平成6年5月 稲美町立郷土資料館 発行の冊子より

(これは播州葡萄園の遺構が発掘される前に書かれたものです。地元からみた播州葡萄園の誘致に至る情景がよく分かります。)

 

       血と涙、夢と幻の播州葡萄園

 

 はじめに

 明治の初め、現在の稲美町印南地区に「播州葡萄園」が開園した。それは、日本最初の暖地でのぶどう栽培、関西初のぶどう酒・ブランデーの醸造がなされたところであり、兵庫県が愛知県に次いで全国第2位のぶどう栽植本数を誇っていたことなどもあまり知られていなかった。

 このたび、稲美町の郷土資料館の隣に「播州葡萄園歴史の館」がオープンして、「播州葡萄園」について、調べ得るかぎりのものをパネルで紹介した。

 これが、わたしたちの郷土の歴史研究と新しい”ふるさとづくり”につながることを念願する。また、この開園の背景を通し、−−水と重租−−に苦しみ、それを克服していった先人の労苦を偲び、物の豊かさと心の貧しさの指摘される現代のわたしたちへの自省につながれば幸甚と思う。

 

1 水と重祖、そして綿の販路途絶

 もともと稲美町印南地区が現在のような広大な農地として利用されるようになったのは、明治28年(1895)の淡河疏水開通後のことであり、それまでは水利に乏しく、自然の雨にたよるほかなかったのが現実であった。明治19年の地図を見ても、大鳥屋池・茂平爺池・梅ケ辻池の三つの小さい溜め池付近に僅かな水田があるだけで、他の大部分は畑地であり、綿花が主な生産物であった。

 その畑地の中に30町2反8畝19歩の「播州萄萄園」が明治13年に開園したのである。しかし、このぶどう園の開園は、当時の地元にとっては生死にかかわる苦難の結果であり、決して将来への希望や栄光への夢の事業ではなかった。

 母里村第2代の村長北条直正氏(初代加古郡長)の「母里村難恢復史略」によれば、−−水利に乏しく稲田僅少、畑地が大部分を占め、綿作をし、木綿を以て産業としていた。ところが、元治・慶応から明治初年に干ばつが多く、それに加え、その綿産業が外国綿糸輸入の圧迫で、販路がとだえ、明治9年の地租改正で従前の3倍以上の不当な重租が課せられた。−−

 地元では、当時の北条加古郡長を通じ、何回となく地価修正の嘆願を繰り返したが、その効果はなく、滞った租税の徴収督促は厳しく、納租できずに土地が公売された者219名、畑反別70町歩、納租のため郡長の仲介で土地を売却した者94名、その畑反別64町2反8畝19歩、近隣相対で売却、その代金の内から納租した者約600名、畑の反別250町、土地家屋を売り亡産した家197戸、人口約800人と記録されている。

 これらの数字は、当時の印南新村他の総戸数の7分の4に達するものである。

 また、こんな話ものこっている。−−その頃郡吏が地元巡視の際、ある農家に立ち寄った。家とはいうものの三畳敷ばかりのわら小屋のすみで、年老いた農夫が土釜で煮物をしていた。郡吏はなんとなく老父の釜の中をのぞいてみたくなりふたを開けようとすると、ふたをあけないよう老父は手を合わせて頼んだ。それでもふたをずらしてみると、中には一粒の米すら見当たらず、刻んだわらが煮られていた。−−という。

 このように、現在のわたしたちの想像を絶する試練が当時の人々に過酷にふりかかっていたのであった。

 水不足と、一反歩が2〜3円でも買い手のなかった畑地に、反当たり23円もの評価額が定められ、情け容赦のない厳しい租税の取り立てがなされていったのである。そのうえ、唯一の収入源であった綿作が外綿輸入で販路を閉ざされ、生きる術さえなかったのが明治初年の印南地区の状況といえよう。

 

2 汗と血涙の所産「播州萄萄園」

 このような背景の中で、明治政府の殖産興業による勧農策のーつとしてとりあげられたのが、日本の西南部の暖地でのぶどう栽培と、国産ワイン・ブランデー醸造の試験場計画であった。

 明治12年(197811月に、勧農局出仕福羽逸人氏が、用地の選定のため、東海・山陽・南海・西海諸道の各県を巡視することになり、兵庫県へも巡視のことが大阪朝日新聞に報じられた。これを知った加古郡長北条直正氏は、印南新村の疲弊救済策としてぶどう園の誘致に奔走し、30町歩余の畑地を反当たり6円で買い上げられることとした。しかし、土地を手離す人々にとっては、反当23円もの評価額を定めて税をとりたてている国が、同じ土地を4分の1の金額よりだせないとは何事だという不満は、「郡長自身が50銭を私財で上積みする」という調停によってやっと落ちついたという。

 だが、その代金1,87550銭は、その年の地租と前々年からの滞納にあてられ売り主には一厘の金も入ってこなかった。何代にもわたり営々として耕してきた土地を売り、そっくり地租として納めねばならなかった人々の心情は察しても余りあるものがある。

 まさに「播州萄萄園」は、当時の地元住民の汗と血涙、生命ぎりぎりの瀬戸際に、それらの代償として生まれたものといえよう。

 

3 幻の「関西初のワイン」

 明治13年3月、福羽逸人氏他数人の局員が派遣され、直ちに開園に着手、ここに関西最初の国営の葡萄園として印南新村に設置されたのである。

 「播州葡萄園」開園のとき、福羽園長は開園の趣旨を「荒地ヲ開墾シ、海外良種ノ葡萄ヲ栽植シ、ソノ醸酒ヲ試ミ」としている。従って、生食用のぶどう栽培にとどまらず、それで国産のぶどう酒を醸造すること、また、それを各地の農家に知らせようとするなど、明治政府の勧農策に沿うものであった。

 そこで、全園を3区に分け、第1区から西洋型耕転機で順次耕起して、三田育種場からの苗木を植栽していった。

 開園3年後の明治16年、園内のぶどうの収穫100貫(375s)となり、80貫(300s)で初めて4種のぶどう酒を試醸し、色味ともに佳良なもの1石(180リットル)を得て、その搾滓でブランデーも若干造ったことが記録されている。

 明治17年には4坪半のガラス温室を建造し、6種のぶどうを試植した。どの種類も完全に成熟し成功する。このガラス温室でのぶどう栽培は、後に岡山における30万坪(約99万u)にもわたる大規模な温室ぶどう栽培の原型にもなったものであり、特筆すべきものである。

 この年、2階建(上層24坪、下層14坪)の醸造場や30坪の蒸留場が建てられ、ぶどうの収穫量1,005貫(3.8トン)のうち、生食用に多少残して、ぶどう酒6石(1.1kl)とブランデー・醋酸なども造っている。そして、植栽本数も124,000本を超え、愛知の33万本に次いで全国で2番目の規模となっている。

 また、岡山の大森熊太郎氏に請われ、4種類20本の扞枝を接ぎ木用に譲渡した。

−−これが改良され、その子孫が現在の岡山で生き続いているということである。

 明治19年には、旧醸造場が狭いために、札幌萄萄醸造場の資料を参考に、72坪(約237.6u)の醸造場を建造した。−−(この醸造場は、閉園後の明治36年6月に母里小学校に移され、3数室に転用された)−−このように、明治の勧農策として企画された播州葡萄園は、いわば当時の一大ロジェクトのーつとして脚光をあびるものであったものであり、地元としても泣く泣く手離した土地であったにしても、それによって @ 新租が納付でき、開園によって A 利潤を受ける人たちもでき、内務・大蔵・農商務三省の卿(現在の大臣)や事務官の巡視によって B 六か村の難状が政府に通じ、疏水工事の水利土工費の国庫補助受給の助けとなり、畑地の実価が反当2.3円から50銭であったものが、6円での買い上げによって C 土地価格が上騰し、阪神その他の有力者によって2百数10町歩もの土地買い上げが続き、D 疏水事業や改正重租の負担をまぬがれ、用地の買い上げ価格6円はまた、地租改正時の畑地公定価格平均23円となっていたことの不当が証明され、E 「畑地価特別修正」や「改正地租年賦延納」の願いが認められたことなど、地元にも大きい成果があったことも考えなければならない。−−母里村難恢復史略−−

 こうして、順調に進展した事業であったぶどう園も、このころヨーロッパのワインぶどうを壊滅に追いやった病害虫ブドウフィロキセラが日本にも侵入し、全国のぶどう樹に大きい被害を与えた。播州葡萄園でもこれを発見、種々手をつくしたが防ぎきれず、収量も激減した。

 また、「岡山の果樹園芸史」によれば、明治18年8月18日、大暴風雨のために播州萄萄園のぶどう樹に大きい被害のあったことが載せられている。

 

4 夢と消えた播州萄萄園

 ちょうどそのころ、政府の農業政策の転換があり、経費節滅のために明治19年3月、元農商務大書記官兼大蔵大書記官前田正名氏に、1か年4,000円の補助金で3年間の経営委託となった。

 また、福羽園長は同じ年ドイツ・フランスに留学した。

 そして、2年後の明治21年(1888)前田正名氏からの出願で播州萄萄園は同氏に払い下げられた。払い下げ価格5,377円であった。ちなみに、開園後の国の投下資本8,000円となっている。

 −−このころから10数年間、官業として経営を始めたいろいろの事業が、次々と民間に払い下げられている。たとえば釜石鉄山(現新日本製鉄)の2,376,625円をはじめとして阿仁銅山(現古河鉱業)の6,673,211円など数多くのものがある。

 播州萄萄園の順調な経営が続いていたとすれば、開園当初に福羽園長・北条加古郡長・丸尾印南新村戸長との間で約束されていたように、ぶどう園が地元に払い下げられ、日本屈指のぶどう生産地・ワインの醸造地となっていたであろう。

 だが、この払い下げのころには、郡長は更迭、戸長は病気、園長は洋行と、関係者不在の中でそれが行われたのである。このことも地元にとっては不幸なできごとである。−−

 払い下げを受けた前田氏は、その年の6月に山梨県知事に赴任、ぶどう園の経営は醸造責任者片寄俊氏に委ねたようである。

 明治政府という強大なスポンサーのなくなった播州葡萄園は、三楽(株)神戸森下 肇氏によれば、前田氏に心酔していた加古川の多木久米次郎氏に支えられていたのではないかとしている。

 森下氏は、西宮市立図書館で「全国醸造物登録商標便覧」の中から、明治23年出願・登録の播州葡萄園の葡萄酒・ブランデーの商標を見つけ、報告している。このことからも、播州葡萄園の廃園は、明治24年から27年の間と推定できる。

 現在、その跡地は当時の園域を推定させる地形は残しているものの、ただーつの井戸が残り、園内につけられていた園路「馬車道」と呼ばれる細い農道が東西に走り、跡地に掘られた「葡萄園池」にその名をとどめているだけである。それもこの度の土地改良事業によって整備がすすめられれば、昔日を偲べるものはほとんどなくなるのではなかろうか。

                        H6,5 文責 本岡一郎

 

(このあと、その土地改良事業によって播州葡萄園の遺構が発見されることになります。)

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