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金蔵山薬師如来畧縁起
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原文は版木に彫刻、縦書き(25.5x36.6x1.8) 近世後期以降 |
中谷與助『明治新撰播磨名所図会』(明治26年)所修の |
金蔵山薬師如来略縁起(口語訳) 当山の御本尊は、その昔、孝徳天皇の時代(645〜654)に当播磨の国の笠形山に 湧き出られた身の丈わずか1寸8分にして、その身から放たれた光はあらゆる方角を 照らし行きわたらないところがありませんでした。とりわけ、高砂の曽根浦の海峡では、 その光があまり明るいので、魚類が驚いて散ってしまい漁師たちは漁をすることが できませんでした。浦人はこれを嘆いて神の助けを願って、熊野権現に心をこめて 祈りました。貴いかな、神様は即座に笠形山に来られて沢山の草を集めて、その光 を収められました。やがてまもなく薬師如来が金蔵山に飛び移られたので神様も あとについて来られました。こういうわけで、今なお境内に熊野権現の社殿が あります。 当山は、まことに奥深い谷で霊魂が群がり集まり、仏の慈悲が深く蓄積した高く けわしい重なり連なった山であり、霊験あらたかな素晴らしい景色を示しています。 そればかりではなく、谷川の水は清く澄んでおり、いつも迷いの塵を洗っています。 青々と茂った木々は、枝を交えて瑠璃色に輝いています。大医王薬師如来が結局 ここにお止まりになったことはまことに理由のあることであります。 然しながら、その当時は仏様の教えを聞いて修行する能力がまだ備わっておらず、 仏様の徳を仰ぎ慕う人もありませんでした。遙かに年を経て、和銅年中(708〜715) になって、大和の国葛城の役小角が初めてお越しになり行法を修練されました。 次いで、天平2年(730)には菅原寺の行基菩薩が仏の光を慕って来られて直接に 五体投地の礼をされました。その時、自分で仏様を彫刻して、薬師如来をその仏像 の胎中に安置され、このことを里人に伝え知らせて財施を請い、仏殿を創建して 薬師如来と里人との縁結びをさせられました。現存する尊像がこれであります。 その後、比叡山の慈覚大師が来られて再興され、また、正徳2年(1712)には先住 の宥尊上人が現存の堂宇を建立されました。 そのほか、昔から今まで、徳の高い僧や名高い僧があとを連ねて来山されました。 また、あらゆる階層の人々があい連なってその願いをかなえられたことは沢山あり すぎて数えられません。ただ、その由来のあらましを書き記して信仰篤い人に伝えると この通りであります。 |
【解説】 この縁起は、内容から見て、中興開山宥尊上人(正徳五年寂)の次ぐらいの住職(宥演上人か?) の時代に書かれたものであることがわかります。 寺伝によると、宥尊上人によって建立された本堂(5間四方)は、天保13年(1842)に火災にあって 焼失し、現存の本堂(8間x9間)は、安政2年(1855)に当時の住職経勝上人とその先住経宥上人に よって建立されました。また、現在の庫裡は、後年修築された部分はありますが、奥の間の書院や 建物の柱間隔などの建築様式から見て元禄時代に遡ると考えられ、宥尊上人建立時の姿を伝え ています。 現在の庫裡の北側にあった納屋を解体して、居間を新設する工事を始めた際に、平成9年(1997) 2月20日〜3月16日に行われた発掘調査によると、現在の庫裡の前の建物跡とみられる石垣が 見つかり、瓦・土器等の遺物からみて、中世にまで遡る山岳寺院であることが確認されました。 また、平成5年(1993)10月17日〜26日に御開帳をした現在の本尊薬師如来は、天保13年、本堂 消失後まもなく摂津の国神呪寺より経宥上人にあてて寄付されたものです。 |
境内の石造物の銘を調べてみました。年代が確認されたもののうち、比較的古いものを次に列挙 します。 |
石造物 | 場 所 | 年 代 | 西暦 | ||
石 塔 | 宝篋印塔西 | 承応2年 | 1653 | ![]() |
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石 灯籠 | 本堂前 | 寛文4年 | 1664 | ![]() |
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石 仏 | 宝篋印塔西 | 元禄11年 | 1698 | ![]() |
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宝篋印塔 | 位牌堂北 | 享保10年 | 1725 | ![]() |
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漱水石 | 位牌堂東 | 宝暦2年 | 1752 | ![]() |
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石灯籠 | 狛犬北 | 寛政9年 | 1797 | ![]() |
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