一実の道

 第五十之御諭し

 天地宇宙開闢(かいびゃく)の其の昔より、
 神の道は一筋にして 此れ真理なり。
 真理即神なり、佛なり。

 永遠に変ずること無き此の一実の道(いちじつのどう)、
 踏み外せし者凡夫なり、亡者なり、畜類なり。
 されば此の一実の道、見出して踏み返らんと致す者、
 此れ信者なり。

 されど信者にも亦、段階あるなり。
 一筋に己れ只、空と化して大義に没する者、
 此れ法華経行者なり。

 我執にとらはれ方便に偏し、只小乗に生くるのみなる者、
 此れ傍法(ぼうほう)なり。

 本幹たる法華経に、帰一致さんが為の一時の方便として、
 余が説きし小乗、此の小乗に偏して、伏せたる真意の悟り展かず、
 我見にて、数多の宗教興す者共、
 余が真意、悟らざること、此れに過ぎたることは無し。

 されば、実相に現はるる真剱なる相や如何。
 心眼展き、肉に秘める魂の真価見詰むる時、
 自ずから其れ実相と映りゆくなり。

 汚れし魂に織り成す実相、広まり広まり、
 悪世末法の世となる今にして、
 救はれずして、如何で己れの生かし得べきか。
 悟らざる愚か者共、自ずから己れを滅しゆくの実相、
 哀れにも亦、笑止なり。

 此処に大乗樹立を目指し、没我の境地、
 其れ「空」なるを悟りて、「有」なれども此れ「無」なりと知り、
 「無」なれども此れ「有」と映ずる、
 色即是空、空即是色の悟り、実相と顕現なして、
 自由自在の己れを天地宇宙、広大無辺、悠久の大義に生かさんとなす者、
 此れ法華経行者なり。

 些かの我欲に惑ひ、煩悩の虜となりし己れをば、
 澄める心眼によくよく見るべし。
 客観相に映ずる己が身、狭き廓(くるわ)の中に些かの我執に囚はれ、
 井の中の蛙、大海を知らざるの哀れさ、笑止さ、此処に悟りて、
 大声一番、空に向かひて大笑なせば、
 身の有り程の我執に囚はれし、小さき己れの
 悠久の天地に飛散なし、宇宙天地を股にかけ、
 掌の上に乗せるの己が身、大と小なり。

 いと笑止なる煩悩、いづくにやらと消えゆかん。
 心眼しかと見展きて、悠久大義の天地を仰ぐべし。

 凡夫界のいと狭き煩わしき煩悩に惑わされつつ、
 滅びゆく身の己が身哀れとこそは悟るべし。

 悟りは一度己れを離れて、実相を見詰むることによりて、展かるるなり。
 煩悩の中に己れを没入致して、如何で悟りの展かるるべき、
 美も醜も離れて見てこそ鑑賞となる。
 煩悩の渦より常に己れを離し、離すべく、
 心の舵の取り方ぞ此れ冷静に辨へ(わきまえ)おくべし。

 天地は広し、されど汝の住まひはいと狭し、何故ならん。
 只煩悩の殻、打ち破り見るべし。

 合掌

 一実の道目次


TOP