金蔵山案内
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 金蔵山案内は、当寺名誉住職が、『かなくら山報』に連載したものです。

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金蔵山案内(一)  『かなくら山報』第49号 1995/09/01

  これから金蔵山の案内をいたします。
 庫裡から上の段に上る石段は、昔から18段になっており、金剛界九会
曼荼羅また胎蔵界九方便の倍の数になっております。
 上に上がって左側に高く見える所が権現さん。ここの地鎮の神さんです。
熊野権現を祀ってあります。

庫裡 石段 権現堂 八角堂
庫 裡      石 段     権現堂      八角堂

 その下は八角堂。これは昭和2・3年ごろに多可・西脇、昔の多可郡です
が、この8つの景色の有名な所を人気投票いたしまして、一等当選の景品
です。その時分の金で130円かかっております。今の金に直すと大したもの
で、先年も少しだけ屋根を直しただけで10万円も要りました。またお手すき
に見てください。これを建てた人は安藤新作という方で、大きなお寺やお宮
さんを130ほど棟上げしたという地方にはまれな大工さん、宮大工の偉い
人です。
 次にこの長い建物は、籠もり堂(こもりどう)です。8畳4間あります。お籠
もりをされるところがここです。また野外活動で青少年の方が来られてここ
で泊まっていただいております。
   <参考>
多可八景 昭和3年(1928)5月、播丹日日新聞社が選定し、
       金蔵山がその第一席に選ばれた。

籠もり堂  樹齢千年杉 鐘楼堂
籠もり堂         樹齢千年杉      鐘 楼 堂       

 次に、この大きな木は、「金蔵山の大杉」というので有名です。周りは9
メーターと少しあります。一の枝までが、約28メーター、一番てっぺんまで
が38メーターです。これは約千年経っておるそうです。これと同じ大きさの
ものでも、山の下にあるのは速く大きくなるそうですが、この山の高いとこ
ろにある木は、なかなか大きならんので、先年も営林署の方が来て、これ
を説明する時は、千年以上かかると言って説明しなさいといわれました。
 次が鐘つき堂(鐘楼堂)です。このお堂も本堂ができた時に一緒にでき
たもので、この彫り物はなかなか有名です。全部欅でできております。
 次が位牌堂。これは、お寺に納められた位牌並びにお骨をおまつりして
いるもので、仮の納骨堂でもあります。

宝篋印塔 弁天堂
宝篋印塔   弁天堂

 次が宝篋印塔(ほうきょういんとう)。宝篋印塔というのは、この塔の中に
宝篋印陀羅尼が納められています。
 次が弁財天(弁才天)。才という字に貝へんがついたのは日本へ来てか
らのことだそうです。日本では、財産をつかさどる神様といわれております
が、中国では才という字を使い、才能を弁別するという神様という意味でし
た。日本へ来てから弁天さんを拝むと大変お金持ちになるというような伝説
ができました。中でも、江ノ島の弁天さんとか厳島の弁天さんとか色々とあ
りますが、ここの弁天さんも眷属が25人おりまして、なかなか立派な弁天さ
んです。
 この弁天堂と境内の石垣全部と本堂の3つに分けた一番左側の不動さん
を祀ってあるところを、昔但馬の殿様に金貸しをしておられたといわれる
篠原忠兵衛という家がこしらえられたそうです。
 弁天さんと石垣と本堂は、今から約200年前に前の本堂が焼けまして、前
の本堂というのは、ここから200メーターほど上の護摩場のそばにあったそ
うです。それが焼けまして、50年間かかって方々で寄付を回ってできたのが
現在の本堂です。

本堂
本  堂
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金蔵山案内(二)  『かなくら山報』第50号 1995/11/07

 この本堂に欅の木が使ってありますが、この一番前の長い門のように
なっている木、これをお寺の方では虹梁(こうりょう)といいま
す。これが4間半あります。しかし、この4間半の虹梁は年輪が同じように
なっております。どっちが根元か末かわからん。ということは、大きな木で
もってこれを作ったということです。
 この虹梁と両方の柱は欅で作ってありますが、この本堂ができた時には
この山には欅が一本もなくて、ここから下へ降りて4キロほど奥へまいりま
したところに豊部の五社はんというお宮さんがあります。そのお宮さんの
中にあった大きな欅の木を切って、それを丸太でここまで持って上がった
という言い伝えがあります。ただし、その丸太で持って上がりがけに3人の
方がその下敷きになって亡くなったということも聞いております。
 今の科学の力をして大きな車に積んでもなかなか上がらない木を、どうし
てこの道のないところを持って上がったか、不思議に思うわけですが、これ
は、「巻き持ち」というて、木にロープを巻きつけてそれによって高い低いを
決めて持って上がったという説もありますが、とにかく、ここまでこの大きな
もの重たいものをよく持って上がったと感心させられます。
 なお、この本堂の木は全部よそから持ってくると重たいので、この本堂の
建っておるところから上にあった木を下に下ろしてここで建てたということで
す。
 
 では、本堂の外陣を案内いたします。これは、金蔵山金蔵寺光明院の
本堂でございます。この外陣には45枚畳が敷けます。
 ここにあります絵馬は、みんな本堂が再建された時に奉納されたもので
す。絵馬といいますと、普通は風雨にさらされて図柄がわかりにくくなって
いるものですが、ここは幸いにして戸が閉まるようになっておりますので、
今から約150年前に描かれた絵も今描いたと同じような色彩で少しも色が
あせておりませんので有名です。

謙信信玄図絵馬 嘉永2年 文王・呂尚図絵馬 嘉永2年 錣引き図絵馬 嘉永2年
絵馬(左)     絵馬(中)    絵馬(右)

 時々姫路の県立歴史博物館から貸してくれといわれて出品したことが
ありますが、檀家の人から、「法印さん、あれきれいやけど洗うたったん
か。」と言われました。「そんなん洗うたら色が落ってしまうがな。」と言うと、
「いや、あんまりきれいすぎて・・・」。檀家の人もこの絵馬がきれいなという
ことは普段は気にしていなかったけれども、歴史博物館へ出した時に見に
行って、むこうで初めて気がついたような次第です。
 なお、この本堂には内陣と外陣との境がございます。真言宗では、この
内陣と外陣との境というものを昔から大変厳しくしたもので、内陣には法会
に関係する者だけしか入れない。法会中は、例えいくら偉い人でも在家の
人は入れなかったということになっておりますが、現在では、どこの寺でも
内陣へ人を入れる場合もあります。
 前の本堂は、今から約200年ほど前に焼けました。今の本堂は、50年間
かかって寄付を集めて建てられたのですが、建てた時に仏様がなかった
ため、摂津、今の西宮の甲山の神呪寺(かんのうじ)様から本尊様他七体
の仏様を寄付していただきました。
 この七体の仏様と申しますのは、七つの仏像ということではなく、本尊様
一体と申しあげますのは、本尊様の
薬師如来像の他、日光菩薩、月光菩
薩、そして、十二神将、あわせて、15人の方をもって本尊様一体と申しあ
げます。お不動様一体といいますと不動明王像のほかに、両脇侍の矜羯
羅童子(こんがらどうじ)・制タ迦童子(せいたかどうじ)の3人になります。
このように考えますと、実にたくさんの仏様を寄付されたということになりま
す。
 この寺で有名なのは、奈良時代の乾漆仏の
阿弥陀如来像です。首から
上だけが乾漆仏ですが、この乾漆仏について歴史博物館の方は、兵庫県
に乾漆仏があるのは珍しくて、兵庫県全部を探しても二つしかないと言わ
れました。この乾漆仏が地方にあるというのが珍しいそうです。京都とか
奈良とかの昔から仏教が盛んなところにあるのは当たり前だけれども、
どういうことかわからんが、ここに乾漆仏があるということで、歴史博物館
に出品を頼まれます。
 どうぞ、そばへ寄ってよく拝んでいただきたいと思います。

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金蔵山案内(三)  『かなくら山報』第51号 1995/12/10

 金蔵寺の本尊様は、薬師瑠璃光如来(薬師如来)様で、33年に一回の
御開帳ということになっております。
 御開帳について私が聞いて知っておりますのは、明治43年です。次は
戦後の昭和22年、そして、一昨年の平成5年となっております。昭和22年
から平成5年までの間は33年よりもずっと長いのですが、これは、自動車
道ができるまでとか寺の整備ができるまでとかいうことでだんだん遅くなり
ました。
 明治43年には、大変賑やかにするために、的場の太鼓(屋台)が山上ま
で上がったということも聞いております。この坂道をどうして持って上がっ
たのか不思議に思うぐらいのことでございますが、昔は、何か賑やかなこ
とをするということになれば、太鼓を方々へ持っていったものです。ご存じ
の昭和天皇の御大典のときでも、太鼓を方々へ持って回って10日間の
お祝いをされたことを思い出します。
 本尊様は、そういう理由で扉の中にありまして開帳できませんが、向かっ
て右側の一番端の方を見ていただくと、お厨子に入った薬師如来、外に出
た薬師如来と、薬師如来が二体あります。お厨子に入ったのは籔田快山
という松久朋琳先生のお弟子さんが彫られたもので、外に出たものは
松久宗琳先生の作で、クスノキで彫られています。
 お薬師様は、ご存じのとおり薬壺(やっこ)を持っておられます。左の手の
上にのっているこの玉のようなものが薬壺、薬の壺ということです。この薬
は病と気を直すことになっています。病と気というのは、病気というて皆様
方はひとつのものとお思いでございますが、病と気は違います。病というの
は肉体的な病気、気というのは精神的な病気、両方あいまって病気となり
ます。故に肉体的な病気が重くとも精神的な病気が軽ければ、割合にその
病気は軽く見えます。肉体的な病気は軽くても、精神的な病気が重けれ
ば、その病気は重く見えます。
 仏教では拝んで病気を治すとか色々と言いますが、精神の持ち方によっ
て色々と病気の方向が変わって参ります。これをつかさどるのがお薬師
さんです。
 本堂の入口右手におられるのが賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、通称
撫仏(なでぼとけ)さんです。撫仏さんは自分の悪いところがあれば、撫仏
さんのそこを撫でて拝んだら治るといわれております。賓頭盧尊者は元々
ご飯を食べるときの本尊さんです。坊さんがご飯を食べるとき、食堂
(じきどう)で食事作法(じきじさほう)をいたしますが、そのときの本尊様が
この賓頭盧尊者でございます。

撫仏 賓頭盧尊者
撫  仏
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金蔵山案内(四)  『かなくら山報』第52号 1996/01/01

 本堂の右横の道を上に200メートルほどあがったところに護摩場があり
ます。護摩場には役行者と不動明王が祀ってあります。本堂から横に
300メートルほどのところに鐘懸(かねかけ)があります。ここはもともと
役行者が開かれたというところです。
 この伝説を聞いて大正12年頃に六十六部といって世の中を回っておら
れた神崎郡の方と加西郡の大峯山参りの行者さんがここへ参ってこられ
たことがあります。その時に、「ここは、役行者さんが開かれたことを聞い
ていますが、ここに行場がありますか?」と質問されたそうです。私の父
(寛明)が、「昔はあったということを聞いていますが、今はどこがどうやら
分かりません。」と申しますと、「そんなら私らで作りましょう。」と言われて、
大正13年に地元の青年団の協力を得て、その時分の奥荒田・的場・寺内
の青年さんが全部出られまして、行場をこしらえました。今から70年以上
も前のことです。その時分の青年さんは現在90代になっておられま
す。
 何日も何日もかかって道のないところに道をつけ、いっぱい生え茂った
ところの岩肌を剥ぐために身体を吊ってぶら下がって作業をされたもので
す。その時、ある方が高いところから誤って落ちられたそうです。この人は
必ず死んどるやろ思って、下へ行きましたところ、平気な顔でどこも怪我
せんとにこにこと笑っておられたということです。それが機縁となりまして、
これはありがたいことやからどんなことでもやっていこうということになりま
して、いよいよみなさん方が一生懸命奉仕されたそうです。約10日間ほど
でこれができあがったそうです。
 土やゴミがかかって苔が生えていたのを全部削り取って岩肌を出したの
が現在の鐘懸だそうです。約9メートル半の鎖が使ってありますが、大峯山
の鐘懸よりも上がりにくいといわれております。
 金蔵山の行場は、寺から600メートルほど下りたところの清めの滝から始
まります。ここは俗に「こうりかき」と言っておりますが、これは、水垢離
(みずごり)を取ったというところからきています。ここで裸になって滝にうた
れて身を清めて上がったということです。昔は、「こうりかきからだし雑魚
一匹持って上がっても腹痛が起きる」といっておりましたが、現在では、この
山の上でバーベキューをされる方もあります。昔と今とはずいぶん違うもの
です。
 次に蛇腹(じゃばら)といって石のガラガラのところを歩いて上がります。
その次が鐘懸、鐘懸を上がりますと碁盤石。碁盤石を横に行きますとお亀
石。お亀石から蟻の戸渡り・東の覗き・平等岩・西の覗き・蔵王権現と続き
ます。蔵王権現さんは、ご存じのとおり、頭に三つの目を持っておられま
す。二つの目は外のことを見るけれども、三つ目の目は時分を反省するた
めに、自分を見つめるといわれております。我々も自分の反省をしたいもの
でございます。

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金蔵山案内(五)  『かなくら山報』第53号 1996/02/03

 行場の一番上が奥の院です。奥の院には役行者(えんのぎょうじゃ)さん
と慈覚大師(じかくだいし)と行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が祀ってあります。

奥の院
奥 の 院

 金蔵山は役行者さんが約1300年前に山を開かれて、約1270年前、行基
菩薩62歳の時にここへ来て本堂を建てて等身大のお薬師さんを刻んでお
祀りされたという起源になっております。
 また天台宗の慈覚大師は、ここから滝野の光明寺さんへ通うて善導大師
さんの軸を描かれたそうです。「日本一幅善導大師」といって、今善導大師
堂にある軸は慈覚大師さんの描かれたものだそうです。
 奥の院の前では、毎年7月7日に柴燈大護摩を焚いております。この日は
花供入峯(はなくにゅうぶ)と申しまして、蓮華寺から奥の院までの仏さんに
花を供えて拝んで回る行事が金蔵山醍醐会の皆さんによって行われます。
まず蓮華寺で壇護摩を焚いたあと、表参道から全部の石の仏さんにお花
を供えながら奥の院まで拝んで上がり、奥の院前の柴燈大護摩のあと、
本堂での壇護摩、持仏前の勤行でこの行事が終了します。
 奥の院から左の道を辿って、次に出てくるのが護摩場です。護摩場には
役行者さんとお不動さんが祀ってあります。役行者さんは大正13年にこの
地方の行者さん連中が、特に今の西脇市方面の人が多かったのですが、
ご寄付になって作られたものです。

護摩場 護摩場
護摩場

 そのそばのお不動さんは、昭和35年に東条町岡本の藤原納さんと藤尾
義美さんが寄付されたものです。藤原さんは先年お亡くなりになりました
が、地方まれにみる石造彫刻家で、360貫あった原石を180貫まで彫られ
たそうです。あとの180貫は石の粉になってしまったそうです。
 このお不動さんを寄付してもらった時、加東の出水の方々で、大橋おさ
わさん他、男女約10人の人が引っ張って上がろうということになりました。
杉坂までは車で来ましたが、その頃はそこからは車が上がりません。色々
考えた末、捨て板木で木馬に積んでみんなでよいしょよいしょと引っ張って
上がったものです。我々男連中5〜6人は、捨て板木を運んだり段取りに
かかっておりました。藤原さんは、2〜3日はかかるやろうと思って弁当など
を用意しておられたのですが、みんな一生懸命引っ張ったので、ありがた
いことに、杉坂を出たのが朝の8時頃、護摩場についたのが昼頃でした。
本堂から護摩場までの坂道は非常に急でなかなか上がらなかったのです
が、木馬に種油を塗ったりして上がりました。
 二日も三日もかかるといっていたのが、わずか日中(ひなか)で、それ
も年寄りのおじいさんおばあさん連中10人ほどで持って上がったので、
驚くほか何とも言えません。これが、現在のお不動さんです。
 ここのお不動さんと行者さんの前では、毎年春秋の彼岸の中日に柴燈
大護摩を焚いております。これは、大正13年からずっと続いております。
春の彼岸は、奥の院の戸開けの式、秋の彼岸は戸閉めの式となってお
ります。   
 

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