温 故 知 新 より抜粋

                           平成2年3月

                           発行者:稲美町立母里小学校PTA

                           著 者:本岡一郎 氏

(2)母里村の三大難

 この頃の社会的背景を知るためには、まず、明治27年4月から同39年11月まで加古郡長退任後、請われて岩本須三郎初代母里村長のあとを受け、第2代村長として多難な局面に当たられた北条直正氏著「母里村難恢復史略」によるのがより正確であると思う。

 氏は、明治12年(1879)1月,大小区制が廃され郡制が布かれた時、加古郡長となる。その後の母里村にかかわる業績は稲美町史P932〜935に述べられている。「母里村難恢復史略」は、村長退任後8年を費して脱稿・全身全霊をこのことに捧げたといわれる。

 「史略」によれば、当時の母里村民にとって、「三大難」があったとある。もともと当地区の土地は高燥で水利に乏しく、稲田は僅少で大部分が畑地であった。明治維新前の姫路藩では、文化年間(1804〜17年)以来、棉栽培を奨励、棉が米に匹敵する重要な農産物であった。ところが、元治・慶応から明治初年にわたり凶干が続き、田畑は枯渇、土地が荒れ果てたのがまず村難のーつであった。

 二つめは、その上に主となっていた棉作が、外国綿糸輸入の圧迫で、品質・値段ともに合わず、販路がとだえてきたことである。水不足による不作や、作付面積制限に加え、もはや商品価値を失った棉栽培の打撃は、村民に致命的な痛手となったのである。

 また、それに加えて決定的なものとなった第三の問題は、地租の改正であった。明治6年7月、太政官布告で地租改正条例公布、11年4月まで調査、同年7月に新租額が発表された。その結果、当地区に不当の重租が賦せられ、二つの大問題に加え、「村民は言ふべからざるの惨状を極め、貧民東西に流離し、一村殆んど禿廃せんとするの苦境に沈淪せり、蓋之を本村の三大難とす。」と記されている。

(3)地租改正

 ここで、三大難のうち最大難となった地租改正にからむあらましを「史略」からひろってみると…「明治8年4月より地租改正準備をなし、同年10月県令を以て地租改正に係る条例及告諭書、人民心得書を布達せらる。」…とある。従来の地租の不公平を改正して、公平至当にすることを本旨とし、その施行法は現地の収穫多寡をはかり、種々考え合わせて貢価を求め、地価百分の三を地租とするものであった。しかし、事実は不公平極まるもので、旧租の3倍以上の賦租となり、その負荷に堪えず哀訴すれども改正掛は威圧・拒絶、やむを得ずその地を売り、租を償ってもなお足りずに、ついに亡産、四方に流寓する者197戸、人口約800人になったという。

 この地租改正中、明治9年・10年の夏照り続いて、田の植付を6分減らし、4分の植付をし、豆・粟・そばなどの毛替作をしたが、畑の収穫平均3・4分に過ぎずそのうえ、9年・10年の増租追徴額と11年の新租額との3か年分を11年末に一時に徴収されるとすれば、どう苦慮しても生活できない状態となったのである。「史略」には、新旧租額、印南新村改正租額の数字が詳細に記載されている。

(4)地租修正へ

 この新租額発表のとき、印南新村外5か村戸長及び地主総代は、負担に堪えがたいことを改正掛へ申し出た。改正掛に種々説諭された印南新村以外の5か村はその租額に請印をした。印南新村戸長丸尾茂平次氏はそれに服しなかったため、嘱託された隣小区長北条氏,片山区長,改正掛等が交互に説得、丸尾戸長はようやく請印する。そして、6か村戸長・地主総代はそれぞれ帰村、各地主に改正租額を通知したが、「このような無理無法な改正地租を強いられるは、全く改正掛に欺かれた。」と、再調査を願うことで衆議一決、6か村戸長から区長へ申し出る。一方、丸尾戸長は請印の取消しを県令へ上申したが、何の沙汰もなかった。

明治12年2月3日、加古郡役所開庁、北条直正氏、加古郡長に就任。6か村戸長は再三地租改正重租の苦状を陳情。ほぼ、その事情をつかんでいた郡長ではあるが、板ばさみの中で間断なく徴租の督促をせざるを得なかったのである。

 この頃、山田川疏水事業の計画が起こり、地租修正のことと併せ、引続き運動が継続されている。「改正増租ニ付歎願」(明治12年1月27日)「以書附奉願候」(明治12年2月4日)などがある。郡長も上県して、地租改正に関して6か村の難状具申(数回)。山田川疏水事業の疏水線実測のための土木課員派出申請「新流堀割測量之義懇願」(明治12年2月14日)…疏水線実測再願、疏水線高低実測のため、土木課員出張(明治12年3月7日)等が続く。また、疏水に関し、明石・美嚢両郡長に交渉し、明石郡加古郡長疏水線巡視(明治12年4月7日)疏水線協議会開催(数回)戸長よりしばしば6か村難状具申…このようにくり返して陳情し続けたがいれられず、明治12年の田植時期から雨が少なく、田はわずか3・4歩の植付をし、大豆・そばなどを植えたが、7・8月に照り続き、田面は亀裂、稲の大半は枯れ、畑作は皆無の状態となる。郡長もそれを実検したところ9年・10年の干災に引続いての大干に加え、徴租督促厳急で村民の多くが亡産、家出、村中至るところに廃屋荒涼惨担の現状を見て上県、地租の督促どころでなく、人民の救護をせざる場合であると、県令の実地巡視を懇請したがいれられず、せめて租税課長の巡視をと申請した。

 同12年8月、租税課長他2名が実地巡視、被害の大きさは確認したが、自分の主管外の「水利を興し、国庫補助を受けることに尽力する方向へ努めれば…」とその場をごまかして帰ってしまった。

 その後、村人の期待に反し何の変化もなく、ますます徴租の督促があり、「水利土工費貸与請願書」提出の相談を6か村戸長から郡長へ具申。しかし、郡長は、国庫貸与のことはこれまでしばしば県令へ申し出たが容易に貸与されるものではないため、この請願はしばらく見合せて時機を待つように説諭する。

 租税課長巡視後、数十日を経ても何の沙汰もないため、印南新村ではその苦に耐えず、明治12年11月10日に印南新村人民救助の歎願書を県令あてに提出した。しかし、それは租税課長どまりで何の返事もないうえ、徴租督促はますます厳しく、たまりかねた6か村では、工事費貸与の請願書を作り、上県することを郡長に申し出る。郡長も、前の申し出時には説諭してやめさせたが、6か村民の決心に動かされ、郡長の意見を添えて同行して上申書を提出した。

 その結果、間もなく租税課長は辞職となったが、租税課員の悪感情から、租税課と土木課のあつれきが生じ、後に土木課長・郡長の排斥につながってくる。

 その後も地租の督促がますます厳急となり、租税課員が引き続き郡役所へ出張、県令の命であるとして郡長をののしり、さんざん侮辱した。郡長はまた上県、この難状を具申したが聞き届けられず、県令と「不納処分を断行せよ」「非理無法なことは行うべからず。」と激論。その結果、県令から、「地租は急に改正する方法はない。村民に気の毒であるが説諭して、どのようにしても差し繰りして地租は納済させ、そのかわりに山田川疏水事業費の国庫負担について、この地方の難状を具申し尽力する。」との内諭を受けた。

3.村難の回復へ

(1)北条郡長納租策に奔走

 納租のためには、他の資産を差し繰りして納められる余力のある者は10分の1もなく、その土地を抵当にして借り入れるか、その土地を売って償うかのほかに方法がなかった。また、その土地を売ろうとしても、新地租賦課時の地価査定反当23円の額にかかわらず、僅かに2〜3円から50銭でも買手のない現状であった。郡長は、納租の金策と疏水事業を起こすことに奔走、まず、地方の老農者に諮問したところ@ 山田川疏水事業は大いによし、A 納租金策は、人民の土地を維持し得べきだけの土地を残し、その剰余の土地を阪神その他地方の有力者に割譲し、その有力者に開拓させ、村民は小作者となり、その売払代金で地租を納める。B 稲田となる見込みのない荒畑には松苗を植え、森林として地種を変更して重租をさけること、(以上、土山・増田性蔵氏、加古川・大村清七氏他数名から)この3点の意見を聴き、余剰地を売り、租を償わせるなど、正道にはないにしても、他に方策がなく、印南郡曽根村の素封家亀田五一郎氏他に土地売払いの周旋を委嘱した。

(2)納租のため、葡萄園誘致へ

 明治12年11月頃、内務省勧農局出仕福羽逸人氏が葡萄園御用地選定のため、兵庫県へも巡視のことが大阪朝日新聞に出た。北条郡長は印南新村に葡萄園設置を思い、直ちに上県陳情し、福羽氏とも面会して懇請する。数日後福羽氏来郡、郡長の案内で印南新村の予定地視察。福羽氏は、川沿いまたは荒廃地を2〜3円で買上げの予定であり、作付している畑以外のものがよいとのことであった。しかし、郡長は、地租改正による重租、数百町の荒畑のあることなど、この地方の窮状を説明、ぜひこの地に園地を定められたいと懇請する。

 福羽氏は、「郡長から、本村難状の話もあり、地続き一まとめで買上げるため反6円までは買いあげる。地主へ話し、5、6日後に話をまとめておくように。」と言って帰る。

 印南新村では、地主43名が、@ 伝来の土地を地租のため買上げになるのは甚だ不条理、A 畑地価が大蔵省所管で決められて23円賦せられ、内務省では地価の3分の1にも満たぬ額で買上げられるのは甚だ歎かわしいこと、せめて反6円50銭で買い上げ願いたいと戸長へ申し人れた。

 明治12年12月30日、福羽氏来村、戸長、地主総代と話し合ったが50銭の差で折り合わず、31日郡長も来村協議したがまとまらず、翌13年1月1日、戸長・総代を呼んだが来なかった。この機を逸すると、本村の回復はできないと考えた郡長は、その差額30町に対する150円は私財で償うので、ぜひとも買上請書を差し出すように言い渡したが、まだ疑って容易に承諾しなかった。ようやく地主も承諾したとの届出があったのは、その日の午前10時だったという。

(3)御用地買上代金で地租を納める。

 畑反別30町2反8畝12歩、内務省勧農局買上げ。この地代金1,816円69銭1厘(反当6円)この畑地買上げは、普通の売買価格の倍額以上であるが、わずか1年前に改正した地価額の4分の1の低価で買上げを願わせ、その代金で地租を償わせるというような不条理をさせることは、郡長としては正道でなく、人民が怨み、疑うのも無理のないことと知りながら、県令が「どのようにしても地租は納めよ。そのかわりに、山田川疏水事業の成り立つように尽力する。」と、誠実な内命があったため、「とにかく地租不納を片付け、疏水事業の早く成り立つようにするため、熱心のあまりにこのような取扱いをした。」と、「史略」に述べられている。

(4)葡萄園の設置とその成果

 明治13年2月、福羽氏赴任。詰所・役宅・厩舎・納屋等を建設し、葡萄園圃の経営が始まる。内外の良種苗を集めて栽培、種苗繁殖にしたがって各地へ配布、園地付近へも分与された。加古川の高木徳次郎氏は、園地付近に畑地10町余を買入れ、熱心に葡萄を栽培したということである。

 種苗がおいおい成長するにしたがい、園内に葡萄酒製造所及び冷蔵を建築、(この醸造庫72坪一棟は、明治36年6月、母里小学校に移され、3教室にして使用した)製酒が始められ、成績も佳良であったという。

 また、福羽園長は、赴任後にこの地方の難状を熟知し、貧困者に義金を喜捨し、慈恵を施されたことも多かったようである。

 そしてまた、この葡萄園設置の際に、園長から北条郡長に、「元来、わが国の葡萄酒で外国品輸入を防止することは、民業ですることではあるが、かりに官業として本園を設置するが、将来、葡萄酒も製造し、諸準備整えば、本園装置のまま全部を印南新村へ、なるべく低額で払い下げ、民業に移すことが勧業局の方針であるため、戸長へ伝達しておいてほしい。」とのことで、郡長から丸尾戸長へ払い下げの契約が伝えられていた。

 その後、麦作付のまま園地が買上げられたことによって、その損毛(反当2〜3斗の割か)を地主へ払い渡されたり、買上地地租過納金還付など、葡萄園買上げ以後、事態がいくらか好転に向かったようである。

「葡萄園設置につき、印南新村及び付近村民の直接・間接の利潤」として「史略」から抄記すると次のようなものがある。

 @ 買上土地代金1,800円で印南新村地租改正新租に納付の便を得たこと。A 本園に使役された傭工銭で生計を営む者多く、貧民救護の助けとなり、その他職工・馬料・食料・建築材料調達等の利潤を受ける者少なからず。B 内務・大蔵農商務三省の巡視で、6か村の難状が政府に貫通、水利土工費国庫扶助を受けるに至ったこと。C 本村の畑実価反当2〜3円から50銭、作付できない荒蕪地もあり、無償でも取る者もなかったのが、6円で買上げられたため、本村全体の土地価格を上騰させたこと。D 阪神その他の有力者が、将来有望の地として、地主相対で売買した反別250町から260町歩に及び、疏水工事負担を大いに軽減し、改正重租の負担を免れたものも少なくない。E 畑地を反6円で買上げを願わせたことは、租税官が地価の公定価格を平均23円として賦課したことが、実地不当の重租であったことであり、畑地価修正及び明治9年、10年分の改正地租延納願通りになったことにつながったこと。以上6点をあげられている。

 このように、葡萄園の設置は、村難の回復におおいに役立つものとなったことで大きく評価できるものであった。「史略」にも「内務省葡萄園を設置せられたるは、正しく山田川疏水事業に至大の関係を及ぽし、延いて本村三大難を解決し、本村が殆んど亡びんとするに垂なんとするを輓回克服の基礎となりたるなり。」と記されている。

 また、「史略」に「福羽氏が葡萄園を設置せられば淡河川疏水工費4万5千円下附せられたるの媒介となり、且同氏は該園への諸省の巡視官員に、本村の難状を間接に克く述べられたるが大に援助となりたるものなり。故に本村は勿論、組合村は、此厚誼を永遠に記念すべきものなり、殊に該園に生産した葡萄は、同氏が宮中へ献納せられたる由緒もあるに於ておや。」とも記され、福羽氏の功績をたたえられている。

 この播州葡萄園は、明治19年に経費節減のため、1か年4,000円の補助金で元農商務次官前田正名氏に3か年間委嘱され、さらに、21年2月同氏に払い下げられた。

 ……さきに福羽園長から、将来払い下げられる約束を聞かされていた印南新村であったが、次の事情でそれが突現しなかったのである。……これより先の明治15年4月、北条郡長は租税官の讒訴で排斥され、県の勧農局へ配属が命じられた。これを知った地元県会議員魚住逸治、石見厚一郎氏その他町村戸長ら20数名連署で陳情したが容れられず、石見厚一郎氏が自ら県議を辞任し、北条氏を補欠議員に推し当選させた。その後、県議を辞め大阪に住んでいた北条氏を母里村長として来任を懇請、当時の初代村長岩本須三郎氏も積極的にこれを支持し、自ら職を退いて北条氏にゆずられた。北条氏は、明治27年4月から39年3月まで、3期12年間村政・教育行政の改善のため努力することになった。

また、園長福羽氏は、明治18年からフランスに留学、帰朝後は宮内省内苑局長兼式部官に就任した。そのうえ、戸長丸尾茂平次氏は病気で失意のうちにあり、関係者が3人ともに払い下げ時に職を離れたり病気のため、開園時の本村に払い下げの契約も実現しないで終わることになったことは惜しまれることである。

(5)葡萄園の終末

 その頃、ブドウフィロキセラが日本に伝播(明治15年3月、三田育種場が、アメリカ・サンフランシスコから購人した葡萄樹11,558本に起因かといわれる)明治18年6月19日に本葡萄園でも本虫を発見、4,642本、面積8反4畝の株支柱とも採掘焼却、硫化石灰や多量の石灰油で駆除したようである。その後の経過は明らかでなく、理由も判然としないが、たぶんブドウフィロキセラの被害で廃園されたのではなかろうかといわれている。

 「稲美町史」記載の、「明治前期勧農事蹟輯録上」による資料からは、明治13年に第1区28,556本の植栽(三田育苗場の苗木)後、17年12月までに、第3区まで18町5反3畝に111,305本を植え、17年の収量1,005貫をあげているが、18年には200貫に減り、さらに20年には184貫となっている。18年以後、虫害によって葡萄の株が順次処分されていったのではなかろうかと思われる。

 このように、本村にとっては村難回復の一大事業であったものにもかかわらず、数年で廃園となり、本村払い下げの契約も空手形に終わらざるを得なかったことは、惜しみても余りあることである。

ついでに、「町史」掲載の資料を転載すれば、図4〜図7のものがある。

なお、前記のように、図6の醸造場は、学校沿革誌によれば72坪一棟が、明治36年6月に母里小学校に移され、改造して3教室として使用されている。

(6)引き続き地租額修正へ

 地租改正後の約3か年間は納租策に苦慮し、葡萄園誘致・水利事業等の問題の上に、納租の督促が厳しく続けられるなど、多難な事柄の連続であった。北条郡長・各戸長や関係者はもちろん、村民すべてがひとときも気の休まることのない状態におかれていたに違いないと思われる。

 明治14年2月、第2号布達で3月25日を納租期限として、「不納分を一時に徴収、不納者は不納処分せよ。」との通達が郡長に来た。村の窮状を熟知している郡長ではあるが、たびたびの厳命にいたし方なく、徴税の督促をせざるを得なかったようである。6か村戸長も、郡役所よりの厳しい督促と地主との中間で処置に窮して、遂に辞長を出し、村政の機関が停止するまでに至っている。

 ここで、郡長は、不納者の取調べをすることになったが、千余人、600町歩を、役場書類だけでは調査困難なため、状況を記して上申したが、県では、郡長への非難があるだけで、結局は不納者の土地が公売されることになった。ところが、この土地公売も、入札者がない状況となったのである。

 6か村の各地主は、この上は官に没収されると激昂、「畑1反に23円の地租を課し、一人の入札者がないのは、その土地に価値のない徴候で、租税官の不当な重租を賦した証拠である。」と、地価の修正と増租追徴金延納請願をすることに衆議が一決した。

@地価修正の請願

 先に、明治13年8月20日付で提出した修正願に何の沙汰もないため、同14年4月19日付「地租未納金督促ニ付歎願」を提出したが否決され、同14年5月6日、兵庫県令あてに「地価修正之義ニ付伺」同年、「地租改正9・10年分増税之義ニ付歎願」を提出。しかし、同5月10日に「…追って指揮に及ぶべく候事」という回答があったが、5月28日には、「…聞き届け難く候条、成規の通り相心得るべき事」という状態であり、県令へ何回請願しても、租税官の手元で留められ、県令へは届かないことを思い、違法の処置ではあるが、内務卿へ直願しようと、2回にわたり草稿を作ったが、戸長丸尾茂平次氏が請願手続き前からの過労でたおれてしまったため、それも果たせなかった。

A 実地調査も効なし

 ところが、同14年6月、6か村のうち蛸草新村を除き、印南新村外4か村の畑地に限り、地価修正のための実地調査はあったが、正当の修正はできなかった。同年8月、畑地価修正調査がすみ、修正租額の発表があったが、明治11年から13年の5か年の増租はそのままで、14年からの減租だけであった。そして引き続いて納租の厳急な督促に加え、地租不納処分の厳命、それに加え、郡長が県令の命令に反抗すると議論沸騰、郡長排斥論が益々盛んとなり、租税官を派遣し、郡長の不納処分方を監視、いよいよ厳しく納租を督促した。

 ここでまた郡長は、次の納租のための金策として、6か村中の剰余地を桑園地として売る案を練ることになった。

B 不納処分・公売に対する請願

 納租の金策と並行して、郡長は不納処分猶予願のため、戸長・地主総代等と上県し、窮状を述べ請願したが、猶予の願いは聞き届けられなかった。

 もはやうつすべもなく、やむを得ず、同14年12月末日に不納者221名の所有畑地240町歩を公売にした。しかし、入札者がなかったため、31日付で没収ということになり、地券引きあげを公達しなければならなくなった。

 印南新村では、こうなったうえは、もう生活の途がないと、暴動にもなりかねない状況となった。村民200人ほどが郡役所の郡長に面会を求めた。みんなで県庁へ行き、県令に直接この難状を訴え、所有地の下げ戻しを願うため、郡長も同行してほしいとの要望をした。郡長はいろいろと説きなだめて一応その日は帰らせ、その翌日上県して県令に願意を訴えたが、租税官のことばを偏信している県令にはとりあげられずに終わることになった。

 このあたりの郡長の心情は、「史略」から痛切に伝わり、察しても余りあるものがある。「史略」には、「…一時、正の家財を以て補填し度とも思ひたれども其余裕なく、さればとて是れ丈けの金策をなし与へざれば到底該村民に対し面目なく、退職せざるを得ず、然れども正が退職せば、吾身は潔くなれども此難局は後任に於ても解決せざるを得ざること故に、寧ろ此際誓って納租の金策をなさんと欲し…」とある。郡長としては、没収地240町歩のうち30町歩ほどを桑園地に買いとってもらって調金して納租し、残る没収地を元地主221名に下げ戻させたいと、その手続きに奔走した。

4.またも起った村難

(1)難局打解の方策を講じる

 前から郡へ派遣され、郡長の動きをみていた租税官がこのことを知り、印南新村住民を欺いて、郡長を悪人に仕立て、私欲でその土地を売らせようとしているかのように思わせたため、せっかくの計画もぶちこわしになることになった。しかし、今これを放棄すれば、没収土地下戻もできず、村難の回復も望みがなくなると、大阪の矢野貞与氏に、桑園地に買い上げをひたすら懇願し、ようやく没収地の内34町歩を反当6円で売り渡す協約ができ、代金200円余の受け渡しができた。そしてその代金を全額、未納の地租として納付、畑地240町歩余が元の地主に還付された。ここで、2年半ばかり焦心苦慮した難局がほぼ解決し、重荷をおろした気持ちで県令に報告したのであった。その時、報告にあわせて、疏水事業を申請しようとしたのであるが、県令から一言の慰籍もないばかりか、かえって不満の様子に、郡長は「茫然自失、疏水事業再興申請の機をも得ず。」とある。

(2)北条郡長、突然の解任

 明治15年4月、北条郡長に突然、勧業課専務への転任辞令が出た。後任には、印南郡長だった赤堀威氏が赴任となる。

 北条氏にとって、突然の転任は他の讒訴によるものであるとの思いから、辞令請書を出さず、県令からも直接就任を勧められたり、庶務課長その他数名からもしきりに勧められたが、遂に就任しなかった。

 これを知った県議魚住逸治氏他20余名連署で、留任陳情書を出し努力したがとりあげられず、有志者協議の末、県議石見厚一郎氏の義狭心から、自ら県議を辞し、北条氏を補欠議員に推選した。その好意に感じた北条氏はそれを受け、当選就任したのであった。

(3)土地の公売と没収

 後任の郡長赤掘氏は、6か村の窮状を察することなく、租税課長と機脈を通じ、前郡長が苦心して土地を維持保存させておいたにもかかわらず、明治17年11月、11年以降の地租及び、17年度の地方税不納者の土地、畑反別140町余、人数440名分を公売に処し、入札払いと没収の処分をした。これは、6か村の総戸数730戸の7分の4以上の土地所有権をはく奪したものであり、北条氏によれば、「…各府県絶無のことにして、封建時代といえども斯くの虐政を施さず。」と述べられている。このように、再三にわたり、納租をめぐる大問題が村をおそっているのである。

(4)畑地返上・地租延納の請願

前記の土地公売のころ、野寺村の畑地が荒れ、耕作できなくなったところへ、重租がかけられ、印南新村と同じく不納処分で没収されていた。野寺村魚住逸治氏から返上願が出されたが聞き届けられず処分される。

また、明治17年6月20日付で「明治9・10年地租延納金、16年分延納之義歎願」が6か村から県令あてに出され、18年3月31日まで延納を願い出たことが記録されているが、その成果は記されていない。

(5)村民の窮状

 明治18年9月、6か村戸長岩本須三郎氏の取調べによる村民の負債について、「史略」の記載をみると、次のようになっている。

    一金 62,692円16銭1厘 抵当差入れ公証割引簿による

    一金 32,200円     無抵当の借入れ

    合計 94,896円96銭1厘

 当時の戸数約730戸、1戸平均負債額130円、「けだし、この砌が本村衰態の最も甚だしきときとす。」とある。

 また、明治19年に、17年後半期以降の地方税戸数割その他営業税不納のため、土地家屋を公売にされたもの440名余あったという。この施行のため、印南新村に郡吏が出張、ある三畳敷ばかりの藁小屋の家へ行った。その家の老父が土釜で何か煮ているのを見、ふたをあけて見ようとすると、老父はそのふたをあけてくれなと、合掌して止める。それでも郡吏がそれをあけてみると、その食物の中に藁を切りまぜてあった。郡吏はそれを見てあわれみにたえず、その家の賦課20銭を自分で弁償したという。また、次の家へ行ってもその次の家へ行っても同じく極貧で、弁償するにも際限がないことになり、中途で帰庁したという。

 これをみても、当時村民がいかに窮迫していたかが推察でき、現在では考えられない状況におかれていたのである。

(6)特別畑地価修正と残された問題

 明治20年、印南新村外5か村の請願で、畑地に限り再び地価の特別修正が行われた。6か村のうち、印南新村分は次のように修正された。

 

改正畑租額    14年改正租額   20年修正租額  14年20年減租合計額 

1,918円52銭8厘  1,139円30銭7厘  900円63銭3厘  1,017円79銭2厘

 

これは、明治9年に賦課されていた租額が、20年に修正された新租額に対し、2.13倍であったことになる。

 このように不当な地租の賦課は、「史略」によれば、「…6か村人民が、数回の請願に依り租税官が再三調査の上修正をなしたる結果、如上の減租をなしたるものにして、正しく是れ租税官が不当の賦課をなしたることを自覚して修正したるの明証なり。就ては、政府は此不当の賦課額を6か村人民に対し還付せらるべき義務あるものなり。」としている。そしてまた、その還付未済額は、明治14年修正減租額と、同20年修正減租額の還付されていない額を合計すれば、9,847円14銭6厘と記されている。

 ところが、問題はこの一つだけでなく、A 公売にされ、土地所有権をはく奪された地主219名、反別70町歩、B 重租を納入できず、売却した44名、30町余の土地と、50名の畑30町歩の代金、計3,800円余は租額として納付、相互に売った土地250町歩、人数約600名、 C 土地・家屋を売り亡産して活路なく、その土地を離れたもの197戸、約800人、と、この4つのものを解決未済のものとしてあげている。

5.疏水事業

(1)疏水事業緒につく

 先にあげた葡萄園誘致直後の、明治13年3月19日、山田川疏水関係村の、印南新村・蛸草新村・野寺村・野谷新村・草谷村・下草谷村連合会を創始、それまで10数回の会合の結果、正式に発足した。そして「水路開通之義願」を魚住逸治氏他13名の連名で兵庫県令へ提出する。同時に測量視線樹木の切払い、県土木課技手巡視、ついで赴任・実測着手と順調に進んだようである。続いて同13年4月、田中内務権大書記官、石井土木局長他の巡視などがあり、郡長北条氏が先導し、葡萄園から6か村を巡視し、郡長から「当地方が、地租改正後3か年分の新租額を一時に徴収されるとすれば、旧租額の7.8倍の額となり、続く干災に凶慌惨恒、村民の窮状名状すべくもない。その苦を輓回するには水利を起こすよりない。」など、村の状況を詳細に述べて、疏水線の実地巡視を訴えた。石井土木局長は他に出張予定のため、巡視官が印南新村丸尾戸長先導で6か村を巡視する。

同13年12月1日、疏水関係6か村から「水利掘割之儀御伺」を兵庫県令代理の兵庫県大書記官原保太郎氏へ提出、工事の県直轄と工費の一時繰替伺をした。種々接衝の末、同年12月3日、正当の順序で工事直轄の願出をするように指令され、6か村連合会議開催、同16日付で、戸長及び総代連署して願書を提出した。

このようにして、疏水事業も緒につき、凶慌・窮状救護の途もほぼ成ろうとするとき、突然、前の請願が却下されたのである。北条郡長は直ちに上県、県令に強く要望したが届けられず、明治14年4月、再び「山田川新水路開通之義ニ付再請願」として、これまでの経過も詳細に述べ、工事繰替と工事直轄を懇願した。それにもかかわらず、この請願は、課長に握りつぶされ、県令に届かず、郡長の伺書もまた同じく処置され、何の指令もなかったのである。

 そして、その後も地租不納者の督促、不納処分布達等、多事多難の事柄が続くことになったのである。

 明治15年5月、疏水連合会議長魚住逸治氏は、6か村戸長及び地主総代と連署し県令にあてて、重租に苦しむ状況を切実に述べ、実地の景状を巡視懇請しているにもかかわらず、租税課長兼土木課長はまたそれを県令まで届けさせなかった。

 次いで同年12月19日、品川農商務大輔印南新村外5か村を巡視する。この時、今までの経過や難状を詳細に述べ、疏水事業への理解を得るように努めたことが後に大いに役立ったようである。

 続いて明治16年1月24日、粕谷土木課長らによって、6か村の現地の状況巡視があり、同月31日から実測に着手して、測量・図面調整等をすませ、疏水関係取調書を提出した。また、2月22日から24日まで土木課長・郡長ともに水源まで巡視、同3月13日から、農商務省、南御用掛他県職員・郡長などが、12日間にわたり、本村から水源地までを調査、同16年4月10日、土木課長その他が6か村の状況及び草谷・相野の原野を巡視、同じ日、森岡県令は、前年の連合会議長魚住逸治氏他の「地況巡視願」によって初めて現地を巡視した。

次いで、6月10日に巡視予定だった松方大蔵卿が都合で7月10日に変更、葡萄園に休憩し巡視、引き続いて西郷農商務卿巡視、6か村の状況大略取調書を、戸長から提出した。

 明治17年3月7日、山田川疏水に関する一切の事務の委任を各村ことに受任者をたてて届け出た。

 ここにはじめて、6か村待望の疏水事業がようやく開始されることになったのである。

(2)疏水工事費補助金貸与される。

 明治19年1月、水利組合に6か村のほかに15か村が加盟し、21か村となった。印南新村外20か村水利組合と改称し、同26日に内海県令によって印南新村外20か村戸長及び請願委員が招集され、「水利土工費4万5000円の借用をし、工事を起こすかどうか、工事を県の直轄で願うかどうか。」の2点尋問があり、協議の結果、国庫金4万5000円借用、工事直轄水利土工会開設をそれぞれ願い出て承認され、工事は同年7月、疏水幹線に限り直轄の許可があった。

(3)水源を山田川から淡河川に変える。

 県令が内務大臣へ、技師の派遣を申請し、田辺儀三郎氏が派遣されて県土木課員数名と実地を調査した。ところが、今まで計画してきた山田川からの疏水に加えて淡河川からの疏水の案が出、実測後どちらをとるか決定することとして、淡河川線を実測することになった。

 明治19年6月、県職の粕谷素氏を測量主任として、東北は山田川・淡河川の二流域、西南は印南新村ほか数村の10方里余を測量、両流域の得失を比較して、遂に水源を淡河川にとることに決定した。

 上流木津村宇中島に堰堤を設け、御坂村の渓に「サイフォン」工を設け、両池を連絡、水路を宮ケ谷で分岐し、その幹線一線は、明石郡紫合村、他の一線は草谷村を終尾と定め、疏水の本溝とした。

 次いで、施工中心線その他の測量を実施し、同技師の監督で、明治20年5月に各種図面・工事設計及び予算などにあわせ、付帯の事柄の調査を完了した。 …この折に作られたと思われる測量図面(明治20年3月18日調整とある)が淡山上地改良区事務所に保存されている。これがまた、母里小学校の当初の位置をほぼ特定できる唯一の史料となったことで大きい意味があると思う。…

(4)疏水工事完成まで

 明治20年4月26日5月9・10日に続き、6月5日から3日間、郡役所で印南新村外20か村水利土工会を開設し、疏水予算などを決める。総額63,255円92銭5厘。その内訳は、国庫金貸与45,000円、関係21か村負担20,255円92銭5厘であった。

 明治21年1月、疏水起工式挙行、疏水工事事務所を2か所設置。(広野の東瑞と御坂村)。県令の疏水線巡視、水路設計等があり、いよいよ21年2月に工事に着工、難工事を関係者多数の尽力で進める。ところがその途中の明治22年、雨が降り続いたため、特にこの工事の最大難所であるケシ山隧道などが地質不良・空気不足と山水の湧出で崩壊、とうてい請負人の手では工事ができなかった。組合では、国庫金貸与に対する返還の見通しもない中で、修繕費賦課もできず困惑する。さいわい、県知事の努力で同年12月、先に貸し下げの国庫金が棄損されることになった。またそのころ、多木粂次郎氏が無抵当で数千円を貸与され、やっと工事を県直轄で進めることができるようになった。

 そして、明治24年5月、淡河川疏水をはじめて広沢池に注入することができたのであった。「史略」には、「明治24年4月7日、ケシ山隧道漸く貫通し、同11日より水源以下全路線の通水を試験せしに好結果を呈し…(中略)…関係村発起者を始め有志者の宿望空しからず、明治24年4月11日は組合村は万歳を祝するの日なり。」と記述されている。

 しかし、またもや明治25年7月23・24日の暴風雨にあい、疏水線トンネル墜落、築堤崩壌など非常な損害を被り、通水できない状態となった。

 直ちに魚住逸治代議士は、水害復旧工費地方税国庫補助の方法を案出し、岩本須三郎・松尾要蔵氏に連絡、加古郡長阿部光忠氏を通じて周布知事に申請。知事は臨時県会に提出、可決された。しかし、この段階までに魚住議員・石見議員・坂田藤蔵氏など、その成立のために働いた力が大きいようである。

 知事は、県会議決にもとずき、県下水害復旧工費国庫補助とともに、本工費を政府に申請、貴・衆両院に提案・魚住議員の事前の処置もあって、都合よく可決されることとなった。(補助金12万15円22銭4厘、組合負担58,762円84銭6厘)これによって、明治26年7月、復旧工事に着手、同27年4月に疏水幹支線とも工事完成、同27年5月に疏水が全通し、12月23日、野寺高薗寺境内で竣工式が挙げられた。

ここに、遠く明和年間に起こった疏水事業が、文政9年に再計画されたがいずれも着手できず、明治初年、魚住完治氏がこの事業を企て、測量にも多額の私費を投入されたという。これをきっかけとして、前記の経緯をたどって積年の宿願が成就したのである。この疏水事業の完成は、母里村の発展に必須の事業であり、今日あるはみな、当時の先覚者多数のご功績によるものであることを否めない。

5)疏水事業完成とその成果

 疏水事業完成後、従来の畑・山林・原野を開墾して水田とし、明治38年現在までに、印南新村で238町6反、蛸草新村64町、野谷新村58町、野寺村82町1反、草谷村83町、下草谷村44町1反、その合計569町8反が開墾されたということである。

 また、それまでは、畑1反歩の収穫麦、平均4〜5斗であったのが、水田となったため、収穫米2石2斗5升をあげ、三大難回復の成果の第一に挙げられるものとなった。

 そしてまた、開墾前後の土地価格を比較すると、畑・山林・原野の実価は、反当平均4円29銭であって、総反別価格が21,491円65銭から、一躍はねあがって反当平均158円33銭となり、総反別価格は88万1,588円85銭と、40倍近くに上騰したと書かれている。(史略)そしてこれを成果の第二とされている。

 それまでは、水不足のために困難をきわめていた各村が、淡河川疏水の完成によって驚異的に田畑を改良することができ、生活の安定に向かうことができたのであった。当時、この疏水事業のために努力された先覚者の偉業は、永遠に忘れることのできないものである。