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入園まで

〜KANAのお部屋〜

【退院直後】
生後1週間。KANAは何事もなく私と一緒に退院することができました。
実家で始まった新しい生活。入院中はほとんど寝ていたのではないか、とも思ったKANAですが、退院後はそれなりに「泣く」ようになりました。
小さめだったこともあり母乳の吸いつきがあまり強くなかったKANA。飲みかけたと思ったらすぐに眠ってしまうことが続きました。
結局のところあまり飲んではいなかったのでしょう。体重の増え方があまりよくなく哺乳瓶に搾乳したり、ミルクを足したりしていました。
最初の子供であり、毎日がバタバタとしていたこのころ。
記録を振り返ると、「飲んだ」だの「飲まない」だの、「ウンチが出た」だの「出ない」だの、「寝なくて心配」だの「寝すぎて心配」だの…そんな記述ばかりが並びます。
はじめての子供を前にしたら、どのお母さんでも同じでしょう。
このころは「わが子の障害」だのなんだの、の前に、小さい命をはじめて腕に抱いて試行錯誤しながら些細なことで心配しながらの育児の毎日でした。

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【大きくなってみないとわからない】
妊娠中に胎児異常が見つかり、そのために受けた出生前診断。 生まれてくる前から、染色体の異常があること。そして何らかの障害を持って生まれてくるだろうということもわかっていました。
出生前診断を受けた段階で、既に中絶は出来ない週数に入っていたため、産むしかないと心に決め、不安いっぱいの中で出産を迎え、不安だらけの子育てが始まりました。
KANAの持つ染色体異常は過去に症例がほとんどないために、妊娠中は「生まれてみなくてはわからない」といわれ、生後は「大きくなってみないとわからない」といわれ、今に至っています。
幸い、今のところは、身体的にはとても丈夫なKANA。
生まれてすぐこそ軽い心疾患があり定期的に診察を受け経過観察をしていましたが、それも3歳になったときにいったん終了となり、「また何かあれば」と言われました。
風邪もほとんどひかず、熱を出しやすいこともない。てんかんなどの発作があるわけでもない。
知的発達こそ大きく遅れているものの、健康で日々過ごせていることは本当にありがたいことです。
ただ、「大きくなってみないと」と言われているとおり、体の発育に内臓その他の機能が追い付いていかない、ということは十分にあり得ます。
この先、成長に伴って何かしらの病気が出てくることも考えられ、定期的な通院、健診は欠かせません。
注意深く見守っていきたいと思っています。

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【発育・発達の遅れ】
妊娠中、胎児異常が見つかった時から、何か障害が出るだろう、という心構えは出来ていました。
でも、自治体の4ヵ月健診の時に、「まだ首が全くすわっていない」と言われた時には、やはりショックもありました。やっぱり…という思いと半々だったといえばいいかも知れません。
身体発育には、健常児よりもずっと時間がかかっています。
6ヵ月、首のすわり
10ヶ月、寝返り
1歳3ヵ月、ひとり座り
1歳5ヵ月、はいはい、つかまり立ち
1歳6ヵ月つたい歩き
そして、それから1年以上たった2歳9ヵ月の時、やっとひとり歩きが出来るようになりました。
ずいぶん時間がかかりました。でも、その分できた時の喜びは大きかったです。
KANAの場合、伝い歩きをはじめてから、ひとり歩きが出来るまでが長かったです。最初の1歩がなかなか出ませんでした。
KANAは、怖がりなのかも知れません。本当は歩けるだけの力があったのに、恐怖心から手を離すことが出来なかったのでしょう。
ひとりで歩くようになってから、歩きはじめの頃によくある、「転ぶ」ということをあまりしませんでした。
保育園に入園するまでのKANAは抱っことベビーカーがほとんどで、長い距離を歩くのは難しいことでした。
知的発達の面でも大きな遅れが見られました。
できないことをあげればきりがないですが、少しづつながら出来ることが増えていきました。
何事もある日突然できるようになることが多かったKANA。
例をあげれば、2歳5か月の時。
KANAはストローがなかなか使えるようにならず、2歳過ぎても哺乳瓶を使っていました。
ストローを口にくわえるのさえ嫌がったため、練習もできなかったのですが、2歳5ヵ月の時、突然ストローをくわえて、チューっと吸いました。
初めからこぼしもせず、むせもせず、上手に飲んだのにはびっくりしました。
哺乳瓶をやめたのは、それからすぐでした。
KANAはKANAのペースでひとつひとつ出来るようになっていきます。のんびりゆっくりでいいと思っています。。
そして、少しのことでもできるようになったときに、KANAをたくさんほめてあげて、KANAも私自身も大きな喜びを感じられるような、そんな育児をしていきたいといつも思っています。

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【療育訓練】
私は里帰り出産をしたため、自宅に戻る時には出産した病院の小児科の先生から、詳細な紹介状を書いてもらいました。
もちろん、中身に何が書いてあったのかは分かりませんが、妊娠中の異常のことから書いてあったようです、
自宅近くの総合病院は、今でもKANAのかかりつけの病院です。定期的に予約診察で健診を受けています。
生後8ヵ月になっても寝返りが出来なかったKANA。かかりつけの病院から紹介状をもらって、訓練施設のある病院へ通うことになりました。
自宅から車で片道20分くらいのところにある病院です。
はじめはPT(理学療法)といわれる訓練から開始しました。
KANAは上半身の筋力が弱く、はじめはうつ伏せになって上体を起こすということから入りました。
まずは顔を上げられるように。次は腕で上体を支えられるように。
そして、仰向けの状態から上体をひねって、寝返りが出来るように。
この頃のKANAの移動手段は、『背這い』でした。
普通のハイハイやずりばいは、うつ伏せになって手や足の力で移動しますが、『背這い』は仰向けになったまま足の力で移動します。背泳ぎをイメージするとよくわかるかも知れません。
移動スピードはかなりのもので、それなのになぜか壁などに頭頂部をぶつけることがないのが不思議でした。
先生によると、この『背這い』をするのも上半身の筋力が弱いからだということでした。
KANAは無理な姿勢を取らされるのがいやだったんでしょう。泣き続ける日が続きました。
訓練は1回40分ですが、ずっと泣き通しでした。理学療法士の先生の顔を覚えてしまって、顔を見ただけで泣き出してしまったり…
それでも、少しづつ力がついてきて、泣きながらでも色々やるようになりました。
寝返りからお座りへ、そして、ハイハイ、つかまり立ちへ。
発育の段階にそって、ゆっくりではありましたがKANAなりに成長していきました。
少し自分の思い通りに動けるようになってくると、泣かずに訓練が出来る時もたまにはあリました。
泣かなかったら余計な力も入らないので、逆に良く動けたものです。
はじめて何にもつかまらずに歩けたのも、実は訓練中でした。
療法士の先生と2人でお庭に歩きに行ったときだったので、私は見ることが出来なかったんですが…
ある程度ひとり歩きができるようになった時点で、PTは無事終了となりました。
OT(作業療法)といわれる訓練は2歳過ぎから始まりました。
KANAは手の感覚が非常に敏感で、未知の感触のものに触れるのを極端にいやがリました。
ですから、食事の手づかみなどもほとんどしなかったです。
OTでは、玩具などを使って色々な感触のものに触れてみる、というところから始まりました。
初めのころKANAが良く好んだのは、音の出る玩具でした。小さなプラスチックの玉…これは、暖簾に使われていたものだそうです…を洗面器にいれたら、ジャラジャラと音がします。
これがKANAのお気に入りでした。
先生が洗面器を出してくると、喜んでいるのがよくわかりました。
暖簾玉に手を触れたときの感触も面白かったのかもしれません。
KANAは、指先を上手くコントロールすることがなかなかできませんでした。余計な力が入ってブルブルるえていました。
まだ言葉の出ないKANAですが、こういった訓練を通じて療法士の先生とのコミュニケーションをとることも目的のひとつでした。

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【心疾患】
KANAは、生まれてすぐの検査で、『心雑音』があるといわれました。
ダウン症など染色体異常のある子は、心疾患の合併症が非常に多いそうです。
KANAの心疾患も、おそらく染色体異常に起因するものだったと思います。
出産したのは総合病院でしたが、小児循環器の専門外来は日が決まっていたようで、退院から2週間後に受診することになりました。
胸部のレントゲンと心臓のエコー検査をしてもらいました。
その結果、『心室中隔欠損症』『大動脈弁狭窄症』『右肺動脈狭窄症』『大動脈弁低形成』といわれました。
しかし、どれも軽いもので、定期検診で様子を見ていくことになりました。
『心室中隔欠損』は、心室を隔てる壁に穴があいていることです。
この穴は自然にふさがることも多く、KANAも私の実家から自宅に戻り、自宅近くの病院で検査を受けた時には穴はふさがっていました。
生後3ヵ月くらいだったと思います。
あとの3つは、大動脈弁の機能が悪いことから起こる症状です。
弁がほとんど機能しておらず、血液の流れが悪くなっていました。
ただ、治療を要するほどでもなく、成長とともに自然治癒するのを待つことになりました。
3ヵ月〜半年ごとに定期検診を受けていましたが、小児科の先生が「この子は心疾患がある」という前提で聴診器をあてても異常を感じられないほどで、エコーでみないとわからないほどの軽いものだったようです。
3歳過ぎた頃に受けた検診ではエコーでみても、ほとんど異常が見られないほどにまでなっていて、その後の検診も不要といわれ、「もし、また何か症状が出てきたら、そのときにはまた検査をしましょう」とのことでした。

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【療育手帳】
『療育手帳』は、地域によっては『愛の手帳』『緑の手帳』などともいわれます。
『身体障害者手帳』は身体に障害のある方のものですが、『療育手帳』は知的障害のある人が持つ手帳です。
全国一律の基準がある「身体障害者手帳」に対して、「療育手帳」は都道府県・政令指定都市ごとにそれぞれの基準があるそうです。
そのため地域によって差があるのですが、私の住む地域の療育手帳は、A判定(重度)とB判定(中・軽度)の2段階があります。
等級によって、受けられる福祉サービスが違います。
KANAがもつのはA判定の手帳です。
18歳未満の子供の場合は、管轄の児童相談所で1〜2年ごとに『判定』といわれる面接検査を受けます。
その結果、また新しい等級の手帳が交付されます。
子供の場合は1〜2年で急な成長も見られることから、等級が変わることもあるようです。
KANAはこの手帳のおかげで、様々な福祉サービスが受けられます。
A判定の手帳の場合、『特別児童扶養手当』といわれる手当が月に5万円ほど交付されます。
他には、医療費の公費補助や、税金の減免、控除などもあります。
すべてに申請が必要なので、そのつど手続きをしなくてはなりませんが…
その他、公共施設や交通機関などでは、手帳を提示することで、料金が減額されることもあります。
この先、KANAにはどれほどかかるか見当もつきません。これからどのくらいまで、知的レベルが上がるのかもわかりません。
社会に出たときに、なんとか働けるほどにまでなればいいのですが、それは今のところは未知数です。
KANAの将来のために、できるだけ多くのものを残してあげたい。
そのために、今受けている、こういった福祉のサービスは大変ありがたいです。
KANAが成人して社会に出る頃に、この国の福祉がどうなっているかはわかりません。
でも、障害者にとって、今よりも少しでも住みやすい社会になっていることを願いたいです。

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【チビkanaの誕生】
KANAが3歳の誕生日を目前にした2002年(平成14年)11月。
KANAはお姉ちゃんになりました。
次女、kanaの誕生です。
妹の存在はKANAにとってもいい刺激となるだろう…そんな期待をこめて2人の子育てが始まりました。
KANAにとって妹の存在はどんなものだったのか。
「親ではない小さい誰かがいる」くらいの認識はしていたようですが、なかなか2人のかかわりは出てきません。
この先少しずつでも関わっていけるようになるといいなあ、と思っています。

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