永遠に生く

 人生の意義

 神は愛なり。真愛なり。
 この神の愛とは、報ひを求めざる愛なり。
 例へ命をかけたる愛なりとも、報ひを求むる愛なれば、
 それは愛欲と申すものなり。

 真愛(神)と、愛欲(悪魔)とは違ふのだ。
 人はこの相違をば悟り得ざるが故に、命をかけて燃え尽き、
 遂に自らも相手をも亡ぼしゆくなり。

 この実相こそ、悪魔の証拠なり。
 真愛とは、捧げ尽くす歓びなのだ。

 命までも、捧げ尽くして尚、報ひを求めず、
 捧げ尽くす歓びに浸り得る事なのだ。
 如何に愛すればとて、いささかなりとも求むる心あらば、
 そは、神の愛にはあらず。

 久遠より、永劫に至る迄、神は只、愛し続けて、
 万物の喜びを歓び給ふのみなり。
 己を捨てて返り見る事無く、相手を思ひて、捧げ尽す命にこそ、
 神の光は現はるるなり。

 汝が神の証したる光、現はさんが為、現世に在るは、
 只この真愛を悟り得る事のみなり。

 鎮座して実相を思ふべし。
 如何なる苦難をも、耐へ忍ぶ奉仕こそ、真愛への道なり。
 耐へ忍ぶ心の苦痛を覚ゆる内は、まだまだ真愛ではないのぢゃぞ。

 捧げ切る事を歓喜する心、それが真愛、即ち、神の愛なのだ。

 この神の愛のある限り、己れも、相手も亡びる事は絶対に無いのぢゃ。
 如何なれば、真の愛にこそ、神の力のこもれる故なのだ。

 我が子の死、夫の死を恐るる心とは、常に我が為にこそ
 相手を必要となす故の心からでは、真の愛、即ち神の愛に
 あらざるが故に、神の力は現はれぬのぢゃ。

 真に、相手の命を惜しむ心とは、己れの為にあらず、
 只、相手が現世に於て神と成らんが為にのみ必要なる生命なるを、
 必死の思ふ心から願ふ事のみが真の愛なり。

 この「真愛」ありて、己が命かへり見ざる祈りならば、
 神の力は現はさるるなり。

 己れを捨てたる愛には、何の恐れもあらず。
 愛欲は、神にあらざる事、肝に命じて悟りゆくべし。

 さて、その為にこそ、人生の意義あり。

 報ひを求めざる愛、報ひ無き愛に真の歓びを覚ゆる迄に、
 己が魂を高揚なさんが為にこそ、人生は意義あり。

 背きゆくとも尚その幸を祈り続ける心を得る為に、
 次々と与へらるる課題こそ因縁と申すものなり。
 生ある限り、この課題(因縁)と取り組みて、真の愛をば体得なし、
 神の光を現はし得てこそ、この世に生くる価値ありと悟るべし。

 神仏は、いとしき御子を、汝が修行の糧として、
 次々と授け下さるものにあり。

 汝、如何に神仏が汝を大切に思し召され、完成なさんと
 遊ばさるるかを悟るべし。
 只々勿体なき極みなりと、真に目覚めて、この大いなる神仏の
 愛にこそ報ひ奉らんと、必死に精進致すべし。

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