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ここでは、突然の災難にあってから、私の心境の変化に大きな影響を与 | ||||
えてくれた仏教の考え・感じ方、言葉について、ぜひともお伝えしたいと | ||||
思います | ||||
カメキチもそうですが、人間って(いえ、私はカメ)日々の生活にいつ | ||||
の間にかおぼれ、流されてしまいがちです | ||||
何か感動することあっても、そのうち忘れてしまい…。でも考えたら、 | ||||
人が生きていくことは、その有り難さに気付いて(慣れて)忘れ、また気 | ||||
付いて…の繰り返しですね | ||||
だから、忘れることを恐れてはいけない。忘れないと心も頭もいっぱに | ||||
なって新しいことが入ってこなくなります | ||||
ただ、いったんは忘れても、イイことはまた思い出せばいいのだと思う | ||||
のです | ||||
これらの言葉があなたのお心にとどきますように! | ||||
★それぞれの言葉をクリックしていただくと、その言葉の「解説」にジャンプします 掬水月在手 弄花香満衣 両 忘 放 下 著 無 可 無 不 可 莫 妄 想 明 歴 歴 露 堂 堂 柳 緑 花 紅 真 面 目 喫 茶 去 雨 奇 晴 好 一 期 一 会 無 功 徳 廓 然 無 聖 照 顧 脚 下 行 住 坐 臥 無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り 応(まさ)に住する所無うして其(そ)の心を生ずべし 明 珠 在 掌 松 樹 千 年 翠 不 入 時 人 意 主 人 公 随処に主と作(な)れば 立処皆真なり 宇宙無双日 乾坤只一人 可 及 其 智 不 可 及 其 愚 不 雨 花 猶 落 無 風 絮 自 飛 逢 茶 喫 茶 逢 飯 喫 飯 拈 華 微 笑 春 在 枝 頭 已 十 分 瓦 を 磨 い て 鏡 と な す 平 常 心 是 道 災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 一 無 位 の 真 人 任 運 自 在 枯 木 裏 の 龍 吟 漁 夫 の 生 涯 竹 一 竿 壺 中 一 壺 の 天 前 後 際 断 無 功 用 全 機 現 遊 戯 三 昧 無 事 足 る を 知 る 煩 悩 即 菩 提 |
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掬 水 月 在 手 弄 花 香 満 衣 (みずをきくすればつきてにあり はなをろうすればかおりえにみつ) 月夜に、両手で水をすくってみれば、その水面にこうこうと輝く月が映り、花をもてあそ べば、ほのかな香がわたしの着ている衣服に満ちてくるということ。 今、世の中ではこれまでの反省にもとづいて地球環境を守ろうと、「エコロジー」が叫ば れるとともに、「もったいない」が、見直されてきている。そういう、モノの「もったいな い」だけでなく、これからは「心」も「もったいない」ことにせず、すくった水の中に月が 輝いているのにも気がついて「きれいだなぁー」と感じたりできるようにしたいと思う 自然は地球上のすべてのものに平等に注がれる(これを「ほとけの慈悲」という)。そん なステキなものを逃がす手はない。 あーぁ、もったいない…もったいない ![]() |
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両 忘 (りょうぼう) 両極端な考え方をやめよう(忘れよう)ということ。つまり「中庸」の好さを説いている のだろうか。何でも「ほどほど」が好いと しかし悪く解釈をすれば、「好い加減」にも通じる。もちろん、好い加減にしてはいけな いとき、そういうことは、きちんとしっかりやらなければならないと思う。でも、そんなも のはそれほど多くはないのではないか。黒白をはっきりさせなくても、灰色でもいい。そん なこと、身の回りにいっぱいだ。両極端へのこだわりを捨てたい 自分だけ(オンリーワン)の、「ほどほど」(灰色)を見つければいいと思う。それが、 よくいう「マイペース」ではないだろうか。 そんな立場に立てば、自分が絶対的なんて思い込むことも少なくなくなり、もっと相手の 言うことに耳を傾けようと思うだろう。もっと謙虚な自分になれる そうはいっても、コトはそう簡単にはいかない。簡単にはいかなくても、私も他の人も、 相対的な(そのことはお互いが絶対的でもあること)存在とわかると、少なくとも私は「ま っ、いいかぁ!」と、相手にやさしく(寛大に)なれそう 自分にも相手にも、ほどほどのところで折り合いをつけること、いい意味での「妥協」っ て、いい意味での「大人」になることだと思う ![]() |
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放 下 著 (ほうげじゃく) 生きていれば様々なことをしなくてはしなくてはならない。様々な目にあわなくてはなら ない。それを人生と呼ぶが、人は、長く生きれば生きた分だけ、きっと、ステキな思い出も いっぱい残せるが、残さなくてもいいもの、つまり不要な(いらない)ものも大事なものと 勘違いして残しているのではないか 「放下著」とは、物はもちろん、地位や財産、名誉などといった目に見えるモノだけじゃ なくて、記憶や思い出という精神的なモノも捨てて「真っ裸」「まっ更」な素の自分に戻っ てみようということ すると、びっくりするほど人生は楽になりそう… 人生には竹みたいな節目がありそうだ。そんな人生の節目に、自分の所有物と思っていた 信じていたモノを、いったんは、私という個別の人間に神仏のような超越的な何かがゆだね た、預けた仮のモノと考えてみたらどうだろう すると予想以上にいらないモノがあり、それらにこだわって生きるエネリギーを浪費して いたことに気付けばしめたもの。 もちろん、そういうことは決して他との比較によるもの じゃないし、自分にとって大事なモノはこれからも大事にしていけばいい 要は精神的なモノを含めて本当に自分に大事、必要なモノかどうかということ。そして、 年取れば取るほど、若いときよりはそれがわかってくると思う ![]() |
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無 可 無 不 可 (かもなくふかもなし) この言葉は、良くはないけどかと言って別に悪くもないという、「普通」「平凡」「ほど ほど」という感じで使われがち。特にけなされるわけではないが、目立っていいとこがある わけでもない。このカメキチみたいに、まぁどうでもいいようなニュアンスが漂う、ドラマ の配役の登場人物「その他」的な存在に使われそうだ。 そういう、何でもないことの大事さを、私はしみじみと味わっているが、しかし、本来の 「無可無不可」の意味を知り、驚き、目からうろこが落ちた気持ちになった この「可」というのは「可能性」の「可」であり、決して「可」=「善」や「良」、反対 に「不可」=「悪」ではない。つまり、この言葉は人生には「可能性もない、かといって不 可能性もない」と教えており、あらかじめ(前もって)自分で判断する決め付ける、たとえ ば「どうせ私なんかやったってできやしない…」「お前なんか頭悪いからダメに決まってる !」などと、人間の可能性を信じないことの弊害、というか誤りをしがちな私たち、凡人を 戒めている 先の「両忘」にも通じ、【中道】を説く。【中道】は、確かに「中」でありどっちつかず の中立につながる意味があるかも知れないが、同時に自分をニュートラルにする、固定観念 にとらわれない自由な考え、立場におくことなのだ ![]() |
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莫 妄 想 (まくもうぞう) あれこれ思い込んだり、悩んだり…、自分勝手に頭の中だけの世界に閉じこもってはダメ だ。することやすべきこと(実践)もしないで! しかし、この言葉の凄いところは、たとえ、何かを実践して、その結果が思うようにいか なくても、つまり「失敗」に終わったとしても、いつまでもそのことに囚われない(執着し ない)ことも含んでいる 何らかの自分には不都合な、良くない結果を「失敗」というのだろうが、それは「主観」 であり「妄想」(思いこみ)とも言える。確かに客観的には不利な事態に陥ったとしても、 別な目(「莫妄想」)から見れば「失敗」とも言えない (禅的な見方からすれば、そもそも「成功」「失敗」という両極的な決め付け自体をやめま しょう!) 結果など過去の場合だけでなく、未来という未だ来ぬ先のことを、想い煩うのも馬鹿なコ ト。 心配が高じて、それが妄想につながって心を曇らせるわけだから ![]() |
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明 歴 歴 露 堂 堂 (めいれきれきろどうどう) この禅の言葉は、自然をありのままに、無心に感じなさいということ。「自然」は「あり のまま」だが自分という人間もその自然の一部、たまには、風呂に入ったときでも、たとえ 自分がメタボであっても、そんなこと気にせず、恥ずかしがらんと素っ裸の肉体をしみじみ と観よう ところで、私たちは日日を生きるうちに、いつの間にか、自分自身も気付かないで世間の 「垢」にまみれ、ストレスを溜めている。それが、社会の中、人間関係の中でしか生きては いけない人間の姿だろう。心が疲れたときは、ともかく自分の五感で、ありのままの自然を いっぱい感じてみよう。 サァ、野山に出かけて鳥の囀り、流れのせせらぎに耳を傾け、冷たい水を両の掌で掬って 喉を潤し、大地に寝転んで、風に頬を打たれながら流れ行く雲を観たいもんだ ![]() |
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柳 緑 花 紅 真 面 目 (やなぎはみどりはなはくれないしんめんぼく) 自分が自分であることの応援歌みたいなステキな言葉と思う。 柳は柳、花は花。何千年 も繰り替えされてきた春の景色。そこに、人間の、実につまらん価値判断などない ありのままに自然を見つめれば、色々なもので成り立っている。赤い花、黄色い花、白い 花… 色々なものがあるから自然なのだ。人間もその自然。そのことを忘れ、「価値」「値 打ち」「意味」など亀に言わせれば、人間本位の実利的な、そのときに役に立つか立たない か、何らかの画一的な基準を持ち込み、その優劣を付けるといった、実につまらんことをし ている 26歳という余りに若くして逝った詩人、金子みすずの作品に「わたしと小鳥とすずと」と いう、とっても胸を打つものがある。そこで彼女は詩っている 「…すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」 ![]() |
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喫 茶 去 (きっさこ) これは、どんなお客さんに対しても分け隔てなく「まぁお茶でも飲んでいきなさい」と接 する、大らかな気持ちで応対し、お茶を出された人は、ホッコリ、静かに味わいたいものと 双方の心の在り様の大事さを言っている 禅僧が学んだり修業した跡を残さず、その跡らしきものは一切消し去れという意味もある ようだが禅僧でもない者には、「喫茶去」は、そんな風に捉えたいと思う ![]() |
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雨 奇 晴 好 (うきせいこう) 雨もよし、晴れもまたよし、もちろん曇りもよし! 私たちが生きているということも、今、ここの目の前も、ただ一回限りのもの。その一回 限り、刻々と変化する自分と周りのモノ(環境)を、あるがままに観れば、新たな発見や気 付きがあるだろう 「奇」というのは普通とは違うこと、また思いがけないことと辞書にある。だから、「雨 奇」とは晴れは普通で好いものだけど、雨降り、そういう「奇」もまた好いということ まぁ、何をもって普通とするかは曖昧で、相対的なことだが、どんなことやモノにも、初 めから馬鹿にしたり好き嫌いすることの否を説いている 明日は今日と同じように訪れる、この人とはまた明日会えると当然のように思い込んでい るが、そんな「妄想」を持たず、「一日一生」「毎日正月」の心で生きたいと思う ![]() |
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一 期 一 会 (いちごいちえ) 自分にとってどんな人でも初めは通りすがりの人であり、縁がなかったのなら通りすがり のままに終わっていたかもしれない。そもそも縁があったればこそ、このトウチャンとこの カアチャンのところへ、この私は授かったのだ。不思議としか言いようがない そんな私の人生で出会う人が誰であれ、その時だけの帰らぬ時間、誠心誠意大事にしたい ものだ ところで最近、ある料理人がこの言葉を口にされているのをテレビで見て感動した。自分 が料理したものとそれを食べる方との出会いは「一期一会」であり、そういう心で料理させ てもらっていると その方には、食材となる一つひとつの野菜、肉、果物などもみんな自分との一期一会 ![]() |
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無 功 徳 (むくどく) 私たちは、「功」や「徳」を積む、つまり誰か他人にイイことをしたり、自分が努力した ことは、そのうち恩か成果みたいになって我が身に返ってくるんじゃあないかと無意識にし ろ期待しがちだ 「無功徳」とは、読んで字の如し、「功徳」は無い、功徳の見返りを期待してはいけなと いうこと 確かに、善行や精進などは、その行為をすること自体が自分を気持ちよくする、ハッピィ ーな気分にさせる。たとえ、他人には辛そうな修業みたいな努力、奉仕でもそんな自分自身 を「ステキだなぁー」、「ガンバってるナァー」って褒め、満足できれば、それが一番!そ れだけでイイ 関連して「信心」と「信仰」ということについて一言 「無功徳」は「信心」の問題であり、「信仰」の問題ではない。「信仰」は「ご利益(り やく)信仰」というふうに、信ずれば、祈れば、利益があるとばかり、見返りを期待しがち これに反し「信心」は、ただ信ずること。功徳があるかないかは問題ではない。功徳の有 無に敢えてこだわれば、信ずることによって得られる心の安らぎ、平安こそが最大の功徳 カメキチは、この違いをある本で教わって、目から鱗が落ちた。しかし、修業の足りない 凡人の我が身のこと、ご利益にすがる欲望には勝てない。しかし今は、山門や鳥居、拝殿の 前では、これもその本に書いてあったように、たとえば「家内安全」一つにしても我が家だ けというみみっちいものではなく、その範囲をできるだけ拡げる(究極には地球全体?)よ うにして祈り、お礼することにした 合掌 ![]() |
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廓 然 無 聖 (かくねんむしょう) 広辞苑を引くと、からりと開いた悟りの境地においては、もはや捨てるべき凡(ぼん)も 求むべき聖(しょう)もないことと書かれている。 別に、悟っていなくても(そもそも悟りなんて「覚悟」の「悟」。何らかの心を決めるこ と、決心、肝を据えること。日常の生活の中でよくしていること。人生という究極のモノを 何も焦って大上段に構えて「悟」らなくていいと思うのですが…)、こだわりや執着、つま らん価値判断を捨て去れば、心はカラッと晴れた青い大空のようになれるし、なるようにし たい 心地よい響き、言葉というのは岸辺に打ち寄せる波のようなもの(実は「般若心経」とい うお経もそうなんです)。「廓然無聖」も「カクネンムショウ」「カクネンムショウ」と唱 えているといつの間にか心が浄化されてくるように思えてくる。これって自己暗示? でも自分の心身を気持ちよく包みこむものは素直に信じてよいと思う。それは自己を暗示 してでも取り込んでいきたいもの ![]() |
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照 顧 脚 下 (しょうこきゃっか) 足元のような、一番身近なところをこそしっかり照らし、顧(かえりみ)たいもの 「照らす」といえば「明かり」が必要。灯台のように遥か遠くを照らしてくれ、羅針盤と ともに大局的な行き先を指し示す確かな何か、理念といったものが求められる。さしずめ人 生観、世界観のような哲学、宗教…。 しかし、人生の長い道程、あれこれと思考し、これぞというものを見つけるのは大切だが それだけではエネルギーが不足し、精神はしんどくなるばかり その一方で車の両輪のように、私の身辺、ごく近くを照らす小型で手軽な懐中電灯が必要 とされるのじゃないだろうか(「灯台下暗し」) それこそが足元を光で照らし、自分でも今までは気が付かなかったものを発見させ、生き ることの楽しさ・喜び・感謝を呼び起こしてくれそう そして、そういう「幸せな気持ち」が、ブレない、いえ、たまにはブレても軌道修正する 自分を支えてくれると思う ![]() |
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行 住 坐 臥 (ぎょうじゅうざが) 朝起きたら両手で水を掬って顔を洗い、きちんと掃除し、そして食べ物をいただく。夜に は床に臥して眠る…そして一日に何度も立ったり座ったり… そういう日常の生活はすべて 修行であり、その中にこそ仏法はあるのだから、毎日の何でもない同じことの繰り返し、立 ち居振る舞いを意識して、丁寧にきちんと行ってみましょうということ。 (たまに、自分 の言動を振り返り「威儀を正す」のもスカッとして気持ちいいものです) 私の場合、この身体になってからは、否が応でもゆっくり行動せざるを得なくなり、また 姿勢を正し、それを維持するのにもそれなりに「努力」を要する そういうことで(見たくなくても)「我が身体」に目を向けることになり、「いかん…! こんな猫背じゃあ。胸張ってさっそうと歩こうっと。さっそうと(立ち)止まろうっと」 ![]() |
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無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り (むいちぶつちゅうむじんぞう はなありつきありろうだいあり) これは、蘇東坡(そとうば 中国、北宋の詩人)の詩の一節 本来、モノ、つまり事物・事象は「空」であり、孤立・固定し、実体化したものは何一つ なく、すべて一瞬いっしゅん変化、移ろっていく。とすれば、執着すべき何モノもない。す べてのモノは変化しつつ関わり存在しており、「無いが、在る」(ワケの分らないような 「禅問答」みたい) 固定化した実体というモノは何もないが、そのことは裏返せば、関連し、変化していく様 々なモノは何かに含まれたり、隠されたりしながらも、無尽蔵に存在している 今・ここには何にもないように見えても、ちゃんと在り、ただ貴方が気付かないだけなの だ。 花があって、月があり、楼台(高い建物や屋根のある台)もある。それで十分。それ以上 何が不足と言うのか。 この文章と言うか言葉は、さすがは有名な中国の詩の一節であって、とても調子好くて覚 えやすい。私も覚え、「…ハナアリ、ツキアリローダイアリ」、口をモゴモゴやっていると 目の覚めるごとく ハッ!とすることがある 「足るを知る」という言葉があるが、これにも通じると思う。幸せって、足るを知る人に は、身近なもので、色々なこと、小さなことにも喜びや嬉しさを発見してはそれを感じてい るけれど、足るを知らない人は、恐らく余り感じられないのでは。こんな損なことはない。 一度きりの、今・ここ ![]() |
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応(まさ)に住する所無うして其(そ)の心を生ずべし (まさにじゅうするところのうしてそのしんをしょうずべし) 「オウムショジュウニショウゴシン」という言葉は「金剛般若経」というお経にある。何 モノにもとらわれない、執着のない空の心ですべてにあたれ、生きよ、ということ 「住」するということは、とどまることであり、つまり執着、こだわる、とらわれること 「色即是空」「空即是色」 世の中、永遠不変なものはなく、一切は「空」、心も形や居 場所が決まっているわけではなくコロコロと変わっていく。変わるからこそ、私たちは生き ていけるといえる。だって、この悲しみ、苦しみ、怒りがいつまでも続けばパンクするだろ う。そのイヤな空気を抜くために、ある時は気分を変える努力をしたり、そんな「努力」を しなくても寝たらスッキリ、それに、いつの間にか忘れたりする 何もイヤなことばかりではなく、楽しいこと、喜びもまた長続きしない。こっちのプラス だけは永遠不変であってほしいと願うのは人情だが、これが執着であり、新たな迷いや苦し みを生み出す 車を運転する方にはお馴染みの「ニュートラル」。前進も後退もしない中立の状態。心は いつでも 「ニュートラル」にしておきたい。すると、泣きたいときはワァーワァー思い切 り泣け、怒りたいときはプンプン怒れ、笑いたいときには顔がグチャグチャになるくらい笑 える。そして、これも車を運転する方にはお馴染みの「遊び」(ハンドルには回したときに 少しの余裕があり、この余裕(ゆとり)のことですね)。心底泣いたリ怒ったり笑ったりし た後は、心を縛らず自由自在に遊ばせておこう ![]() |
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明 珠 在 掌 (みょうじゅたなごころあり) 「自分なんて…」と、私もこれまでの人生で何度思ったことだろう。「こんな自分」を否 定し、「あんな自分」への変身を願ってみたり、そもそもどう変わりたいのか、その目標自 体が見えず、ワケも分からず、ただもがいてもみたり…。 特に、若い時はそうなりがちだと思う。「幼い」ときは生きるのに精一杯、らんらんと眼 を輝かせ、好奇心旺盛に外界を見るのに必死、「老い」たれば、皆さんそれなりに自分の人 生を築き上げ、築き上げさせた何か、自分を支え励ましたモノがある。ところが、「若き」 は… この言葉は、明珠、キラキラと光る宝物(個性)はあなたの掌(手の平)にありますよ、 誰にもあるはずなのに、それはすぐそこにあるはずのに、ただ自分で気付いていない、気付 こうとしていないだけのこと、ということ 素晴らしい自己肯定の言葉。「私は、私でいい。私だからこそいい」 考えれば、誰も好きでこの世に誕生したわけではない。時代や地域、家を選んだのじゃな い。生まれた時に持ったモノ、個性なんて自分で選択したモノじゃない。天から、仏様から 授かったモノ、絶対取り替えのきかない尊いモノ これでいいと思う自分。これではいけないと思い、あんなふうになりたいと願う自分。私 にも分らない私。その時、その場でコロコロ変わる自分…。色々な自分、私があるが、どれ も今・ここを生きている正真正銘の私、自分なのだ 悩んでいる私だって、私は私。そういう私も、そうでない私も、素晴らしい! ![]() |
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松 樹 千 年 翠 不 入 時 人 意 (しょうじゅせんねんのみどり ときのひとのこころにはいらず) 曲がりくねった幹、その先端には空に向けて開いて年中緑を絶やすことのない針のような 葉をつけた枝、自在に伸び広がる松の姿がイメージされ、そんな松みたいな人になれたらな ぁーと憧れる (ちなみに、私の亡父は松夫といいます) 日本では古来、変わらぬ緑が縁起の良いモノめ でたいモノの象徴の一つにもなり、あちこちの庭園に植えられ観賞され街道筋には目印代わ り、防風(砂)林にと有用的にも使われてきた。赤松林には希少な松茸も!それは昔から誰 でも知っているお馴染みの樹 松の葉は、常緑だが、それは人にはいつも緑に観えるということであり、松の中では、季 節とともに人知れず古い葉は落ち、新しい葉に変わり続けている。それに、岩肌の痩せた少 しの土にもドッカと根を張り、空を、上を向いて風雪に耐えている。 よく観れば、幹の、 曲がりくねった格好は、環境に応じて自由自在なのだ 「トキノヒトノココロニハイラズ」 いつもの緑、地に生えた姿は、変わらぬからこそ人 の意に留まることは少ないかも知れないが、何が大事かを私たちに語りかけている ![]() |
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主 人 公 (しゅじんこう) 「私」。この身体と精神の合一した人間は唯一無二、今・ここを生きている存在であり、 人の生に、一方が「主役」一方が「脇役」なんて在り得るはずがない 小説や芝居は主題(テーマ)を絞り、それにそった物語を描き、その範囲で劇(ドラマ) 的効果を求めて様々な人物を登場させる。だから、主役も脇役も必要なのだ。一人ひとりの 役柄、出番は違っても、誰もその劇・物語には欠かせない存在 一人ひとりの人生に焦点を合わせれば、人生は「一人芝居」といえそう。私の物語の「主 人公」はこの自分、私にほかならない 「私なんて… 」「自分なんて… 」という言い方 何とバチアタリな! 『無門関』という有名な禅の本によれば、瑞巌寺の師彦(しげん)和尚は、毎日「おー い、主人公しげんよお前、今日もちゃんと生きとるかのぉー」と聞き「はい、はい」と答え ていたそうだ 「おーい、カメキチよ、お前はお前の道を歩いているかぁー お前はお前の道を歩けばい いんだぞぉー」 「はい、はい ありがとうございます」 ![]() |
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随処に主と作(な)れば 立処皆真なり (ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり) 先の「主人公」にも通じるが、「主」というのは主役やリーダーという意味ではなく本当 の、真実の自分ということ。本当の自分というならウソ・イツワリの自分もあるはず 人は生まれてから世間という社会で生きていくうちに、そちらのモノサシ価値観に自分で も気付かない間に影響を受け自分でも気付かない間に支配されている 本当・真実の自分とは何? 真の自分の声は、一人ひとりが静かに深く自らの内なる心に 耳を澄ませることにより自ずと聴こえてくるものとしかいえない 仏教では、衆生、つまり生けるモノはすべて仏性があると説くから誰にも仏さまが住んで おられ、きっとそれは聴こえてくる この言葉、自分自身が内なる声を聴き、それにしたがって生きていこうとするならば、ど こ、どんなときでも、すべては自分には「真実」となると教えてくれている。 人が見てい ようがいまいが、自分が立っている色々な「今・ここ」を、自分の人生の「主人公」として 生きたいもの ![]() |
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宇宙無双日 乾坤只一人 (うちゅうにそうじつなく けんこんただいちにん) 今度は「宇宙」ときた。何と壮大で、気持ち好い言葉だろう。口にするだけで心が無限に 広がっていきクヨクヨ悩むのがバカらしくなってきそう… 後半部分は、「乾坤」つまり天地にただ一人と孤立したイメージを抱きがちだが、ここは 前半、宇宙に太陽は二つとないと続いており人も、二人と同じモノはなく一人ひとりがすべ ての自然を生かす太陽のように慈悲の心を注ぐことができるということ 人間も無限の宇宙の構成要素。人間自体無限の宇宙の構成要素から成り立っていて、それ って 「人間=宇宙」ということ 素晴らしい! でも、勘違いしてはいけない。まさに自分自身が宇宙だが、それは自分だけが宇宙という ことじゃない。「自分だけ」=「自己」、「自己宇宙」、「自己宙」「自己中」、「ジコチ ュー」ではない 一人ひとりの数だけ宇宙があり、しかもそれはみんな違ってみんな尊重される 『柳緑花紅真面目』で触れた金子みすずの詩 「…みんなちがって、みんないい」 ときには、自分だけの宇宙、世界から離れ「空が青いなー」「風がさわやかだなー」って 素直に感じ万物を慈しみたい。 ケータイだけでなく、そんな大宇宙へのつながりも大事に ![]() |
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可 及 其 智 不 可 及 其 愚 (そのちにはおよぶべきも そのぐにはおよぶべからず) 知識はいくらでも積めるし、賢くもなれる。多くのことを知り苦行難行を積めば、それだ けのことがあるかも知れない(ないかも知れない!) それを「智」と呼んでもいいと思 われるが、ただ、それで悟りにいたっても、悟りを得たという自我を捨て去らなければ真の 悟りとはいえない 誰だって、悟りの臭いがする「智」の人にはなれるが、それを少しも感じさせない人にな るのは、本当に難しいのだと思う 良寛は「大愚良寛」、親鸞は「愚禿(愚かな坊主)」と自らを称したが、人間とか人生の 何かについて「悟る」まで考え実践した彼らは己の存在の小ささを、雄大・悠久なる自然を 前に実感せざるを得ず、その気付きを決して卑下するのじゃなくただ謙虚になり、それで 「愚」と名乗ったのだろう ![]() |
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不 雨 花 猶 落 無 風 絮 自 飛 (あめならずしてはななおおつ かぜなくしていとみずからとぶ) 雨が降らなくても花はいつか落ち、風が吹かなくても絮(イト 柳の種で白い毛があり 「柳絮」 リュウジョと呼ばれる)は、自ずと飛んでゆく、ということ。 理由などない。 自然は在りのまま 季節が巡り、花は枯れ、そして散りゆく。大雨が降り、台風があり、その花は少し早く落 ちてしまうこともある。しかし 隣の枝、茎の花はちょうど運よく難を逃れ、今しばらく は残るかも知れない。しかし必ず散ってゆく 私には九州に二人の親友がいるが携帯メールや電話で、その友だちとよく言う 「人間も自然の一部。生かされているんだよね。自然の摂理に従って、自然と折り合いを つけ力を抜いて楽に生きたい」 ![]() |
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逢 茶 喫 茶 逢 飯 喫 飯 (ちゃにおうてはちゃをきっし はんにおうてははんをきっす) 何と単純で、かつ明快な言葉。思わず叫んでしまいそぅー「その通り!」 お茶を出され たら、きちんとお茶を味わって飲み、飯が出たら、その飯をしっかりと味わって食う お茶よりかコーヒーがよかったなと思って飲んだり、好きなオカズがほしかったなと思っ て食べたりしていないか。あれがよかった、こうしたかったと選り好みしていないか そして、眼の前のことに素直に集中していないのではないか 「喫」という漢字は食べるとか飲むということ。その食べたり飲むという当たり前の日常 の生活をおろそかにしてはいけないという禅の根本的な教え。私にはもっと早く知っておき たかった禅語の一つ 今は胃も失い早食いも溜め食いもできないが、そうせざるを得なくなって米一粒、緬一本 をすり潰し何度も噛んで味わう楽しさを知った。「奥の深さ」なんて日本語にはビミョーな 表現があり、日本語の奥の深さを物語っているが、私は、きちんと味わうようになり、飲食 にも奥の深さが感じられるようになった気がする(これは錯覚かもしれませんが、そうであ っても構いません。ステキな錯覚は、そのままでいいと思う) ![]() |
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拈 華 微 笑 (ねんげみしょう) 「拈」は「つまむ」ということ。花をつまんでほほえむのが拈華微笑 観音様がモナリザみたいな微笑みをうかべ一輪の花を手に立っておられるお姿が浮かぶ 真心は心から心へ伝わっていくものであり、心という全体のモヤモヤとしたモノは、具体 的に文字や言葉としてまとめることが出来ないことがあり、そんなときは、何とか相手にわ かってもらおうとステキな言葉など探す努力をするよりか、たった一つの表情の方が伝わる 禅では「不立文字」(フリュウモンジ)という言葉も同じようによく使われる。 「拈華 微笑」とともに、脳の左半分(左脳)が司る言葉や文字による論理的な思考は大切だが、世 のすべてが理屈で割り切れると信ずることの弊害を説き、禅の神髄に触れている 全体がボゥーとしていて、言葉や文字ではうまく言い表せない。何とか表現しようとする と肝心の大事なモノ・心が抜け落ちてしまいそう… そういうことって、ある。そんなとき は(花を持たなくても、誰か相手がいなくても)、ともかく、下の石仏(羅漢)さんのお顔 を真似てみたいと思う ![]() |
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春 在 枝 頭 已 十 分 (はるはしとうにあってすでにじゅうぶん) これは中国の宋代のある詩人の詩の一節 寒い冬に、誰もが温かな春の到来を待ち望む。その春には「今・ここ」の自分は遠いと思 うが、ふと気が付けば已(すで)に目の前、掌の中の木の枝か茎の先には、春がある。「春 が来た」ということに、自分は気付いたのだ。春が在る、それで十分じゃないか 「少欲知足」という言葉。それを美しく具体的に、この詩は言い表してくれている 「春」に託した自分の幸福、宝、真実… 肝心の自分がその存在にただ気付かないだけ ![]() |
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瓦 を 磨 い て 鏡 と な す (かわらをみがいてかがみとなす) 中国唐代の南嶽懐譲(なんがくえじょう)という僧と弟子の馬祖同一(ばそどういつ)の 有名な問答 南嶽「そんなに一生懸命に座禅しているが…」 馬祖「悟るためです」 それを聞いた南嶽は瓦のかけらを砥石でゴシゴシ磨き始めた 馬祖「和尚、何をしているんですか?」 南嶽「磨いて鏡を作るんじゃよ」 馬祖「瓦をいくら磨いても鏡になるわけないですよ」 南嶽「じゃあ、お前は座禅して悟れるかの?」 何かのため、目的を持って努力すると、何かの有意ないい結果が出ると(自分勝手に)私 たちは思いがち。それを戒めた問答 どんなに磨いても瓦を鏡にすることはできない。悟りのための座禅という行為も、同じよ うに無意味でも、結果を求めずひたすら磨く、無心な行為 一見、無意味(無駄・無為)な結果に終わっても深く考え、思えば、そんなことは決して ないと思う 瓦かガラスの破片、小石でも拾ってきて、私も磨いてみようかな ![]() |
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平 常 心 是 道 (びょうじょうしんこれどう) 中国(唐代)の名僧趙州(じょうしゅう)が師の南泉(なんせん)和尚と交わした問答が 有名で禅の本質がズバリ表われている 趙州「人の道とはどのようなものでしょうか」 南泉「そうじゃなぁ 普段の心かのぉー」 趙州「普段の心!じゃあ、それを目標に生きればいいのですね」 南泉「道を目標にすると それてしまうぞ!」 趙州「それる? どうしてそれてしまうのですか」 南泉「道は目標にするもんじゃないのじゃ」 上の問答で言う普段の心、平常心とは、いつもの静かな精神状態という意味ではなく毎日 の小さな行いも決しておろそかにしないこと。そんな日日の心がけのこと。日常茶飯事にち ょっとだけ気持ちを込めてみるそれが仏の道 薄暗いお堂で座禅を組んだり、深山幽谷で仙人みたいに霞を食うのが修行だと思えば私た ち凡人は呟かざるを得ない「仏の道は遠く、厳しいのぉー…」 でも平常心是道なら、仏の道も近くなり、私にも出来そう 「丁寧(テイネイ)」ということ 丁寧な取り扱い・対応のように他の物・人には日常的によく使うのだが、自分に向かって は余り使わない。それだけ、周囲には気を遣うのに、己にはぞんざいなのだ。 自分の人生 の「主人公」は自分なのに 常心是道とは、丁寧に生きることかのぉ ![]() |
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災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候、 死ぬ時節には死ぬがよく候、 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 (さいなんにあうじせつにはさいなんにあうがよくそうろう、しぬじせつには しぬがよくそうろう、これはこれさいなんをのがるるみょうほうにてそうろう) 手まりつきでお馴染みの良寛和尚が71歳のとき住んでいた故郷の越後を大地震が襲い、大 惨事になった。そのときの知人の見舞いに返した手紙の一節 自分の力でどうしようもないコトってあるもんだ 地震も発生の仕組みが解明され、ある程度予測可能になり、防災も何もしないよりした方 がマシ。被害も軽減される。喫煙だって、する方がしないよりか病気になりやすい。死ぬリ スクが高くなる。でも、それは「比較」した上でのこと 死や災難からは無縁でありたいと誰もが願っている。そのための努力も自分なりに誰もが やっている。それでも死神・貧乏神はこの私にある日突然、またジワジワと訪ねてくる。 「宝くじにも当たったことないのに、何で私が…」 その理不尽にすごく腹が立つ 「比較」はいけない(と、禅は教える) 悲しいかな…私は凡人。ここにも随分とわかったふうなこと書いているが、仏の教えにど んなに感激しても今の自分を肯定し認めたい(それ自体、仏の教えなのですが)がために、 いつの間にか、何かと比べて嘆いたり安堵したり…する 自分の災難を客観的により酷い人のことを想って(比較)まだマシと感じる。そのイヤら しさ、愚かさに気付き、ガクッ 私には自己嫌悪することが、日常茶飯な事でも限りなくある「あーぁ、またやってしまっ た」。生きておれば色々ある。失敗もしょっちゅうだ。 しかし、できるだけ良寛さんの言 うように、現実を在るがまま受け止め、何事にも怖がらずジタバタもせず、その時その場を ヘマでも精一杯、自分なりに(自分と折り合いをつけ)切り抜けたい ![]() |
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一 無 位 の 真 人 (いちむいのしんにん) 私たちの身体(赤肉団上・シャクニクダンジョウ)には、一人ひとり世間の様々な価値基 準では判断でき無い、位(順番)なんか付けようが無い仏性(個性=真人)がすんでおり、 眼・耳・鼻・舌・皮膚という五感をいつでも自由に出たり入ったりしている。 ウソと思う なら自分自身をじっくりと見つめてみよ! 何年か前に流行った歌に「オンリーワン」という言葉がありステキな言葉だと私は思った こんなのが国歌となったら三万人以上も自殺者が出る社会に日本はならなかったのではない だろうか 身体そのものはもちろん、地位・財産・名誉といった社会の構造・システムがつくる様々 な差、違いを背負い私たちは生きいる。生きざるを得ない。それが重圧となり生きることが 辛くなり、ときには押し潰される人が出てくる… この(今・ここの)一人の自分は他と比べようが無い、位というレッテルを貼られること の無い真(マコト)の人間なのだ。 つまり「オンリーワン」なのだ 「一無位の真人」とは、まさに人権宣言 私は改めて驚いた。禅語って凄いこと云ってるなぁー ![]() |
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任 運 自 在 (にんうんじざい) その通りに読めば、「運」に任せば自由自在… ? 私は、「運」も「縁」も同じようなモノと思うが、その「運」も「縁」も思い通りになる わけじゃなく、まさに不自由・不自在そのもの そう考えればヘンな言葉なのだが、自分ではどうしようもないモノ、つまり「運」は、あ る程度は「努力」によって引き寄せられるが、それとは無関係なややこしい、けったいなモ ンとでもいうことかな あえて抵抗せず、任せることもイイ!すると自由、自在になれる(「他力本願」に共通す るところもありそう )…とは、私流「任運自在」 本には、人は自分のコトを自分以外のモノに任せることができず自分へのこだわり、執着 (我執)を断ち切るのが容易ではない、ちっぽけな分別、損得勘定が私を縛っている。そう いう自分を捨て去ってみることの大切さを説かれている いずれにしろ、得体が知れなくとも雄大なモノに自分を任せてみると、身も心もスッキリ ![]() |
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枯 木 裏 の 龍 吟 (こぼくりのりゅうぎん) 雲水に「仏道とは何か?」と訊かれて中国の香厳(きょうげん)禅師がそう答えたと、有 名な禅語録の「碧巌録」にある 枯れた木には腐って出来た空洞がよく見られるが、風が当たるとまるで枯木が啼いている よう 「リュウ~リュウ~♪…♪」 まさに龍が吟じている。 うたっている 木は、立っているだけで土砂を護ったりCO2を吸って酸素を吐いたり、人との長い付き合 いのなかで、傍にあるだけで安らかな気持ちにしてくれたり、木陰を作り憩わせてくれる。 そして、枯れたら (死んだら)、虫などの巣となり、「龍吟」の音、枯れたからこその 色・形で人間を楽しませてくれる そして、いずれは自らが生まれたところの土に還り、その土を肥やし、新しい生命に繋が っていく 悠久で雄大な大自然に(もちろん人間も)「無駄」とか「無縁」とか絶対無いのだ。 こ のコトは絶対 ![]() |
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漁 夫 の 生 涯 竹 一 竿 (ぎょふのしょうがい たけいっかん) 名句「山僧が活計茶三畝 漁夫の生涯竹一竿」より 山寺の坊さんが生きていくのに三畝の茶畑もあれば十分。これ以上あれば耕すのが大変。 一度の食事に食べられる量なんて決まっている。漁師だって竹ざお一つあれば死ぬまで食っ ていける。これ以上、何が必要というのだ 大事な、必要なモノとは? どれくらいあれば? その大事なモノを見失うほど、目まぐるしく変わる情報化社会の日常にどっぷり浸かり、 心に余裕を持ち難くなっている我々。オットットー…他人事じゃない 自然は平等に誰にも一日24時間与えてくれている。どうでもいいモノ・コトに時間を割け ば大事なモノ・コトを疎かにしてしまう 漁夫の生涯 竹一竿 そうか… 引く、減らす、捨て去ることで真実が見えてくる… これは障害を負った者にはピッタリ 遅まきながら私は気がついた ![]() |
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壺 中 一 壺 の 天 (こちゅういっこのてん) どんな境遇にあっても、そこが自分にとっては素晴らしいと思える人はシアワセ 醤油の味が百あるなら、幸せも人様々、百通りある。一人ひとりの「世界」(壷)はみん な違っているけれど、一つ天を戴いている。その天は、つながっている。つながっているけ れど、一人ひとりの天なのだ。天は 悠々、泰然としている ![]() |
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前 後 際 断 (ぜんごさいだん) 「今」、一瞬が私が生きているということであり、禅の根本的な心 道元禅師は有名な『正法眼蔵』のなかで「しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありの ちあり前後ありといえども、前後際断せり」と仰る。禅師は刃物で割って焚き木をつくると いう生活の営みの一断面を見事に描き出し、人生にたとえている。すなわち、人生も木のよ うに長く一本あとさきとつながっていると思っていても「今」現在は切られ、その断面を現 している 過去・未来を、人間は勝手に思いこんでいる。だがそれらはあくまで想念にすぎない。 「現在」の便宜にすぎないのだ 過去と未来が火花を散らす「今」一瞬を、前も後も断ち切って、つまりとらわれることな く大事に生きよ、と禅師は仰せられる ![]() |
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無 功 用 (むくゆう) 「用」はヨウではなく、ユウと発音する。 禅は昔の中国で生まれただけあって、仏の教えと言いながら、多分に、たとえば老荘思想 みたいな伝統的な他の、仏さまとは直接には関係なさそうな考え方とも相通じるところがあ って面白いが、禅語の読みも、漢字の母国の影響を受けており、発音が面白い 今度は、すでに書いた「無功徳」ならぬ、「無功用」 人は誕生したときから、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感受性がある。それらを使って つまりそれらの働き、作用(これが「用」)により外界を、先ずは感じて受けとめ、次に認 識し、そして概念を作り上げる。この概念化において、我々はおうおうにして妄想を持ち込 こだわりを抱きやすいもの。たとえば子どものときは気にもならなかったモノにイライラし たり、怒ったり恐れたりする… そういう偏見にとらわれた観方、価値判断することの非を説いたのが「無功用」 日本には昔から霊山と呼ばれる信仰の山があちこちにあり、その「おヤマ」を崇拝する人 々は、白(白=空)装束に身をかため「ロッコンショウジョウー」(六根清浄)と繰り返し 言いながら登るそうだ 若い頃には、「ヘンなの…?」と見向きもしなかった日本の宗教文化というか伝統的なモ ノが、やっと今頃になって少しずつ味わえる これも「長生き」(まだ長生きと言えるほど生きてはいないか?)しているお蔭。在り難 いことだ ![]() |
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全 機 現 (ぜんきげん) 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。 しかあ れども生は全機現なり、死は全機現なり」 道元禅師の有名な『正法眼蔵』の中の言葉。存在するモノすべてが何らかの意味がある、 いや意味が有る無いと言うことが無意味であり、生き物として生まれた限りは夏の炎天下、 干からびたミミズを必死に引くアリのように、全力で生きよう(それは全力で死ぬこと)と 前に紹介した「前後際断」は一瞬一瞬を大事にと、特に時間に眼を向けていたが、ここで は空間と言うか、この場を占めている自分という存在(身)に眼を向けている気がした。部 分としてではなく、全体としての自分、人間を生きるコトの大事さを 道元は宋(中国)で修行しているとき、老いた僧が椎茸を干す仕事をしているのに同情し 若い僧に代わってもらえばいいではないですかと言った 老僧 「他(た)は是(こ)れ吾(われ)にあらず」 なるほど。他人は私じゃない 道元は、でもこの暑い盛りにわざわざしないで、もっと陽が落ちてからしたらどうですか? と言った 老僧 「更(さら)に何(いず)れの時をか待たん」 なるほど。後で後で…とコトを伸ば してばかりいては本当にその時が来るとは限らない 思えば、道元。私には学校の授業でその名を聞いた覚えしかない。歴史上の人物が、今に なってマルクス・レーニンを超えて現れようとは これも縁なのだろう ![]() |
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遊 戯 三 昧 (ゆげざんまい) 「生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん」 『無門関』 生死を前にして、自由自在な境地に達するには? 仙人みたいなことを言っているが、計 算通りにはならない、思ったようにはいかないのが人生だから、今・此処(ココ)を一所懸 命生きること、過ごすことが大事 が、ここには「遊ぶ」「戯れる」があり、「空」や「無」(まぁ「三昧」ともあり「空」 「無」につながりますが)の禅の世界をいっそう膨らませているようだ 遊び戯れること、パチンコなんか「遊戯」事を連想しがちですが、それは今の日本にどっ ぷり浸かっている我々に言えることであり、ここで言う「遊戯」とはそんな特定の「遊戯」 事を指すのではなく与えられたモノ(「運命」・選んだモノさえ)、対象は何であってもド ンと受けとめよう、受けとめたそれを味わい(「遊戯」)つくそう(「三昧」)、というこ とと私は思う ![]() |
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無 事 (ぶ じ) 「無事」とは普通、無事で良かったねとか無事を祈るとか、無事が一番というふうに心配 な事が無い、起きない状態を言う しかし、禅では自分の内面に踏み込んで心・精神の状態を言う。すなわち、心が「何か」 にとらわれ執着し、乱されることのない穏やかで静かなコト もちろん問題はその「何か」であり、我欲や名利(そんなモノを求める特別の欲張り者の 話だけではなく、普通の人が「自分」中心の考え・思い、思慮分別にこだわるのも同じ)に とらわれて己を見失うなかれ、というコト ところで普通の「無事」も、よくよく考えれば心は禅の「無事」に通じる。「案ずるより も生むが易し」という諺もあり、一寸先は何が起きるかわからない。ホント、心配は限がな いモノだ… これは『廓然無聖』 『主人公』にも通じ、忘れていた私はハッ!とした ![]() |
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足 る を 知 る (たるを しる) よく言う「少欲知足」のことで、お釈迦さんが涅槃にあるとき言われた 私は幸せとは何ぞや? と尋ねられたら、「幸せ」そのものはいっぱいあって、とても一 言で表せないが、その「条件」「前提」には必ずこれがあると、こたえる 人間の欲望には限りがなく、その無限の欲が科学技術を発展させ、今日の「先進国」の生 活を可能にしたわけだが、科学や技術の進歩が、人の幸せも「発展」させてくれるわけでは ない 生活が楽になり、一時的に「幸せだなぁ~」と思うだけ 「もっと…」と欲が出れば その瞬間、たちまち不幸がやってくる… ほどほどがイイと思う、ほどほどで満足する さて、「ほどほど」とはどれくらいなのか? この微妙なトコロ、曖昧さ。これを自分で自由に決める心地好さ! これこそ 幸せなのでは ![]() |
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煩 悩 即 菩 提 (ぼんのう そく ぼだい) 『六祖壇教(ロクソダンキョウ)』という、禅宗の流れの六番目の僧侶、慧能(エノウ) の言葉を集めた仏典に「凡夫即仏 煩悩即菩提」とある(凡夫の私にはありがたい言葉では ありますが…) 凡夫が、そのままで仏さま。 仏道の修行する人はそうすりゃいいし、修行しない人、しなけりゃいい。 それに、何も 出家や座禅念仏だけが修行じゃあるまいに 仏教のシンボルの蓮は、泥の中から咲く。自然は様々な姿で、「煩悩即菩提」を暗示し我 々を導いてくれているのだ ![]() |