一実の道

 第十四之御諭し

 いぢらしの心根、あはれなるぞや あはれなるぞや。
 父親(御神仏)に叱られ(現実に現れる不幸)、
 いぢらしの愛し子よ。

 母なる余(観音)には何故縋り来ぬかや。
 慈愛の袖大きく拡げて、待ちおるぞや。
 いぢけるでないぞや。

 父(神)の愛は大愛なり。
 母(観音)なる愛は、
 その大愛の下に汝をかばひかばひ、悟らするぞや。

 何時何時なりとも、呼べば答へて参るなるぞや。
 常住座臥(じょうじゅうざが)、常に汝等の許離れず。
 忘れくるるなよ。

 如何なる悩みも苦しみも、又、大いなる悲しみも、
 「南無観世音」と叫びて、余には縋りて、
 幼子が母に甘えて泣きわめくが如くに、汝も余には甘え来たれよ。

 神仏と思ひて、いと遠き者高き者との心の距離、
 それは、真実(まこと)の信解(しんげ)に非るぞや。
 余は慈悲なり。
 只、汝等愛し愛しと思ふの念、その愛の塊なり。

 高く気高しとて、いと遠きものとて除け者にさるるは、
 本意に非るぞや。

 母は尊し。されども尚、尊き以上に懐かしく恋しきものにて、
 尊きを忘れて、思はずその膝に縋りつきてはゆくではないかや。
 何故汝、此の心地思ひ出してくれぬかや。
 余が膝に縋り来たれよ。

 如何なる汝の無理なる甘えも、背をなでさすりて優しく悟らしめん。
 慈悲なる父母、此れこの愛しさに変わりなけれど、
 父なる者には、父としての役目あるなり。
 母なる者には、又、母としての役目あるなり。

 大愛の悟しに汝を叱る父、
 それをかばひて慰め励ますは母の愛なり。

 如何に無理難題と思へる事も、絶対なる正なる守護神の大愛の悟し、
 汝の未来永劫の幸なり。
 如何に叱咤致さるればとて、汝に真の仏情あらば
 抱ける心は起こらぬ筈なり。

 素直に受けて只感謝なし、而して後、到底此の悟し実行致すことに
 汝の心境開け居らぬならば、何故此の心開かせたまへと
 余には縋りて参らぬかや。

 余は常に汝等の一部始終を眺め居るなり。
 細大漏らさず心の下を見透かして、
 各々に応じて慈悲の光を投げ与へ居るなり。

 されど汝等は、眼(まなこ)覆いて、余が与へし光
 自ら見ずして悩み居るなり。
 縋る心は、即ち慈悲を受くる心なり。

 縋る心の器の無くば、如何に大いなる慈悲も受け入れられぬぞや。
 縋る心、大きければ大きい程に又、
 神仏の慈悲を受け入れる器も大なることとなるなり。

 縋れよ縋れよ、縋り来れ。
 縋り来るは即ち、信解(しんげ)にして、
 此れ救はれの只一筋なるぞや。

 如何に自信の有ればとて、己が力にて為し得ざる事、
 此れ絶対と申されぬ事はあるなり。
 如何に大いなる力も、此れ皆神仏の力なり。
 己れ一人にて為し居る力には非ず。

 其の者の功徳により、其の功徳の値だけ、
 神仏の還へせし報いなるぞや。

 其れを神仏の慈悲とも悟らずして、己が力になし居るとは
 増上慢(ぞうじょうまん)も此れ頂上の天狗なり。

 合掌

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