ワインに託した明治の夢

 岸本 一幸 氏

兵庫県播磨平野で国営の醸造場発掘

 見渡す限り田園風景が広がる播州平野。兵庫県稲美町の南東部には、ちょうど神戸市と接するあたりの一画に、周囲にブドウ畑もないのに、「葡葡(ぶどう)園池」という名の貯水池がある。かつて明治政府が威信をかけて進めたワインづくりの拠点「播州葡萄園」の名残りである。

記録通り遺構発見

 そんな国家事業のワイナリーがあったことは地元でも知る人は少なかった。ところが、まったくの偶然からその遺構が発見された。私は町の職員としてその遺構発掘に携わり、昨年から今年にかけ、その調査に明け暮れている。

 きっかけは昨年春にさかのぼる。県の圃場整備のため田の土をブルドーザーでめくるうち、あちこちからレンガ片が出てきた。「こんなところにだれが捨てたんやろ」。いぶかりながらも気になって、その辺りに日参するようになった。

 7月のある日のこと。レンガのかけらを持ち帰ろうと探し回っていたところ、不思議なものを発見した。これまでバラバラでしか見つからなかったレンガが、今度は長さ70a幅50aの固まりで出てきたのだ。 それが、記録に残る醸造場の入り口のスロープ右側の一部だと気付いたのは、翌日のこと。それが正しければ、左側にもそれと対祢の遺構が出るはずだ。

 次の日、慎重に西側を掘ったところ、果たせるかな、今度は長さ二b近い遺構が出てきた。計算通りに出てきた喜びを感じつつも、事の重大さにがく然とし、整備工事を一時的に止めてきちんと調査する発掘許可を国に求めた。

 記録によると播州葡萄園は明治13(1880)3月に開園。およそ30fの敷地には、66種類のブドウの苗がピーク時で約11万本植えられていた。そして明治16年には「葡萄百貫収穫し、八十貫で四種のワイン一石と五升のブフンデーを生産、二十貫は宮中へ献上」とある。翌年にはこの10倍の収穫があった。

 許可を得て昨年10月に発掘した場所では残念ながらワインづくりの手がかりはほとんど出なかった。だが、そこから東へ300b、開園とほぼ同時にできた「園舎」(管理事務所)の跡地発掘は事情が違った。

木箱入りの瓶が8本

 今年1月から全面発掘したところ、レンガと樽(たる)を組み合わせた受液槽、東西約50bにも延びた地下排水溝のほか、のちに岡山のマスカット栽培のルーツとなるガラス温室の跡地と見られる遺構や、金属製品などの貴重な遺物が続々と発見された。手狭になるまでそこで試験的に醸造していたのだろう。井戸の内側の瓦(かわら)に、国家事業の開設時期を裏付ける「辰七月……内務省」の文字も確認できた。

 そして2月には、2bぐらいの深さの遺構から、なんと木箱に入った瓶が8本も見つかった。そのうち3本には栓がしてあり、中身も残っている。間違いなく国産最古級の百十年物ワインであろう。この発見で町は沸き返った。

 再び埋もれる運命に

 このワイナリーがいつごろ、どうして解体したかは定かでない。だが、いくつか原因は考えられる。

 農業近代化を推進した大久保利通が開園直前に暗殺され、政治的後ろ盾のないまま出発した同園は、続く松方正義の工業中心の近代化政策に沿わない事業となった。それに害虫の大発生が追い打ちを掛ける。当時欧州で猛威を振るった害虫が輸入した苗木にも付いていたらしく、明治18年に発生後、打つ手もないまま急速に園内に広まった。

 明治21年には民間に払い下げられ、そこで記録も終わっている。その後、葡萄園をつぶした冒頭の池が明治26年ごろに出来ているから、その前後に解体されたと推測される。

 そもそも葡萄園は、農民が泣く泣く手放した土地にできた。水の少ない枯れた土地で細々と畑作をしていたが、地租改正による重税に耐えきれず、土地を探していた国にまとめて売却することで、滞納した税を支払ったと聞く。郷土史からの検証はこれからだが、同園がこのような土地で生まれたこと自体が、事業の運命を暗示していたようだ。

発掘した遺構のほとんどは、やがて水田や道路の下に「埋設保存」されることになっている。住民の生活を考えれ仕方のないことだが、再び地面の下に埋もれるのがちょっと寂しい気もしている。

 (きしもと・かずゆき=稲美町教育委員会職員)

 

                    平成9年5月22日 日本経済新聞より