(作者注:古い文章が多いので変換しきれない漢字については空欄のまま、または現在の文字に置き換えています。ご容赦ください。また十分なチェックができてないため、誤字脱字があると思われます。徐々に訂正していきます。誤り部分のメールをいただければありがたいです。)

   

            播州葡萄園の興亡   本岡一郎 氏

   もくじ

  はじめに

1 いのちと涙の代償として   

(1) 開園までの印南新村   

(2) ぶどう園誘致      

2 栄光のとき         

(1) 順調なすべりだし    

(2) ぶどうの栽植      

(3) 園路と生け垣      

(4) 郵便局の設置      

(5) ぶどう酒の醸造     

(6) ぶどう温室の建設    

(7) 観園証のこと      

(8) 蒸溜場新築       

(9) フイロキセラと台風襲来 

10) 醸造場再築       

3 播州葡萄園の終末      

(1) 園長渡欧とその後    

(2) 研究・事業の成果    

  おわりに

 

 はじめに

 観光神戸の新名所となった「神戸ワイン城」は、神戸市西区の丘陵地

「農業公園」の中に昭和59年(1984)建設され、その南欧風の建物は、

基本テーマの「太陽の恵み、豊かな風土が伝える香り高い神戸ワイン!」

とともに花開き、”神戸の誇り”といえるまでになった。

 この「ワイン域」から僅か10数kmの地に、明治維新の殖産興業の一つ

として開園し、日本初のワインが生まれた「播州葡萄園」があり、開園

数年にして、愛知県のぶどう植栽本数33万本に次いで第2位の地でもあ

ったことなど、地元の人々にもあまり知られていなかった。

 稲美町では、平成6年(1994)4月、旧播州葡萄園当時の倉庫の古材

を活用して、町の郷土資料館の東に隣接して「播州葡萄園歴史の館」を

建設した。その中には、調査した史料からパネルによって播州葡萄園を

紹介したが、理解を深める資料や展示できる当時の器材などは何もない。

 このたぴ、それを補うための史料を整理し、この小冊子にまとめて、

今まで知られていなかったぶどう栽培とワイン醸造の歴史的事実に光を

あて、開園に至る当時の人々の、”水と重租の苦難”と、それを”克服

していった労苦”を知り、それを後世に伝えるとともに、私たちの郷土

稲美町の歴史研究と”新しいふるさとづくり”につながれば幸せである。

 

1 いのちと涙の代償として

(1) 開園までの印南新村

 播州葡萄園を語るとき、欠くことのできないものがある。それは、開園に至る

までの当時の地元加古郡印南新村を中心とする社会情勢であり、当時の人々の苦

難の歴史である。

 維新後の明治政府は、富国強兵・殖産興業をかかげて、世界の列強に伍すべく

次々と新しい施策を打ちだしていった。その一つとして、日本の南西部における

ぶどう栽培と葡萄酒の醸造であり、その政策のなかで開園したのが播州葡萄園で

あった。

 しかし、その葡萄園開園は、地元の人々が挙って歓迎し、夢や希望をふくらま

せて取り組んだものではなく、生死の境の中で、血と涙の代償として開園された

ものであったといえる。

 いま、旧播州葡萄園付近は、広々とした田園が続き、豊かな緑と水に恵まれた

地域であるが、元来のこの地域は、水利に乏しく、淡河川疏水開通までは、水と

の苦しい闘いの歴史が秘められている。

 明治初年の印南新村付近は、数ヵ所に小さい溜め池が造られ(大鳥屋池・茂平

爺池・重サン池など)その近辺だけに僅かの水田があり、他の大部分は畑地であ

った。そして、その畑地には、藩政時代から奨励されてきた棉が主に作られ、そ

れが生計を文える唯一のものであったのである。

 その印南地区が、明治維新前後の連年の干ばつによる土地の荒廃と、安価な外

綿輸入による綿価格の暴落、それに加えて、地元の実情を無視した、明治6年か

ら始まった地租改正による過当な負担。これらの悪条件が重なり、生活の窮状は

想像を絶するものであったようである。

 明治12(1879)にそれまでの大小区制が廃され、郡制ができたとき、加古郡

の初代郡長として、北条直正氏が就任した。氏は、明治15年郡長を退任、27年か

39年まで請われて第2代の母里村長として村政に尽くす。村長退任後8年を費

して「母里村難恢復史略」を著している。

 それによると、当時の母里村民の「三大難」として次のものを挙げている。

 そのーつは、当地区が水利に乏しく稲田は僅少、その大部分が畑地であった。

明治維新前の姫路藩では、文化年問(180417)以来棉裁培を奨励、棉が米に

匹敵する重要な農産物であった。ところが、元治・慶応から明治初年にかけて凶

干が続き、田畑は枯渇して土地が荒れ果てたことであった。

 その2は、畑の主作物の棉が、外国綿糸の安価な輸入で圧迫され、品質,値段

ともに合わず、販路がとだえ、水不足による不作、作付面積制限など、棉作の打

撃は、村民に致命的な痛手となったのである。

 その3は、それに加えて、生計維持上、決定的なものとなったのは、地租の改

正であった。明治6年(1873)7月、太政官布告で地租改正条例公布、11年4月

からその調査が行われ、同年11月に新租額が発表された。その新租額の決定は、

従来の地租の不公平を是正して、公平至当に決定しようとしたものであり、現地

の収穫の実情を調べて種々考え合わせ貢価を求めて、地価の百分の三を地租とす

るものであった。しかし、事実は不公平極まるもので、当地では、旧価の3倍以

上の賦課となった。地元では、一反歩2〜3円でも買い手のなかった畑地に、反

23円もの評価額が示されたのである。再三の哀訴も拒絶され、納租ができない

ため、土地が公売された者219名、畑反別70町歩、納租のために郡長の仲介で土

地を売却した者94名、その畑反別64町2反8畝19歩、近隣相対で売却、その代金

で納租した者約600名、畑の反別250町歩、土地家屋を売り、亡産した家197

人口約800人という記録がある。

 これらの数字は、当時の印南新村他の総戸数の7分の4に達するものである。

また、こんな話も残っている。

 …その頃郡吏が地元巡視の際、ある農家に立ち寄った。家とは名ばかりの

三畳敷きばかりのわら小屋の隅で、年老いた農夫が土鍋で煮物をしていた。

郡吏は何となく老父の釜の中をのぞいてみたくなり、蓋をあけようとする

と、あけてくれなと手を合わせて頼んだ。それにもかまわずに蓋をずらせ

てみると、中には一粒の米すら見当たらず、刻んだわらが湯の中にまって

いた。…という。

 このように、現在のわたしたちには、想像を絶する試練が、過酷にも当時の人

々にふりかかっていたのであった。

(2) ぶどう園誘致

 このような情勢のなかで、北条加古郡長は、地元救済のために納租の金策・租

税額の減免・延納の運動と、疏水事業を起こすことに奔走することとなった。

 しかし、納租のために、他の資産を差し繰りしても、納租の余裕のある者は10

分の1もなく、その土地を抵当にして借り入れるか、その土地を売って償うかの

他に方法がなかった。また、土地を売るにしても、反当23円の地価査定額にかか

わらず、2〜3円から50銭でも買い手のない現状であった。

 郡長は、地方の老農者、土山の増田性蔵氏、加古川の大村清七氏他数名に諮間

した結果、

 @ 山田川疏水事業は大いによい。

 A 納租金策は、人民が維持できるだけの土地を残し、その剰余の土地を阪神そ

の他地方の有力者に割譲して、その有力者に開拓させ、村民は小作者となって

土地の売り払い代金で地租を納める。

 B 稲田になる見込みのない荒れ畑には松苗を植え、森林として地種を変更して

重租をさけること。

 以上の3点の助言を受けた。

 剰余地を売らせ、それで租を償わせるなど正道にはないにしても、止むを得ぬ

状況の中で、印南郡曽根村の素封家亀田五一郎氏他に土地売り払いの斡旋を委

嘱した。

 ちょうどその頃、明治政府の勧農政策として、日本の南西部でのぶどう栽培

試験のための侯補地探しのことが大阪朝日新聞に報じられた。これを見た北条

郡長は、ここ印南新村へのぶどう園誘致を思い、直ちに上県陳情した。

 数日後、内務省勧農局出仕福羽逸人氏が、現大阪府で小野新田他を侯補地と

して視察したあと、郡長の案内で印南新村の予定地を視察した。

 福羽氏は、川沿いまたは荒廃地を、反2〜3円で買い上げの予定であり、畑

以外の作付けしていない土地がよいとのことで、当地は畑地であるため、適当

でないとの意向であった。

 しかし、郡長は、地租改正による重租、荒れ果てた数百町歩の畑地のあるこ

となど、この地方の窮状を詳しく熱心に説明し、ぜひこの地を園地に定められ

たいと懇請した。

 福羽氏はその説明に心を動かされ、「本村難状の話もあり、地続きのーまと

めで、反当たり6円までなら買い上げる。地主に話し、5・6日後に話をまと

めておくように。」 と言って帰京した。

 その話を受けた印南新村では、地主43名が協議した結果、@伝来の土地を

地租のために買い上げになるのは甚だ不条理であること A畑地価が、大蔵

省所管で決められて23円賦せられながら、内務省では地価の3分の1にも満た

ぬ額で買い上げられるのは甚だ嘆かわしいことであり、せめて反当たり6円50

銭で買い上げ願いたいと、戸長へ申し入れた。

 明治12年(1879)1230日福羽氏が再び来村、戸長・地主総代と話し合った

が、50銭の差で折り合わず、31日に郡長も調整に入り協議したが、なかなかま

とまらなかった。

 この機を逸すると本村の回復はないと考えた郡長は、窮余の一策としてその

50銭の差額、30町歩に対する150円は自分が私財で償うから、ぜひとも買い上

げ請書を出すように言い渡した。

 地元では、まだ疑って容易に承諾しなかったが、長時問の話し合いの結果

ようやく地主の承諾をまとめることができ、屈け出がなされたという。

2 栄光のとき

 明治13年3月2日付の勧農局伺案に始まり、次のような売り渡しの手続きが進め

られた。

   明治十三年三月二日(三月三日達済)      二等属 池田謙臧

       兵庫県へ御照会案伺

   御管下葡萄樹試験園開設致度侯処明石郡印南新田ハ適応ノ地ト相侯ニ付

   同所於テ三拾町之地所買人申度乍御手数至急御取調御申越相成度悉細ノ

   義ハ当時出張之局員福羽逸人ヨリ可及御打合候間左様御了承有之度此段

   及御照会候也

      年月日                   勧農局長 印

      兵庫縣令宛

 

   明治十三年六月九日(六月廿九日決判)     三等属 池田謙臧

      葡萄試験園地所御買上之義ニ付何

    一金千八百七拾五円五拾銭

   右ハ佛国葡萄試験園堺縣下ニ於テ開設方伺済之上局員福羽逸人出張地所

   所有者五代友厚へ談判侯へ共相談不整因テ過般同人出張之節取調置候播

   磨国加古郡印南新村地所ハ既二拓地二侯得共名利ニ乏シキ数千町歩ノ畑

   地ニシテ地租改正後ハ人民殆ント困却スルノ地所ニ有之然ルニ葡萄樹ヲ

   栽培スルニハ最モ適当スヘキ場所ト被相考候間右地所買上方差支ノ有無

   兵庫縣へ御照会相成侯処別紙之通回答有之候ニ付前記ノ金員ヲ以テ御買

   上相成候様致度御決議之上ハ本局十三年度経費之内ヨリ御支出直ニ該縣

   ヘ御廻付相成度此段相伺候也

   但本議御裁下ノ上ハ太政官何等ノ件ハ例ノ通リ地理局へ照会ノ積此段

   申上置侯也

 

  (回報)

   丙九五一

   當縣下播磨国加古郡印南新村ニ葡萄樹試験園ヲ被設ニ付同所ニ於テ地所

   三拾町歩程御買入云々客月三日御照会之趣了承貴局員福羽逸人ト協議ノ

   上取調侯処別冊土地ハ御買上ケ相成候トモ支障無之候条此段及御回報侯

   也

    明治十七年四月廿九日

                     兵庫縣令 森岡昌純 印

    勧農局 橋本内務少書記官殿

 

   明治拾三年九月十四日               籾山 鈎

      播州葡萄園買上代金之内残額請求之議ニ

      付兵庫縣へ御回答案伺

    播州葡萄園買上代金残額請求ノ儀ニ付兵庫縣令ヨリ別紙之通照会有之候

    処右ハ御用掛福羽逸人ヨリ此程直ニ該縣ヘアテ十二年度経費ノ内ヲ以テ

    仮渡取計方依頼及候次第有之候ニ付其趣ヲ以テ御回答相成侯様致度依テ

    本按相添此段相伺候也

      案

    当局所轄葡萄園買上代金残額請求ノ義ニ付過ル四日附ヲ以御照会之趣了

    承致候然ル処右ハ此程局員福羽逸人ヨリ直ニ御照会及候次第有之最早御

    了承相成侯事ト被察候條可然御取斗被成下度此段及御回答候也

       年月日                    局長名 印

       兵庫縣令宛

 

   (照會)

    乙一一二六

    当縣下加古郡印南新村ニ於テ設置相成侯葡萄園敷地買上代金ノ義ハ池田

    育種場長ヨリ照會之趣ニ付預テ御委托有之侯経費ノ内ヨリ金千円下渡置

    侯処右残額請求ノ儀ニ付別紙之通地主トモヨリ願出侯ニ付則願書及御回

    候間早々御回金有之候様致度此段及御照會候也

     明治拾三年九月四日

                       兵庫縣令 森岡昌純

      勧農局長 品川弥二郎殿

 

     葡萄園御買上地代金残額下渡願

    加古郡印南新村地所之内

     一田畑総計反別三拾町一反九畝廿一歩

       此代金千八百七拾円拾四銭

        内千円 本年四月中御下渡相成正ニ受取候也

         残金八百七拾円拾四銭

    右地代金残額今以テ御下渡シ無之ニ付テハ地券名前モ据置ニ付昨十二年

    度后半期地方税地價割及共議費末納等屡督責有之ノミナラス自分活計上

    差支甚タ困却仕侯間右金至急御下渡被下度依之連署ヲ以テ此段奉願侯也

     明治十三年八月十八日          右村旧地主総代

                               丸尾弥三郎 

 

 この結果、印南新村の畑地反別30町2反8畝19歩が内務省勧農局に買い上げられ

ることになった。この地代金1,81669銭1厘(反当6円)の価格は、普通の売買

価格の倍額以上であったといわれるが、評価額の4分の1ほどの低額である。

 この危機を救うための策として、最善の方法としてとられた処置であったにして

も、郡長をはじめ、地元の人々の気持ちは想像に余りあるものがある。しかも、そ

の売却の代金は、そのまま明治11年以降の滞納の地租として納付し、それぞれの地

主にはただ、自分たちの土地を国に取り上げられてしまった結果に終わっただけで

あった。

 これは全く、当時の地価格の評価の誤りであり、実情を無視した過当な査定がな

された結果である。

 地元では、再三、地価修正の請願や延納願いが続けられた。北条郡長は、それに

加担したとのことで、明治15(1882)加古郡長を解任、左遷されるなどあったが、

明治14(1881)及び16(1883)の2回にわたり、ようやく地価修正が行われてい

る。それによると、明治9年の賦課租額は、20年に修正された新租額に対し、2.13

倍であったこと記録されている。また「史略」によれば、このような不当な地

租の賦課は、「6か村人民が、数回の請願に依り租税官が再三調査の上修正なした

る結果、如上の減租をなしたるものにして、正しく是れ租税官が不当の賦課をなし

たることを自覚して修正したるの明証なり。就いては、政府は此の不当の賦課額を

6か村人民に対し還付せらるべき義務あるものなり。」とし、その還付未済額は、

14年と20年の修正減租額の還付されていない額を合計すれば、9,84714銭6厘と

記されているc

 また、問題はこれだけではなく、明治18年9月、6か村戸長岩本須三郎氏の取り

調べによる村民の負債について「史略」の記載に次のようなものがある。

 一金 62,692円16銭1厘 抵当差し入れ公証割引簿による

 一金 32,200円      無抵当の借り入れ

 合計 94,892円16銭1厘

 当時の戸数約730戸、 1戸平均負債額130円、「けだし、この砌が本村衰態の最

も甚だしきときとす。」と書かれている。

 このような村民の血と涙のなかで、生死ぎりぎりの瀬戸際に、それらの代償とし

て「播州葡萄園」は開園の運びとなったのである。

 

(1) 順調なすべりだし

 「播州葡萄園」は、明治政府にとってはぶどう苗木をフランスから導入し、勧

農政策としてのぶどう栽培によるワイン醸造をめざした国家的大プロジェクトで

あったに違いない。そして、山梨・愛知・弘前など数カ所の官・民園の計画の中

で、播州葡萄園はその中核として注目されたものであった。

 明治13年3月13日、福羽逸人氏を園長心得として、御雇片寄俊氏及ぴ農夫川島

梅吉・吉岡常吉の3名が印南新村に到着、開園が進められていった。7月13日に

園舎落成、寄宿舎38坪7合5勺、厩及び納屋32.75坪となっている。

 この時、東京三田育種場から仏国系のぶどうの苗木と園具・園用馬2頭などを

回送し、開園作業を進めていった。

 この開園の趣旨について、福羽氏は、「農務頴末」の中で次のように述べてい

る。

  …明治十三年三月兵庫縣下播州加古郡印南新村ニ於テ民有耕地反別三十町

   余ヲ買ヒ上ケ茲ニ初テ本園ヲ創設ス葢シ其主旨専ラ外国葡萄ノ栽培ヲ実

   検シテ其適否損益ヲ経検シ愈々其実益ヲ証スルニ至レハ之ヲ汎ク農家ニ

   知ラシムルノ計画ニシテ所謂一ノ試験園ニ外ナラサルナリ而シテ其創業

   ニ当テヤ先ツ園藝ヲ経緯シテ全園ヲ大別シ三區トナシ各區年ヲ逐テ苗樹

   ノ栽植ヲナシ三ヵ年ヲ経テ満園ニ栽植シ終ルヲ豫定セリ尓后孜々其繁殖

   ヲ計リ終ニ三ヵ年ヲ経テ未タ豫定ノ園藝ヲ完フセスト雖トモ全園中二於

   テ家屋敷地其他ニ六町二反余ヲ除キ巳ニ栽植ヲ終ヘタルモノ十八町五反

   余ニ及ヒ僅ニ未植地五町四反余ヲ余スニ至レリ(後略)

 (福羽氏は、当初は常勤ではなく、明治16年2月13日に常勤を命じられ、19

  1月22日に園長を命じられた。)

 また、明治16年頃から播州葡萄園をたびたび訪れ、現在の岡山温室ぶどうの創

始者ともいうべき大森熊太郎氏(岡山市津高)の日記や往復の手紙には、園丁と

して岡部明澄・森永壮七・飯田某氏の名が見られる。

(2) ぶどうの裁植

 播州葡萄園では、園地30町2反8畝19歩を次の図のように3つに区画し、第1

区6町4畝、第2区9町2反1畝5歩、第3区15町3畝14歩として、第1区から

順次ぶどうの苗木の栽植を進めていった。

 

 そのうち、第2区については、「農務頴末」の中に前のぺージの図のように第

1号から第23号まで区画したものが残されており、第2区の東瑞、園のほぼ中心

部分に園舎が設けられ、その付近は養樹園になっている。開園した明治13年には

ここに28,556本の苗木が栽植されている。

 栽植にあたっては、駒場農学校の化学教師ヲスカアル・ケルネル博士の土質検

査によるデータをもとに、施肥・耕転の方法なども研究し、毎日の天気、特に降

雨の計測など、詳細になされている。それによると、土質については表層は鼠色

粘土質で、磧磔の混ざったもので、よく乾操し、干ばつの頃には、2頭の馬で耕

そうとしても驚くほど固く、挿枝などは根を出さず、苗木も根の張りが悪かった

ことが記録されている。

 従って、第2区の栽植にあたっては、明治13年の10月から12月まで、米国製の

犂具を2頭の馬にひかせ、初め8寸から1尺に耕し、再び1尺2・3寸まで犂き

しばらく放置して霜や露に当て、これを砕いていった。

 栽植の樹種については、明治14年の3月に移植した分だけでも、数10種が数え

られ、開園当初に言われたように、試験的な栽培であったことがうなずけるので

ある。

 次に、年次別のぶどう栽植本数・反別・果実収量をあげると、次ぺージの表の

ようになっている。

 

(3) 園路と生け垣

 次に、園内の道路についての「農務顛末」の記述をあげると、このように書か

れている。

…「先ツ運搬ノ便否ヲ計リテ其便ナル線ニ就キ 全園ノ諸方面ニマテ自在

二双馬ヲ馳駆セシムルニ足ルヘキ廣路ヲ築造スルヲ緊要トス……園路ノ

本路ハ前後ヨリ双馬ノ草ヲ曳キ馳セ来ルアルモ二車互ニ相接セザルノ廣

サヲ要ス 故ニ本路ハ幅一尺五寸(約5m)ヨリ狭カラシムヘカラス

抑〃本路八葡萄栽植ノ聾列ト直角ノ線ニ整へ而シテ本路ヲ行ク百間(約

180m)毎ニ幅六尺(約2m)ノ岐路ヲ奉路ニ接続シテ 本路ト岐路ト

ヲ直角即チ十字形ニ整フヘシ 而シテ其両縁ニ浅キ明渠ヲ穿チ……」

 第2区図にみられるように、全園にほとんど直線で道路がつくられている。往

時は作業用具や収穫したぶどうを積んだ馬車がこの道路を往復し、視察の高官の

蹄の音も聞かれたであろうと想像できるのである。

 また、園の外周の生け垣と防風樹のことについて、前記「農務顛末」をみると

次のように書かれている。

 …「我輩ハ今葡萄園ノ防風樹及ヒ藩離トナスニ於イテ本邦固有ノ樹種ヲ

探究スルニ当リ公縣樹ヲ以テ頗ル其用ニ適スルモノト信セリ…」

「…何ナル種類ノ樹種ヲ以テ最モ能ク此目的ヲ達スルヤ否ヤヲ推究

スルニ苦竹及公孫樹ヲ以テ最適無比ノ防風樹ト思考セリ…」

 この資料から、ぶどう園の周囲には、いちょうと真竹(まだけ)が主に植えら

れたと思われ、「アカシヤ」が植えられていたとの風説があるが、ここでは見当

たらない。

 

 また、福羽園長の報告書の中には、その効用について、次のようなことが書か

れている。

1 公孫樹(いちょう)

 ・西北風を防ぐために、垣に沿って一丈(約3.3m)間隔に公孫樹の木を植

え、一本おきに3mに伸ばすものと、その半分にとめるものとにする。

 

 ・その効用

  @ 防風  A 男定した枝は支柱  B 虫類や煤病がない

  C 落ち葉は肥料  D 成長が速く、枝葉が密生

  E 冬は落葉して、影蔭が少ない  F 果実を収穫

  G 剪定しても、枝芽の再生が速い

2 苦竹(真竹)

  ・将来、ぶどうの支柱用とする。

3 棕櫚

  ・毛皮を支柱の縄用にする。

4 楢(なら)・檪(くぬぎ)

  ・堆糞場の四周に栽植し、将来ぶどう酒の穏材用にする。

 このように、防風樹の植え付けについても、よく研究をし、将来の効用なども

考え合わせて選定されている。

 

(4) 郵便局の設置

 播州葡萄園の整備がおいおいとすすみ、往復の郵便物も多くなり、国岡新村郵

便局からの集配に不便なため、明治1410月から、印南新村に郵便局の設置が働

きかけられた。

 明治141220日、それが承認され、翌15年1月2日から丸尾茂平次氏に郵便

取扱が命じられ、「印南新村郵便局」として設置された。

 次の2つの文書は、その時、兵庫県令から農務局長への申請と駅逓総官から農

務局長宛の回答書である。

 

   庶乙三二二〇

    管下播磨国加古郡印南新村ハ御局所轄ノ萄萄園有之該圍へ往復スル郵

   便物モ不尠郵便局新設ノ義ニ付農第二千五百三十五号御照会近書ノ趣ト

   モ謹承右ハ該村へ置局ノ積リニ驛逓局へ稟議及置侯間御了知相成度御答

   旁此段申進侯也

     明治十四年十一月廿二日

                         森岡兵庫県令

    田中農務局長殿

 

 

   規甲十四第六五三三号ノ内

    兵庫県下播州加古郡印南新村へ郵便局新置ノ義ニ付農第二千五百三十

   五号ヲ以テ御照会ノ趣了承即チ同村へ郵便局設置丸尾茂平次へ郵便取扱

   申付十五年一月ニ日ヨリ施行候条其旨御了知有之度此段及御回答候也

     十四年十二月廿日

                          野村驛逓総官

    田中農務局長殿

 

 

 また、その頃の印南新村郵便局の消印

の押された葉書が、野寺の魚住早苗氏

(故人)宅に保存されている。

 そしてまた、播州葡萄園から岡山県津

高郡栢谷村(当時)の大森熊太郎氏へ送

られた手紙の数通にも、次のような消印

が見られる。これは、醸造責任者の片寄

俊氏からのもので、播磨・加古・印南新

6.29と読みとれる。

 

(5) ぶどう酒の醸造

 この、明治14年、前記岡山県の大森熊太郎・山内善男氏が初めて播州葡萄園を

訪ねている。園内には、約5万本のぶどうが、第1・2区に植えられていたが、

果実の収穫は少なかった。そのため果液の分折をして、醸造用にするぶどうの種

類の優劣を試験したに留まっている。

 明治15年も少量の収穫、この年福羽氏は播州葡萄園在勤を命じられ、常駐する

こととなった。また、この年に日本で初めてのフィロキセラを当園で発見してい

るが、ぶどうへの被害はなかった。

 この年の1219日、品川農商務大輔が印南新村外5か村を視察、地元の実情を

詳しく説明して、疏水事業への理解を得るように努めた。

 播州葡萄園で本格的なぶどう酒醸造の試みを始めたのは明治16年である。園内

のぶどうの収穫100貫(約375kg)に達し、80貫(約300kg)で4種のぶどう酒

を試醸して、色味とも佳良なもの1石(約18g)を造り、その搾滓を再醸してブ

ランディ若干を蒸溜している。

 但し、このぶどう酒は、翌年の夏まで1・2回澱渣をとらなければ飲用できな

いと報告書には残されている。

 しかし、この時には、まだ専用の蒸溜設備はなく、狭い納屋に仮設した告室を

使い、醸造の用具なども何もなかった。そのため、将来のぶどうの生産量の増加

を見込み、次のように2階建38坪(約125.4u)の醸酒場建築について申請し、

 新築されている。

 

   明治十七年三月六日                九等属 片寄 俊

    播州葡萄園醸造場新築及該費用ノ義司

   一金干百五拾円

     内

    金八百五拾円  醸造場新築費

    金三百円    醸造器械購入費

     内訳

    金百七十円   葡萄壓搾器   一個

    金三十円    葡萄砕窒頑器  一個

    金六十円    醸樽     十五個

    金十七円    醸溜器     一個

    金十二円    排酒卿筒    一個

    金十一円    曲注管     二個

播州葡萄園創業以来額爰ニ四ケ年ノ星霜ヲ経過シ当初豫定セシガ如ク昨

十六年ハ第一区即チ初年栽植セシ地ヨリ果百貫目余収メ其品位ハ

先毅回覧ニ供シタル通リノ物二有之右ニテ葡萄酒一石許ヲ試醸シタル

二品位佳好本年ノ秋季ニ至レハ飲用ニ供スヘキ度ニ熟スルナラン然ル

ニ昨年ノ醸造タルヤ狭小ナル納屋内ニ仮設シタル窖室ヲ用ヰ其他醸造

ニ属スル器械ノ準備無之ニ拘ハラス斯ノ如キ成果ノ実ヲ表シ又昨年ノ

成果ヲ以テ今年以後ノ結果ヲ豫想スルニ逐年大ニ産量ヲ増加シ本年ノ

秋ニ在テモ其額五百貫目ヲ下ラサルヘク被存侯就テハ差向右醸造貯蔵

ノ場処及ヒ器械ニモ差支候ニ付目今三四年間ハ之レニ差支ナキ程ノ屋

室ヲ築造シ且本年必要ノ器械ヲモ準備セサルヘカラサルノ時ニ迫レリ

依テ右建築費用及器械購入代價概算侯処本行ノ通リ有之侯条本局經費

ヨリ増額御支出建築及ヒ器械購買方御許可相成度署}面相添此段相伺

候也

  付  卿輔御決判爰済主任者へ御送付前一応当課へ御送付

  箋  有之度侯也

                      庶務課

 

      十六年度本局經費於テ流用可相成金額無之侯尤モ

   付  本議御裁可可相成件ニモ候へハ十四十五両年度経

      費残額金ノ内獣医書賃訳料御支払残リ三干九百四

   箋  十九円五十一銭一厘有之侯間此旨申上候也

        十七年三月七日        庶務課

 

 

 明治十七年七月一日                九等属 片寄 俊

  醸造場新築落成ノ義上申

 先般經伺ノ上建築着手侯葡萄酒醸造場木造窖室附一棟今般費額金八

 百四十円ニテ落成侯ニ付別紙図面相添へ此段上申候也

 

 また、成熟のぶどう数種を選び、宮内省を通して献上、農商務卿他要路へも贈

呈した。この年の7月15日、松方大蔵卿が視察、園内を巡視して、「園業の振起

改良を図り、国産開成の実功を奏するように」と懇諭した。

 続いて1023日、西郷農商務卿が来園、欧州南部のぶどう産地とほとんど似通

った当地では、ますます進歩改良を図り、「かのブウルゴギュの美酒に劣らざる

良酒を産出し」将来、世人が本園の醸酒をブウルゴギュの美酒を好むようにさせ

たいと激励した。

 この視察の時、地元印南新村の窮状を詳細に訴えた住民と加古郡長の熱意は、

後の地租額改正や疏水事業の国庫補助などに大きく役立ったことは、特筆されね

ばならないことである。

(6) ぶどう温室の建設

 明治17年、日本最初のガラス温室4.5坪(約4.85u)を建造した。そして、そ

の温室に6種類のぶどうを試植したところ、秋になって意外の良結果を得た。植

栽種のうち、パレスチン(パレタスイン)一穂が結果し、重量1貫200匁、穂長

2尺6寸と書かれている。

 次は、その温室の建築

伺いと図である。

 明治十七年三月五日

   六等属 福羽逸人

   葡萄室新築之義伺

  室内葡萄裁培実験ノ

  為メ別紙図面ノ通リ

 四坪半ノ硝子蓋室新築致度尤モ費用ノ義ハ概算弐拾三円位ヲ以テ悉皆

 落成可致見込ニ付此段相何候也

また、露地で栽培したぶどうは、収量1,005貫(約3.8t)で、多少は生食用

とし、ほとんどを醸造にあて、ぶどう酒6石(約1.1Kl)と、ブランデー・醋酸

なども若干つくっている。

 ここで、岡山の温室ぶどうについてふれてみたい。

さきに播州葡萄園を訪ねた岡山の津高、大森熊太郎氏は、ぶどう栽培研究視察

に上京の途次、再び播州葡萄園を訪ね、たまたま欧州種ぶどうの試食をし、その

香昧に一驚、欧州種ぶどう栽培の決意を高めた。

 翌17年には、大森氏は森芳滋氏を介して播州葡萄園から欧州種ぶどうべル、ボ

ル各100本、ハン、レッド各50本の合計200本のタネづる(扞枝)を譲り受け、

既植の米国種・甲州ぶどうの大部分を接ぎ変え、更新した。…岡山の果樹園芸

史から…

 また、このボルとはボルドー・ノアール、ハンとはフラック.ハンブルグ等の

略称と思われると書かれている。あとの2種類については、播州葡萄園の植栽種

からみて、ベルはジョハニス・ベルグ・リイスリング、レッドはレッド・マンソ

ン種ではないかと推定できる。この4種が改良され、現在の岡山ぶどうの繁栄の

中に生き続けていると考えたとき、当播州葡萄園の果たした役割の一つとしての

意味が見出せるのではなかろうか。

 因みに、山内善男氏は、明治19年当時の津高村栢谷西山の地に片屋根の福9尺

長さ18尺の温室を造り、マスカット・オブ.アレキサンドリアの苗木を植え、21

年6貫の収穫を得た。これが現在の温室ぶどう生産の発祥となったものであり、

地元では、初期マスカット温室を復元し、これを顕彰している。

(7) 観園証のこと

 順調な経営の続いた播州葡萄園では、観察・見学などの来訪者も多くなり、明

17年に、来園者用の「観園證」を作っている。次ぺージのものがそれである。

 

(8) 蒸溜場新設

 明治18年、ぶどう酒醸造のための蒸溜場の必要から次のような伺いから始まり

30坪の蒸溜場と葡萄室を建造している。

 また、その頃、札幌葡萄酒醸造室の構造資料を取り寄せ、それを参考に造られた。

 

  期治十八年八月四日(八月十四日決判)      九等属 片寄 俊

     蒸溜場家屋新築ノ義伺

  一家屋一棟 葡萄室附 木造平家瓦葺  三十坪

     内葡萄室十二坪

    此建築費概算金三百五十八円

     但十八年度本園經費ノ内ヨリ支出

  本固葡萄の産額逐年ニ多キヲ加へ従テ蒸溜物ノ石数ヲ増加スヘク侯処

  未タ蒸溜二給スヘキ建造物無之元来葡萄酒ヲ醸造スルヤ其醸糟及ヒ澱

  渣ヨリ酒精ヲ蒸溜スルヲ以テ其益ノ大ナルヲ見ルヘキモノニ有之然ル

  処其蒸溜器ニ在テハ先般既ニ購入相成候間今般之ニ給スヘキ家屋新築

  相成度又葡萄室ノ如キハ葡萄樹ノ性理ヲ極メ且ツ室内裁培法ノ一科ヲ

  試ムルニ取リテ最モ緊要ノ建造物ニ有之候ヘトモ当園内ニハ先年仮ニ

  狭小ナルー室ヲ設ケ以テ僅力ニ其目的ヲ達セシノミニ候へハ尚ホ此目

  的ヲ達センノミニ候へハ尚ホ此日的ヲ確実ニセンタメ蒸溜室ノ南面

  ニ連續建設致度然ル上ハ一室ヲ新築スルニ比スレハ其費用ヲ減スル

  不扞尠候間右連續建築相成候様致度別紙図面相添此段相伺侯也

   但本議御裁可ノ上ハ直ニ当園會計員へ通知別規ノ願序ヲ糎テ更ニ

  會計局へ申出建築着手ノ筈

 

   明治十八年九月十四日          八等属 片寄俊

        蒸溜場家屋新築落成ノ義上申

   先般経伺ノ上建築着手候蒸溜場家屋 萄萄室附 一棟今般費額金三

   百六十七円ニテ落成侯ニ不別紙図面相添此段上申候也

 

(9) フィロキセラと台風襲来

 この年の夏前まで、順調に生育したぶどう樹は、約150180石の醸造が見込

まれていたが、6月29日午後5時、第3区のガラス温室のぶどう樹に数10疋のフ

ィロキセラを発見、全区を詳しく調べ、硫化石灰・石炭油で駆殺し、ぶどう樹を

4,648本、支柱とともに採掘、焼却した。フィロキセラは、三田育種場から移植

した苗木であり、アメリカから苗木とともに持ち込まれていたものであろうとさ

ている。

 そのうえ、8月18日襲来した暴風雨は、一昼夜荒れ狂い、海水に吹かれ、翌日

の晴天に照りつけられたぶどうの被害は甚大で、「岡山の果樹園芸史」によれば

「播州葡萄園全壊、翌日快晴になり、高温のために時の経過に従って一種異様の

臭気を発した」と書かれている。従って、当初の見込みに反し、収穫量200貫(

750kg)で、葡萄酒1石5斗(約270g)を醸造した。

 ここで、参考までにブドウフィロキセラとは、次のようなものである。

 ブドウフィロキセラとは、ぶどう樹に寄生する 虫科の昆虫である。その

生態は複雑で、葉に寄生する葉 型、その一部が根におりて寄生する根瘤型、

根瘤虫から生じる有翅型、その有翅虫が産卵して生まれる有性型に区別され

る。

 有性虫が産む越冬卵は、翌春、葉 型の成虫となる。この四つの異型を経

過しながら、ぶどうの根部、葉部から栄養を取り、樹精を衰弱させ、遂に枯

死させてしまう。

 フィロキセラ自体は非常に小さい虫であるが、これが寄生すると、根や葉

には「たま」といわれる虫 ができるので、虫体より先にこのコプが発見で

きる。

 この、台風による被害状況視察のため、西郷農商務卿や松方内務卿の視察が

続き、再建の計画が進められていった。

10) 穣造場再築

 この年、旧醸造場が狭く、8月23日にその建設伺いが出され、19(1886)

3月24日に、72坪(約237.6u)の醸造場を建築した。

 

   明治十8八年八月廿三日(九月十九日決判)     八等属 片寄 俊

    葡萄酒醸造場家屋新築ノ義伺

   播州葡萄園御開設以降逐年結果ノ数ヲ加へ従テ葡萄酒試醸ノ量ヲ増スヘ

   キニ付昨十七年仮ニ廿四坪ノ醸造場家屋建設相成侯処明治十九年以降ハ

   毎年百五十石乃至三百五十石ノ醸造ヲ為スニ至ルハ既往ノ成蹟ニ徴スル

   モ違フヘカラサル収量ト被存侯然ルニ昨年建設相成タル建造物ハ甚タ狭

   隘ニシテ此石数ノ酒ヲ醸スルニ足ルヘキ場所ナキハ勿論各前年試醸ノ酒

   ヲ貯蔵スルニ差支候様ノ次第ニテ本年ハ尚ホ該家屋一棟ノ新築ヲ要スル

   時ニ有之候付テハ今般右ノ目的ニテ適フヘキ家屋一棟別紙図面之通り新

   築相成候様致度此家屋ノ上層七十二坪ハ三百五十四余石ノ葡萄酒ヲ醸造

   スルニ足ルベク其下層ハ上層ト同一り坪数ニシテ煉瓦ヲ以テ築キタル客

   室ナレハ前同量ノ葡萄酒ヲ貯蔵スルヲ得ヘク其二階建四坪ハ葡萄砕壊器

   ヲ装置シ砕壊ノ後其液ヲ醸造所ニ流下セシムル為ニ設ケタルモノニシテ

   相建坪ノ面積七十六坪ニ候斯ノ如ク貯蔵所醸造場等ヲー棟ニ構造候へハ

   之ヲ各別ニ建設スルニ比スレハ大ニ費用ヲ滅シ侯ニ付右様建築御許可相

   成度尤該醸造及ヒ貯蔑ニ用ユル家屋及ヒ窖室ハ外気ノ変動ニ感セサルヲ

   主トスル義ニ付都テ周囲ヲ竪牢ニ築造スルノ見込ニ有之依テ新築費用見

   積侯処概算金二千八百八十円マテニ失悉皆落成可致ニ付本議御決裁ノ上

   ハ十八年度播州葡萄園経費ノ内ヲ以テ新築相成侯様致度別紙図面三葉相

   添此段相何侯也

   但シ御決判済ノ上ハ当園會計員へ通知制規ノ順序ヲ経テ更ニ會計局

   へ申出新築着手ノ筈

 

   明治十九年三月廿四日             八等属 片寄俊

   醸造場家屋新築落成上申

  十八年八月経伺ノ上建築着手候醸造場家屋一棟新築費額金二千四百四十

  九円ニテ落成候條別紙図面相添此段上申候也

 

 左の写真は、この醸造場を明治36

(1903)6月に母里小学校へ移築し、

3教室に転用した。2階建ての玄関部

分のついた建物がそれである。

 

 

3 播州葡萄園の終末

 (1)園長渡欧とその後

 この醸造場竣工と同時に、福羽園長はフランス・ドイツの両国へ留学、ぶどう

栽培法・醸造法を研究するとともに、一般園芸を修めることとなった。同氏の第

一回の渡欧であった。

 害虫フィロキセラと台風による大被害を受けた播州葡萄圍は、政府の政策の転

換と、経費節減などにより、1か年4,000円の補助金で、元農商務大書記官前田

正名氏(後に山梨県知事)に3年間の経営委嘱がなされた。

 この頃、ぶどう園誘致・開園に尽力した北条加古郡長は、県の租税官との対立

が原因で解任され、地元印南新村の戸長丸尾茂平次氏は病気で療養中であった。

 福羽園長から北条郡長を通し、「播州葡萄園は、将来できるだけ安価で地元に

払い下げ、民営に移す計画である」ことを知らされていた地元も、関係者3名が

不在のなかで、空手形に終わったことは、悔やんでも余りあるものである。その

約東が実現していたとすれば、止むを得ぬ状況のなかで、泣く泣く手離した土地

ではあったが、いくらかの救いであったであろうし、もしその後において順調な

葡萄園の経営ができていたとすれば、岡山の温室ぶどうにもひけをとらない、稲

美町の特産ぶどうとしての盛況が見られたかも知れない。

 明治20年、葡萄酒4石(720g)醸造、翌、21

年、播州葡萄園は、前田正名氏からの出願で払い

下げられた。払い下げ価格5,377円であった。ま

た、開園後の投下資本は8,000円とされている。

 明治23年、醸造責任者の片寄俊氏から出願した

登録商標(三楽(株)神戸、森下肇氏が西宮市立

図書館で、明治36年発行の「全国醸造物登録商標

便覧」中から発見し、報告している。)が承認さ

れているところをみれば、この後も、数年はぶどうの栽培、ぶどう酒・ブランデ

一の醸造が行われていたと思われる。

 払い下げを受けた前田正名氏は、その年に山梨県知事に赴任、播州葡萄園の経

営にはあたらず、片寄氏によって経営されていたようである。

(2) 研究・事業の成果

 播州葡萄園は、短命であったにしても、明治初期園芸の先覚者福羽氏によって

研究に研究が重ねられ、後世のぶどう栽培・国産ぶどう酒醸造に大きい役割を果

たしたものといえるのである。

 その研究内容と事業による成果をまとめると次のようである。

  研究内容

  1 各種葡萄の栽培を実験して、その適否損益を証明すること。

  2 醸造用の葡萄樹を選抜すること。

  3 剪定及び隘扞挿(さし木)法の研究。

  4 樹苗の繁殖(ぶどう苗を挿し木でふやす)配布及び苗木の委託養成。

  5 葡萄酒及びブランデー醸造。

  事業による成果

 この開園によって、当時の印南新村及び付近の村々が、直接・間接に受けた利

益について、北条直正氏は、「母里村難抜復史略」に次のことを挙げている。

 1 本園買い上げ代金1,87550銭で、印南新村の地租改正による新租が納付

  できた。

 2 本園に使役されて生計を営む者が多く、貧民救済の補いとなった。また、

  職工食料・馬料・建築材料等の謂達によって、利潤を受ける者が少なくなか

  った。

 3 本園が設けられたため、内務・大点・農商務三省の卿(現在の大臣)や事

  務官の巡視があり、それによって六か村の難状が政府に通じ、疏水事業の水

  利土工費の国庫補助が受けられるようになった。

 4 本村の畑地実価が1反歩2・3円から50銭であったのを、買い上げ代金を

  反当6円とされたため、村全体の土地価格が上騰した。

 5 阪神その他の有力者が、将来有望な土地と考え、買い上げる者が続出、そ

  の反別2百数10町歩に及び、疏水事業や改正重租の負担をまぬがれた。

 6 用地が、反6円で買い上げられることによって、地租改正の時の6か村の

  畑地公定価格平均23円となっていたことの不当が証明され「畑地価特別修正」

  及び「改正地租年賦延納願」が認められた。

 

 なお、この播州葡萄園は、明治27年ごろに廃園になり、その幕を閉じたの

ではないかと推定できるのである。

 

  おわりに

 現在、この播州葡萄園の跡地は、当時の園域が推定できる地形は残

しているものの、その地形すら、今、進行中の土地改良事業によって、

まもなくその様相を変えるであろう。

東西に走る「馬車道」と呼ばれる園路があり、往時は高官の馬車が蹄

の音高らかに走り、収穫した多量のぶどうを積んだ車が往来していた

ことと思われる。

 その他に当時を偲ばせるものは、園内で醸造にでも使われていたの

ではないかと思われる井戸…(内側には別注の焼き瓦が張り詰めら

れている)…が残り、跡地の第1,2区間にまたがって造られた「葡

萄園池」にその名を留めているだけである。

 以上、播州葡萄園について、手元にある調査結果をまとめてみた。

稲美町の「播州葡萄園歴史の館」で展示した資料パネルも、残ってい

る歴史的な史料の不足から十分なものとはいえない。

 今後多くの方々の謂査・研究によって、葡萄園の全貌が明らかにな

り、展示内容も充実し、当町の歴史研究の発展と文化財保護につなが

 ることを願うものである。

 

平成7年3月

           本岡 一郎 記