随想  麻井 宇介 氏   (平成7年10〜11月 神戸新聞に掲載)

 1 或る出会い

書痴という言葉のむこうに想像する人物像に、ある種の畏怖とあこがれを抱いた頃があった。そして、多少は蒐書狂の心情がわかる程度まで、週末には駿河台下の古書会館へ通いつめる数年間を過した。

 あの頃は土曜日が半ドンであった。だから昼飯もそこそこに、いそいそと古書展へ立ち寄り、山積みの埃を払いながら一冊一冊を掘り返すようなこともできた。まだ会館が建て替えられる前の、木造の平屋で薄縁を敷いた会場に、靴をぬいで上がり、ここぞと思う和綴じの端本の山の前にあぐらをかいて、我を忘れる時間にひたったものだ。

 しがないサラリーマンが、稀覯本を横目にみながら、こんな逸楽を覚えたのは、世間の関心のまったく外にあったと思われる小さな目標があったからだ。ねらいがあるから熱中できるのである。それがマイナーなものであったのは、いま思うと、身のほどにあっていたとしか言いようがない。数年で掘り尽くせる山だったのである。

 それは明治期のブドウ栽培書とワイン醸造書の類であった。山梨県の在方地主だった或る旧家で見かけたのが発端である。本のとりこになるというより、探し出すことに情熱をかきたてられたのは、自分にもわかっていた。

幸いにも、蒐書狂の底なしの淵を垣間見ただけで、古書会館通いの足は遠のいた。それでも、神田、本郷、早稲田などの古本屋めぐりは、数ケ月も間があくと、どうにも虫がおさまらなくなる。これといって求める本があるわけではなく、一巡すれば気が鎮まるのであった。

 そんな或る日、いつもは本棚の最上段でしか見かけない『農務顛末』の揃いが、なぜか手の届く高さに並んでいた。明治前期の和本と違い、これには一度も目を通していなかった。手をのぱして偶然取り出したのが第六巻、目次に「播州葡萄園」の文字が躍った。

 これが幻の葡萄園との出会いであった。

 

2 幻の葡萄園

 ブドウは渡来植物である。

 わが国には古くからエビズル、サンカクズル、マンシュウヤマブドウなどが自生しているが、これらと食用や醸造用に栽培されているブドウは、同じブドウ属であるとはいえ、来歴はまったくことなっている。

 第四氷河期が終わった頃、地球上にはブドウ属の植物が、アジア西部、アジア東部、北アメリ力東部に、固有の種となって、離ればなれに分布していた。現在、われわれが利用しているのは、そのうちの僅か数種にすぎない。ヴィティス・ヴィニフェラ(いわゆるヨーロッツパ系ブドウ)、ヴィティス・ラブルスカ(いわゆるアメリカ系ブドウ)の二種と、その交配種である。果物屋の店頭でみかけるいろいろなブドウは、これら分類学上の同一種属の中で分れた品種なのである。

 そのどれひとつとして、昔の日本にはない。人の手によって持ちこまれたのである。渡来の時期は大別して二度あった。遣随使、遣唐使の頃と、明治時代の殖産興業期である。前者はおそらく薬種としてであったろう。後者は明確にワイン醸造を目的としていた。

 しかもそれは、国家の壮大なプロジェクトとして行われた。全国に配布する苗木の生産と、フランスに範をとった栽培から醸造までの指導機関として、国営のワイナリーが開設された。それが「播州葡萄園」であった。

 『農務顛末』でその名前をはじめて見た印象は鮮烈だった。なによりも「葡萄園」という言葉にうたれた。梨園、桃園はあっても、ブドウは畑である。それは花をめでることの有無からくる使いわけと思われる。ブドウには花びらがない。ひっそりと咲いて、気がついた時はもう青い実を結んでいる。「播州葡萄園」は、花園としてではなく、ワインをつくる果樹園であると主張しているのだった。

 だが、その葡萄園について、私は誰からも話を聞いたことがなかった。どこにあるのか。幻の葡萄園に私の想いは一気にふくらんだ。

 

3 印南の原野

 ブドウの産地として古くから著名なのは、山梨、山形、岡山である。それに加えて、かつては大阪府下が大産地であった。日本一の生産量を誇ったこともある。今は、長野、福岡が巨峰によって知られるようになった。

 これらは、たかだか百年の栄枯盛衰である。その歴史の大部分は、食べるブドウによって綴られた。だが、いまわれわれが食べているブドウは、はじめ、ワインにするため海外から持ちこんだものである。その目論みは、ワインを飲む社会が実現するより、一世紀早すぎた。そして頓挫した。

 とはいえ、ワイン用ブドウの栽培に幕を引いたのは、寄生虫フィロキセラの猛威であった。ヨーロッパ系ブドウは絶滅し、耐性のあるアメリカ系ブドウが残って、醸造から生食へ用途転換した産地が復活したのである。

 「播州葡萄園」の顛末もまた、こうした経緯の中に埋もれてしまった。語りつぐ者が、日本のワイン業界にはいなかったということだ。それは、われわれのワインづくりが「播州葡萄園」の行実を何ひとつ継承していないという意味を持つ。残念だがそれは肯定しなければならない。

 ならば、忘れ去られるままでよいのか…。

 ある初冬の朝早く、私は山陽本線土山駅におり立った。夜行列車を乗りついで、あてずっぽうに来たのである。もう二十数年前になる。「播州葡萄園」がどうなっているのか、それを見とどけたいという興味を抑えきれなかった。消えていく歴史になにがしか思いをかけていたとは、あとになって言うことである。目指すのは「稲美の野」であった。

 官記によれぱ、該園は兵庫県加古郡印南新村において三十町二反八畝十九歩を買収、明治十三年三月、開園に着手した、とある。私は地図を調べて、稲美町を見出し、一面にちりばめられた池の多さに驚いた。印南新村とは原野を開墾した入植地に違いない。先人は水のない荒野に、ブドウを植えたのである。

 

4 水を求めて

 ブドウ畑を案内していると、「この根は深いんでしょう?」と尋ねられることが、よくある。ワインの入門書などに、十メートルあるいはそれ以上深く、ブドウは地下の水を求めて根をおろしていくと書いてある。その写真や図解もあって、ワイン用のブドウ畑を訪れる人達の想像をかきたてるらしい。

 事実、地中海沿岸の乾燥した地域にブドウ畑が広がる景観は、灌漑なしに営める農業が限られていて、牧畜とワインづくりがその土地にもっともふさわしい暮らし方であることを示しているのである。ブドウは人間が汲み上げることのできない水を吸い上げる。そ

れが果汁であり、それをさらに保存可能な飲みものへつくり変えたのがワインである。

 沙漠とは、水がなく、それゆえに広く果てしなく大地が展開した場所をいう。砂地で養分が欠乏し、植物が育たないのではない。水さえあれば万物は甦える。そういう場所に灌漑をして生れた著名なワイン産地のひとつにカリフォルニアがある。いまは垣根づくりで青々と葉を茂らせる畑の一隅に、ごつごつと瘤だらけの、桑の切株のような老木を見かけることがある。それが地中深く根をおろし、自力で生育したブドウ樹の姿である。

 印南の野にブドウを植えようとした動機は何であったのか。ここが水不足に悩む荒蕪地であったからであろうと、最初は安易に推測していた。

 今年、町制施行三十周年を迎える稲美町が発足してまだ数年しかたっていない頃であった。うす暗い感じの木造の役場だった記憶がある。しかし、示された地図に「葡萄園池」の名を見た驚きは鮮烈だった。すぐに、私はその場所へ向った。稲刈りの終った田圃には、そこここに客土の黒い土が盛り上げてあった。

 ゆるやかに起伏し、曲折する道に、池が次々に現われた。その水面は、透明さをました初冬の日ざしをはじいて、まぶしく輝いていた。

 

5 葡萄園池に立つ

 水を落とした田圃のむこうに堰堤が見えた。

 近づいて行くと、枯れはじめたススキがおおう斜面は、見上げる高さ七、八メートルはあろうかと思われた。

 教えられた場所は確かにここであるはずなのに、期待していた水面の見える池の姿は

なかった。西に面して築かれた堰堤は南端の私がたどりついた地点で、ほゞ直角に東へ転じていた。その少し先に一軒、この堤防と思われる斜面を背負って、ぽつんとあった。

 折よく家人がいて、親切に家の裏手から土手の上へ案内してくれた。

 日の前にひろがったのは、水底の中央とおぼしき遠い地点に僅かの水面を残して涸れあがった空間であった。高く澄みきった天空に充満した光が、四囲に土を盛って囲った大地に、掬いとられるように湛えられていた。

 これが、はじめて見る葡萄園池の姿であった。遠い対岸で工事の杭を打つ音が、初冬の空へ吸いこまれるように響いて上るのが聞えた。昔、水が涸れるとブドウの株があちこちに転がっていたと、かたわらに立ったその人は、子供の頃の記憶を語ってくれた。

 播州葡萄園がこの場所を選んで開設されたのは、ここが砂礫層の台地の上にひろがる水のない荒野だったからだ。私は、堰堤をめぐらして水を溜める用水池に変わってしまった葡萄園を眺めながら、水不足の丘陵地帯に果樹農業を導入しようとしていた明治初期の農業政策に、納得がいく思いであった。

 ブドウ農業の推進が国家の一大ブロジェクトとなったのは、水利の便が悪く、地味のやせた荒蕪地の開墾に導入する作物として、それが最も適していたからであった。欧米列強の圧力に抗しながら、近代国家の建設を急いでいた維新政府は、工業化の原資を開墾などによる農業生産の向上から捻出しなければならなかった。モデル事業としての播州葡萄園は、そういう役割りを負っていたのである。

 そこに醸造が伴って、それは完結する…。

 

6 播州葡萄園開設の謎

 幻の葡萄園が、かつてそこにあったしるしとして、干上った葡萄園池の底に広々とした大地を見てから、三十年近い歳月が流れた。

 フィロキセラ虫害で挫折した明治殖産興業の夢の跡に立っているということだけで、あの時は、ワインづくりにたずさわる自分も歴史の中にいるような感動につつまれた。それは、日本のワイン史の埋れた一場面を見とどけた満足感というより、志を果たせなかった人達への鎮魂の思いというべきものであった。

 そして、その余のことを考える気持のゆとりはなかった。百年前、この地にワイン用の葡萄園が開設されたのは、自然条件にてらして至極当然のことと思われた。水利の悪い中山間地農業のモデル事業として、播州葡萄園は生れるべくして生れたものと信じて疑わなかった。

 だが、『農務顛末』に収録された葡萄園用地の買上に関する文書によれば、当初の候補地は「泉州堺町ヲ距ル南方三里」の荒蕪地であった。ここは小野組が開墾に着手した後、政商五代友厚の所有となっていた。六十町歩をこえる曠漠たる原野が手つかずのままそこにあったという。葡萄園として、またワイン醸造場建設用地として、この土地の適否を調査したのは福羽逸人であった。明治十二年十二月三日、彼は「勇進シテ此ニ葡萄園ヲ開ク」ことを期望する旨の復命書をしたためた。

 翌明治十三年二月二十二日、福羽は大阪へおもむき、三十町歩の用地を買上げるべく、五代と交渉を重ねた。しかし、この取引きは不調に終った。

 そして三月二日、勧農局長品川弥次郎より、突如、兵庫県令森岡昌純宛に印南新村の三十町歩買収が申し入れられた。この文書を起案したのは三田育種場長池田謙蔵であった。

 この間、わずか十日にみたない。

 葡萄園池を訪れた時、この土地が選定されるまでの経緯になにかがあるとは、つゆ思わなかった。思ったのは十数年後、ふとした機会に『農務顛末』を読み直してからのことである。

 

7 葡萄園池再訪

 稲美町役場は、場所も、そのたたずまいも、昔の記憶とはまったく変っていた。立派になったその庁舎を見上げながら、前の広場を歩いていくと、驟雨が追いたてるように降りだした。その雲足の早い空の下を、総務部企画課のOさんは、播州葡萄園ゆかりの場所へ、役場の車でつれていってくれた。

 思いがけないことに、郷土資料館に隣接して「播州葡萄園歴史の館」というこじんまりとした和風の建物が新築されていた。その奥は「万葉の森」のある中央公園へ続いている。広い道路をはさんで向い側は「いなみ文化の森」。その施設の一つに図書館があって、文献資料はそこで調べられると教えてくれたあと、葡萄園池を目指した。

 かつて、初冬の明るい日ざしの中を、細く曲りくねった道を歩いていった思い出と、すべてはあまりに違いすぎた。雲がせわしく流れ、時折、空が明るくなってはまた一陣の雨となる生憎の日であったが、車に乗って見る役場から葡萄園池への道路は緑が濡れて美しかった。ほどなく、車は刈り入れ前の稲田へむかう道へ入った。すると、記憶に残る風景が一気に近づいてきた。堰堤がそこに見えた。

 水をたたえた葡萄園池の底に沈んだ土地は、もともとブドウ畑であったわけではない。印南の野を開墾し、新しい村をつくった人達の綿畑が広がる高燥の瘠地であった。それをなぜ葡萄園用地として国は買い上げたのか。

 その経緯を知ったのは、葡萄園の作業用道路としてつくられた「馬車道」を通って、図書館へ戻り、本岡一郎氏のまとめられた『播州葡萄園の興亡』と小野晴彦著『赤い土』の二冊を、Oさんのはからいで読むことができたからである。そして私の疑問は解けた。

 従来、殖産興業政策を進める官の立場からしか播州葡萄園を見ていなかった私は、そ

の不明さに気がつかなかった。地租改正のあと、滞納した租税を支払うために土地を国に売った…。それが葡萄園を播州母里村に誘致した農民側の事情だったのである。

 

8 播州葡萄園始末

 明治前期、殖産興業政策が大久保利通とそのブレーンによって構想されていた当初、政策の具体化という点で最も目覚しい活動を見せたのは、泰西農業の導入であった。なかでも、西洋の果樹穀菜の蒐集、試栽、領賦にあたった三田育種場は、前田正名の献策によって開設され、農業近代化の中心的指導機関として華々しい存在であった。

 前田正名は明治二年渡仏、明治九年十二月までパリに滞在した。その間、大久保利通の知遇を得て殖産興業の調査、ことにフランス農業について行政の実際と農業経済に関する実証的研究を学んだ。

 前田の帰国は明治十一年開催のパリ万博に参加する準備のためであったが、同時に三田育種場の創設という任務も与えられていた。

 播州葡萄園は三田育種場に附属する「仏国法葡萄栽培試験場」として発足したものである。その意図が、フランスにおけるブドウ・ワイン産業をつぶさに知る前田正名から発したものであることは、想像に難くない。

 これより先、三田育種場は、中国、四国、九州の温暖地に適した有用作物として、オリーブ、ゴム、レモン、ユー力リなどの栽培試験と種苗培養のため、神戸三ノ宮に一町歩ほどの圃場を設けた。これが後に山本通二丁目および六丁目に場所を移して「神戸阿利襪園」となり、播州葡萄園の所管となった。

 播州葡萄園を廃絶に追い込んだフィロキセラは、三田育種場から送られた苗木にひそんでいた。原種苗圃が汚染したことで、日本全国にこの惨禍は及んだ。それは殖産興業の基軸を機械制大工業の導入移植へ転換した政府が、農業を基盤とする工業化に見切りをつける好機となった。そのイデオローグであった前田正名は失脚した。

 播州葡萄園と神戸阿利襪園の始末は、前田正名に払下げることによって官の手を離れた。そして、あとかたもなくなった。

 湊川神社の宝物館の前に、一本のオリーブの老樹がある。案内板に、パリ万博日本館長前田正名がフランスより持ち帰ったものの一つで日本最初のオリーブ樹と云われている、とあるが、それが神戸阿利襪園の名残りであることには触れられてない。

 稲美町「播州葡萄園歴史の館」には、母里小学校に移築転用された醸造場の用材の一部が、往時の木組を復原して僅かに保存されている

            麻井宇介(あさい・うすけ=ワイン醸造家,エッセイスト)