平成8年度 播州葡萄園発掘調査報告

   帝国のワイナリー

岸本 一幸

1.醸造場地下室発見

 平成8年7月18日。台風が近づいて来たので、5月下旬頃から通っていた播州葡萄園施設の関係地と恩われる田に散在しているレンガ片や石片を集めて持ち帰ろうと強い日差しの中で作業をしている時に、偶然にほぼ完全な形をしたレンガが全部で約20個ほど、2段重ねの状態でまとまって埋っているのを見つけた。全長約70cm、幅は約50cm。しかし、ややカーブしているこの20個ほどのレンガの正体にその日は気付かなかった。

 明冶政府は、当時のイギリスやフランスなどの西欧列強に一日も早く追いつき追い越すための様々な殖産興業政策を実施した。そのーつとして、西欧葡萄樹の栽培やワイン醸造の試験をして、その技術を全国に広めようとしていたことは、ほとんど知られていない。西欧農法を取り入れ、ほとんど活用されていない国内の荒地を利用して葡萄樹を栽培し、ワイン生産とその海外輸出によって、一向に改善させない貿易赤字の解消を目指していた大久保利通を中心とする明冶政府の考え方とそのパワーには驚くぱかりである。そして“播州葡萄園”は、明冶政府が国策の一つとして掲げた西欧葡萄樹の栽培方法を試験してその成果や苗木などを全国に配布することやワイン造りのための試験園という性格を持った、いわぱ内務省直轄のセンターとして登場した。

 明治12年末から内務省勧農局が候捕地の選定に入り、13年2月に加古郡印南新村(現在の稲美町印南)で約30町歩の用地を買収し3月に開園した。東西に長い葡萄園に最初の年は約3万本の葡萄樹を植え、14年にはさらに2万本増やし、17年には全体で約11万本になっている。また葡萄の収穫量は明冶16年で100貫に達し、初めて色味ともに良いワインを1石(約180リットル)、ブランデーも少し生産している。さらに、17年になると収穫量は前年の10倍であろ1005貫に膨れ上ることになり、その内から6石のワインなどを生産した。このような成果を前にして当時の葡萄園の関係者は、明治13年以降取り組んできた事業の順調な進展に自信を深めたことであろうし、事実、収穫量に見合うような醸造場や蒸留場などの生産設備の拡大に力を入れることになった。17年には14坪の地下室のある醸造場を、18年には温室付の30坪の蒸留場。そして19年には17年建ての5倍余りもある72坪の地下室を持っ醸造場をそれぞれ、隣接する位置に建築してワインやブランデーの生産工場群を完成させている。

 しかし、18年5月。東京の三田育種場内で葡萄樹の害虫フィロキセラが見つかって以降、事態は一変することになった。当時、この虫に対する予防や駆除の方法は確立していなかったため、発病した葡萄樹は抜き取って焼却するしか被害の拡大を防ぐ手段はなかった。開園時から三田の苗木を移していた播州葡萄園の葡萄樹も当然発病した。これに追討ちをかけるように、この年の夏は雨の多い冷夏で台風の直撃も受けた。その結果、この年の収穫量は約200貫に減少してしまう。この葡萄園の不幸は、さらに重なる。中央政府の政策は工業を重視したものにシフトし、19年4月には経費の節減のため、農商務省の元大書記官だった前田正名に経営委嘱されて、明冶21年3月にはこの前田正名に払い下げられてしまう。この間、開園からわずかに8年であった。西欧葡萄樹の裁培とワインの生産によって日本の農業の近代化の一翼を担おうとした国家プロジェクト“播州葡萄園”は、あっという間にもっと大きくて早い近代化の流れの中に消えてしまったのである。明冶政府(農商務省)の手を離れて前田正名に払い下げられた播州葡萄園の姿は、登録された「播州葡萄園」という登録商標によって確認ができる。きっと細々としたものであったのだろうが、この登録商標が出願された明冶23年には依然としてワインやブランデーの生産をし、その販売もしていたと考えられている。しかしその後、どのような運命を辿ったかは全く不明である。

 葡萄園用地の東部にため池を造り、葡萄樹が植えてあった土地を水田に変えて100年経つと、私たちの周りには、葡萄園池という名のついたため池、内側を瓦で葺いた深さが約18mある井戸とそのそばにあった建物を移築したと言う納屋が当時の遺産と言えるものの全てになっていた。しかし、平成8年はそれらに加えて、ちょうど110年前の明冶19年(1886年)に建築された72坪の地下室をもつ醸造場の位置が印南地区ほ場整備事業によって、新たに特定できるかもしれないという期待を抱いて、5月下句から現地調査を続けていた。この醸造場は、明冶17年の収穫によって醸造能力のアップを迫られた播州葡萄園の関係者たちが完成を待ち望んだ、いわば播州葡萄園の中核的な施設で、実に350石余りものワイン醸造能力があった。しかし、レンガ片や石片が田に散らぱっているばかりで、その所在をはっきりさせる手掛かりを見つけることはできなかった。

 そして7月20日。葡萄園の資料をまとめた「農務顛末」という文献にある平面図のとおりに、先の18日に確認したレンガの遺構の約11m西側に同じ様な遺構を発見した。明治19年建ての醸造場がここに完成していたのだった。この日に発見したのは、全長約2mで4段重ねのレンガの遺構だった。さらに別の日にはレンガ造りの地下室の床の一部も確認することができた。ワインの研究家で各地の遺構にも詳しい麻井宇介氏によると、ワイン醸造の初期の遺構は全国的にもあまり残っていないので、この遺構は日本では最古級のものという見解だった。

 町教育委員会は、関係機関と協議してこの遺構の広がりや深さ、関連する遺構の有無などを確認する目的で、加古川市教育委員会の協力を得ながら、埋蔵文化財の発掘調査を10月から実施した。

 その結果、遺構の一部の確認調査ではあったが、「農務顛末」の記述を裏付けるように南北約11.5m、東西約22.5mの広がりを持つ半地下式の地下室が残っており、地下室の床面、壁はともにレンガで造られていたことが判明した。また現在の地表から地下室の床面までの深さは約1.2mで、厚さ約47cmのレンガの壁の外側には石を詰めた排水装置と考えられる設備が、さらに地下室の床面の周囲にはコンクリートの側溝があることも確認できた。加えて、一部2階建てであった部分の2箇所の柱基礎は大きさが90cm×90cmでコンクリートとレンガでできた構築物であったことも確認でき、7月に発見したレンガの遺構の形状の意味がより明らかになった。つまり、明治19年に建てた播州葡萄園醸造場は、レンガやコンクリートという当時の新しい建築材料を大量に用いた農商務省の直属ワイナリーであった。

 このような調査結果を得て町教育委員会は、平成9年1月に町指定文化財(記念物:史跡)の指定を行い、日本の近代化遺産のーつとして、そして町の財産としても永く語り継ぎ、保存していくことにした。

 残念ながら、醸造場の建物部分は現存していないため、地下室以外は想像するしかないが、母里小学校にはこの建物を明冶36年に校舎として移築したという記録と校舎の写真が残っているのでこの年までは印南に建っていたと考えられる。今は、移築されて校舎になった建物の写真だけが残っているがこの写真も醸造場の存在を証明する貴重な資料である。

2.百年ワイン発見

 『農務顛末』などの資料によると、先の播州葡萄園醸造場から約300〜400m東に葡萄園の管埋事務所(園舎)があり、明治13年6月に着工した寄宿舎や納屋が7月に完成したという記録がある。この園舎の関係地(園舎遺跡)も、ほ場整備事業の対象地で道路と水田になる予定であったため、平成9年1月から全面発掘調査を行った。

 その結果、1月中にレンガと樽が組合わされた遺構、竃跡3基、小石を敷き詰めた遺構、東西に約50mも伸ぴている暗渠排水溝、井戸1ヵ所、その他に多数の瓦片、ガラス片、瓶片、陶器片、金属製品、木片などが出土した。

 このうち、小石を敷き詰めた遺構については、遺構の角に約50〜60cmの厚みで耕土が入っていた跡が残っていたり、板ガラスの破片が多いことなどによって、明治17年に播州葡萄園内にガラス温室を造って葡萄の温室栽培の実験をしたと記録されていろ遺構ではないかと考えている。もしそうならば、全国的にも珍しい明治前期のガラス温室の遺構であるし、岡山県の温室葡萄(マスカット)栽培のルーツと言える遺構になる。ここで、2尺5寸もの長さになったバレスタインという葡萄の房に驚きの声あがったのだろうか。

 また、多数出土した瓦のうち、井戸の側壁に使用した井戸瓦の中には、文字を刻んだものが数点出土した。このうちのーつには、『辰七月....内務省』と読める文字を確認した。この“辰”が明治13年の辰だと考えると、『農務顛末』などの資料にある葡萄園の開設時期を裏付ける重要な遺物ということになる。

 さらに、2月になって、前述のガラス温室の遺構ではないかと考えているものとよく似たもう1箇所の小石を敷いた遺構が確認されたし、調査区域の北西にあった石灰モルタルの遺構(3X4×2m)の2m底の土の中からは、何と木の箱に入ったワインの瓶が出土した。作業の結果、合計で10本の瓶が入っていて、そのうち、2本は壊れているが、8本は完全な形をしており、色、大きさ、形はそれぞれ微妙に異なるものであった。驚いたことに、完全な形をした8本のうちの3本には栓が付いたままで、瓶の中にまだ液体も残っていた。出土した状況からすると、100〜110年前の播州葡萄園時代の国産ワインで、山梨県勝沼町の百年ワインとほぼ同じ時期のものと考えられる。このワインは、明治政府が国策として播州葡萄園で外国葡萄樹の栽培とワイン醸造を実際に行ったという証拠であり、日本の醸造史の上でも、稲美町の明治前期の歴史を明らかにする上でも極めて重要な発見であったといえる。稲美町は、この百年ワインを生きた文化遺産として展示保存する計画であり、その具体策を検討している。

 そして、この石灰モルタルの遺構では、底部にたくさんの板材などの遺物が残っていて、葡萄の枝、竹、しゃもじ、チェーン、陶器、ガラス瓶も確認された。ガラス瓶については、木箱に入っていたもの以外に2本あって、うち1本は完形品であるが栓がなく、もう1本の瓶の口には、栓をコーティングしていたと思われる付着物が確認できた。

 ただ、この石灰モルタルの遺構には何故か排水口がない。遺構底部の四辺には幅10cm、深さ2cm程度の溝があったので、北西の角には排水口があって、遺構内の水分を北側へ暗渠排水していたのではないかと考えていたが、遺物を取り出しても排水口はなかった。結局、溝は北西の角でやや窪んだ液溜めのような構造になっているだけで、この遺構全体が閉塞したBOXの形をしていたのである。はしごはどこに掛けてあったのだろうか。深さが約2mのこの構造物は何に利用したのだろうか。ワインなどの地下貯蔵庫かそれとも醸造過程の醗酵用の設備なのか。結論は出ていない。

 多くの疑問を抱えて現地に立つと、たった100年なのに、100年も経ってしまったという思いがする。しかし、レンガ造りの大きな醸造場地下室、園舎周囲からの夥しい瓦、ガラス、陶器、そして百年ワインなどの発見によって、地元の人々の記憶からも遠くなっていた“幻の”国営播州葡萄園は、私たちの前にその姿を少しずつ現わし姶めたという実感がある。平成9年4月から、この園舎遺跡の第2次調査を開始する。