 四十九日の暁方の霊夢に、神界に居る夫の姿が現はれまして、
 「僕は此処に来て始めて、人の現世に生きてゐる間の一生が、
 どの様に大事であるかと言ふ事がはっきり分った。
 お前が今見てゐる様に、此処、神界にきてゐる人々は、
 現世では、皆立派な人達ばかりで、神の世界に来られた程の人達ではあるが、
 それでも、その人々の一生の在り方の違ひによって、何十段階にも分かれた神界の、
 それぞれの段階に送られて行くのであって、神界は神界で、
 又それぞれの修行の過程を経て、段々に上昇して行くのだよ」
 と諄々と諭されました。

 目を上げて向ふを見ると、立派な方達ばかりが、整然と一列に並んで
 順番を待ってゐられるのです。

 その一番前の一人が近づいて来て、主人の腰かけてゐる机の前に立ち止まりますと、
 一瞬の間に、その方の生れた時から死ぬまでの一生が、一部のごまかしも
 許されずに分ってしまひます。

 「この様に、僕の前に来たら一生の事が皆はっきり分ってしまふだろう。
 隠すことの出来ない厳粛な場なんだよ。
 僕は新米だから此処(神界)で神様のお使ひをしてゐるんだよ」と申します。
 即ち、神界の玄関番、受付けをしてゐる訳でした。
 そして、ここに送られて来る人々の一生を一々に記録してゐるのです。

 それから夫は、生きてゐた頃と同じ様に、夢に現はれたり、現世で語られ乍ら、
 私の歩むべき道を教へて下さいます。

 又、知らず知らずに導かれ、神社や、神道人に逢はされて参りました。

 そして、この一月二十五日、三回忌を迎へますに当たりまして、
 観世音菩薩様からの御霊示を頂きまして、
 「本当の夫の供養とは、神界で、神の道から現世を救ふべく働いてゐる夫の、
 表の手足となって、手助けをする事である」

 と、お教へ頂きまして、ここに、天の声、私一人で秘めるべきものではないと、
 決心いたし、おこがましいことではございますが、皆様方のお心にお届けさせて頂きまして、
 ささやか乍らにでも、世に在ります限り尽くさせて頂き度いと、念願いたしました処、

 今迄仏道と、神道とは別の世界であるとばかり思ひ込んでゐましたこだはりが、
 嘘の様にスーと解けて、神も、仏も、同一のもので、
 例へば、私自信、戸籍では、乾 久子ですが、仏弟子としての、高野山での僧名は、
 智光院浄照(*注)、と名付けられてゐます様に、一人であって、それぞれに立場、
 役目によって称へ方が違ふ丈のもので、実は同じものであるといふ事が、
 はっきり分って参りました。

 余命いくばくのものか、すべては神の定め給ふ事、只、捧げ奉る心の真実に
 狂ひなき生涯と致し度く、固く固く決心いたしまして、この世に、一人の方でも共に、
 本来神より出でて、神に還へるべき我である事を分って頂く事こそ、
 神仏よりの使命であり、今正に、地球滅亡の寸前と言はれています時、
 心一つにして奮ひ立つべき道であると信じまして、

 ここに勿体なき事ではございますが、未熟な私に賜はりました数々の真実の道へのみ教へ、
 皆様方と共々に拝読させて頂き、神仏のみ心、いささかなりとも分らせて頂けますなら、
 夫、勲の喜び如何ばかりかと存じまして、今ここに天界からの仰せのままに
 ペンを取らせて頂きます次第でございます。

 へだつべき 山河なきをへだてせし
 心の闇ぞ 迷ひなりけり

 (*注)当時の光照先生の僧名です。

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