今月の言葉 |
12月
祈によりて病も息み延ぶる事あらば、
誰かは一人として病み死ぬる人あらん。
小僧の解説…法然上人「浄土宗略抄」より。
師走です。何かと忙しく、気ぜわしい時期になりました。この一年、後半だけを振り返っても、国内では狂牛病問題、国外ではニューヨークのテロとアフガンへの報復攻撃が、私たちの生活に直接・間接に大きな波紋を広げています。どのように考え行動すればよいのか。いろいろな意味で生き方を問われているのではないでしょうか。そんな時、苦しい時の神頼みよろしくつい神仏に救いを求めてしまいます。こんな大問題を前にしなくても、年末から年始にかけては神仏に祈る機会が多いでしょう。しかし、神仏はそのような現実的事象を解決してはくれません。加持祈祷が盛んであった平安時代に「祈りによって病気が治るなんてことがあるなら、病気になって死ぬ人は誰一人いないだろう」といい放った法然上人のその言葉を噛みしめたいと思います。お念仏も病気治療や試験の合格、まして世界平和に直接効き目があるものではありません。往生については阿弥陀様の絶対的な他力に頼るしかありませんが、現実の生活においてはそういうわけにいきません。ただし、念仏を信じる心が精神を安定させ、体内の自然治癒力を増大させたり、試験会場での実力発揮を促進させることはあるでしょう。みんなが念仏を信じ自己を慎しむ心を持てば世界も平和になるでしょう。上人が、仏の力により念仏信者は重く受ける病を軽く受ける(「転重軽受」)と仰っているのは、こういうことだろうと僕は解釈しています。
11月
他人が怒ったのを知って、
それについて
自ら静かにしているならば、
自分をも他人をも
大きな危険から守ることになる。小僧の解説…『ウダーナヴァルガ(感興のことば)』(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村 元訳・岩波文庫)より。「怒り」という章の言葉である。この後に「他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである。」とあり、さらに「自分と他人と両者のためになることを行っている人を、『弱い奴だ』と愚人は考える。−ことわりを省察することもなく。」と続く。これらの言葉の少し前には、「怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。」とも記されている。
10月
和顔愛語
小僧の解説…「わげんあいご」と読みます。「やわらいだ笑顔をして、親愛の情のこもったおだやかな言葉を交わすこと」を意味します。これは浄土三部経のひとつ『無量寿経』の中にある言葉で、法蔵菩薩(阿弥陀如来)が48の誓願を立てそれを成就したという記事のあとに、彼の求道者としての行いのひとつとして出てきます。「和顔悦色施(人に笑顔で接する)」や「言辞施(人に優しい言葉で接する)」は「無財の七施」に数えられ、いわばまったく財産がなくてもできる「布施」(大乗仏教の最高徳目「六波羅蜜」のひとつ)です。それも私たちが日常的にできるものです。しかし、実践するとなるとなかなか難しい。世界的にも国内的にもそして私たちの身の回りにおいても、なんだか不穏な空気が充満している昨今、お互いに心がけたい言葉であると思います。
号外
実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 (ダンマパダ)
中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』 より
9月
すべての者は暴力におびえる。
すべての(生きもの)にとって
生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、
殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。
小僧の解説…この夏も、目を覆いたくなるような凶悪犯罪がテレビや新聞紙上を頻繁に賑わしました。そしてそれらの多くに共通することが、表面的にはごく日常的な生活の中でさほど特殊でない人物の行ったものであるということです。積年の恨みを晴らすとか綿密に計画されたとか狂った集団のテロ行為といった特殊なケースではありません。特殊だと片づけられないだけにいっそう怖い。世の中全体にこのような事件を誘発する風潮が蔓延してるのでしょうか。実は我々自身の心の中にもこのような風潮が巣くっているのではないでしょうか。常に「己が身にひきくらべて」という姿勢を大切にしたいものです。孔子の言葉にも「己所不欲、勿施於人」(自分がされたくないことは人にするな)というのがあります。自己の行為の影響に対する想像力をしっかりと持ちたいものです。今月も、『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳・岩波文庫)からでした。
8月
すべて悪しきことをなさず、
善いことを行ない、
自己の心を浄めること、
―これが諸の仏の教えである。
小僧の解説…今年は異常な暑さが続いています。毎年、この時期は「暑い、暑い」とぼやくばかりなんですが、今年は例年の比ではない。たまりません。「もう何もしとうない。どうにでもなれ」とやや自暴自棄気味に日々を送っています。こんな時は原点を見つめ、自己を戒めたいと思います。今月の言葉は「七仏通誡偈」と呼ばれ、過去七仏(釈尊とそれ以前に出現した六仏)のがすべてお説きになっている教えであるとされています。まさに仏の教えを一詩で示したものといえます。漢訳では「諸悪莫作、諸(衆)善奉行、自浄其意、是諸仏教」。内容はしごく当たり前のこと。「自己の心を浄める」の解釈は若干悩みますが、文字通りに受け取って、これもその通りですね。しかし、これらのことを実際に行うことは大変難しい。こんな簡単な文句ではありますが、これが実践できれば、我々の日常生活は実に平安なものになるでしょう。「暑い、暑い」と無為に過ごすのではなく、少しでもこの言葉の実践につとめたいと思います。今月の言葉は、『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳・岩波文庫)からでした。
7月
昨日もいたづらに暮れぬ。
今日もまたむなしく明けぬ。
今、いくたびか暮らし、
いくたびか明かさんとする。
小僧の解説…毎日、暑い日が続いています。朝、天気予報でその日の最高気温の表示を見るだけでもうだめです。身体全体にべったりとはりついてくるようなこの湿気もいけません。言っても詮ないこととは承知しつつも「暑い、暑い」を連発してしまいます。でも、そんな毎日も、いつの間にか雷と共に梅雨が明け、炎天下で入道雲を眺めたかと思ったら、夕立に降り込められ、気が付けば赤とんぼがちらほら。なんだかもの悲しい季節になっているのです。振り返るとアッという間だったというのが例年のことで、そのようにして時は過ぎていきます。しかし、それでいいんだろうかと、ふと思うことがあります。僕はいったい今まで何をしてきたんだろう。今、何をしてるんだ。これから何をするのだろう。この世は無常です。無常であるからこそ私たちはこだわりを捨てきれないのではないでしょうか。それで結局「南無阿弥陀仏」しかないのかなと…。なんだかわけの分からない解説になってしまいました。今回は『元祖大師御法語』から。
6月
底浅き小川は
音をたてて流れ
大河は
音をたてないで流れる
小僧の解説…6月は梅雨の季節です。雨は大地をうるおし、木々の緑をいっそう生き生きとしたものにします。もし梅雨に雨が少なければ、農作物も不作となり、生活水・飲料水も不足し、日常生活に大変な影響が出てしまいます。そんなことは誰もが分かっていることなんですが、やはり雨は嫌なものです。雨が続くと憂鬱になります。その上、6月は祝日がありません。そんなこんなで私などは、ブツブツ、ブツブツと不平不満をもらしながらこの月を送っていきます。まるで底の浅い川の流れが日がな一日チョロチョロと音を立てて流れているようなものです。いや、流れずによどんだり滞ったりしているのかも知れません。音も立てず蕩々と流れる大河のようでありたいとひたすら念ずる次第であります。今月の言葉は『スッタニパータ』(経集)からでした。
5月
もろもろの事象は
過ぎ去るものである。
怠ることなく修行を
完成しなさい。
小僧の解説…「五月病」という言葉があります。4月当初の感激ややる気が失せ、5月の連休明けあたりから無気力になってしまうというものです。私たちは何かを行う時はじめは意気込みをもって臨むのですが、現実の厳しさ・ままならなさの前に意欲も失せ次第にマンネリ・惰性、挙げ句にいやいややっているという状態になりがちです。そこで今月は上記の言葉を取り上げました。これは4月にも引用した『大パリニッバーナ経』(中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫)からのもので、釈尊の最後の教えといえるものです。釈尊は死を前に弟子たちに何度も何度も「私の教えの中で疑問な点があれば今の間に質問しておきなさい。後悔せぬように」と促されました。それでも黙っている弟子たちに「遠慮せず、友人に問うように質問すればよい」とも言われました。しかし誰も質問しません。そこでずっと釈尊のお側近く仕えてきた弟子の阿難(アーナンダ)が「希有なことに、我々には少しの疑問もありません」と答えました。それを聞いて皆に述べられたのが上記の言葉です。「すべては移り変わっていく、怠ることなく励みなさい」との教えは、仏道修行に限ったことではないと思われます。無常のこの世を意識するならば、マンネリ・惰性なんてあり得ないわけですね。ところで、「新五月病」というものもあるそうです。これは大学生にとって企業内定のピークとなるゴールデンウィーク前後の暗い気分を指したものらしい。しかしこれまた「すべては移り変わっていく」わけです。いいことも悪いことも「諸行無常」。ひたすら今を怠ることなく励む。ああ、これは4月当初からだらだらと過ごし5月になってもやる気のかけらも見せない小僧自身への厳しい叱責の言葉でした。
4月 自燈明 法燈明
小僧の解説…4月は新しい人との出会い時です。しかし一方で、今まで尊敬し頼りにしていた人との別れを経験しなければならない時でもあります。また、それまでと違った環境や仕事に臨まなければならない不安の時でもあります。上記の言葉は、死を目前にした釈尊が弟子に述べられたもので、「燈明」は拠り所・頼りであり「法」は真理すなわち仏法を意味します。つまり、師の不在を恐れる弟子に対して、「自らを頼りとし、仏法を頼りとせよ」と「自帰依、法帰依」を説いておられるのです。釈尊の最後の旅を記した『大パリニッバーナ経』には、「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(中村元訳・岩波文庫)とあります。我々はつい燈明・島を外に求めてしまい、その不在に心を悩まします。しかし自らを頼りとし真理を頼りとして進んで行くべきなのです。と、口では簡単に言えるのですが、現実には、私などは到底不安をぬぐい去ることは出来ません。で、ただただ「南無阿弥陀仏」と申すほかないわけであります。
3月 青色青光 黄色黄光
赤色赤光 白色白光
小僧の解説…浄土宗所依(よりどころ)の教典、浄土三部経の一つ「仏説阿弥陀経」の一節で、「しょうしきしょうこう、おうしきおうこう、しゃくしきしゃっこう、びゃくしきびゃっこう」と読みます。「阿弥陀経」は極楽浄土の様子を描いたお経で、この部分は「池中蓮華、大如車輪、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、微妙香潔」(池の中には車輪のように大きな蓮華が咲き、青い蓮は青い光を放ち、黄い蓮は黄色い光を放ち、赤い蓮は赤い光を放ち、白い蓮は白い光を放ちつつ、妙なる香りを清らかにかおらせている)と、極楽の蓮について述べています。極楽では、それぞれの色の蓮がそれぞれの色を光り輝かせていて、決して一律に同じ色で光っているのではありません。私たちはついついこの色でなければならんと言って一律の光を求めがちです。極楽を見習いたいものですね。
2月 智者のふるまいをせず
小僧の解説…法然上人の御遺訓「一枚起請文」に出てくる言葉です。「一枚起請文」は、上人80歳、臨終の2日前にしたためられたもので、浄土宗の教えの根本を述べた短文です。その要旨は、「阿弥陀の救いを信じて、ただひたすら念仏しなさい」というものです。「たとい一代の法(お釈迦さまの教え)をよくよく学すとも一文不知の愚鈍の身(教典なんかさっぱり分からない愚か者)になして…智者のふるまいをせずしてただ一向に(ひたすら)念仏すべし。」 上人は膨大な仏教教典を何度も読み返し「知恵第一の法然房」と讃えられる方でありましたが、自らは「三学(仏教の基本である戒・定・慧)の器にあらず」と常に悩み、救いの道を求め続けられ、そして称名念仏に辿り着かれました。ですから、「一枚起請文」は膨大な知識の集積の中から選び取られた珠玉の言葉であり、上人自身がその一番の実践者であったわけです。
しかし、小僧のような真の意味での「一文不知の愚鈍の身」は、ちょっとは「智者」に見られるようにした方がいいかも知れませんね。(ああ、まだ「一枚起請文」の心がつかめてない!)ところで、このホームページは2月から始めたわけですが、21世紀初頭を飾る1月の、そして永遠の言葉は、「南無阿弥陀仏」です。