WWU人物事典



ここは、WW2で活躍した軍人、その他有名人を紹介するコーナーです。



なんだコノヤローマルティン・ボルマン Martin Bormann(1900−1945?)

ヒトラーの側近の一人。謎の多い人物。1925年にナチス入党。ヒトラーに取り入り権力を拡大した。個人秘書として常にヒトラーのそばに居た。上司には媚びへつらい部下には冷酷な態度を取る男であったため、ナチスの幹部たちからも毛嫌いされた。1945年にはヒムラー、ゲーリングを失脚させ次期ナチス党首に任命されるが、ヒトラーの自殺後、総統官邸地下壕から脱出を試みたときヴァイデンダム橋で目撃されたのを最後に消息を絶つ。1973年にヴァイデンダム橋付近のレアター駅で2体の人骨が発見され、そのうち1体がボルマンであると公式に確認された。遺体の口からガラス片が発見されたため、青酸による自殺とみられている。



ヨゼフ・メンゲレ Josef Mengele(1911−1979)

ポーランド・アウシュビッツの強制収容所で数々の残虐な人体実験を行い「死の天使」と呼ばれた医師。出世のためにナチス親衛隊に入ったメンゲレは、アウシュビッツの収容所で研究の場を与えられる。メンゲレはそこで、子供たちを被験者として数々の残酷な人体実験を繰り返した。

1945年1月、ソ連軍がポーランドに迫り、メンゲレはアウシュビッツから実験の資料を持って逃走する。メンゲレは各地を転々とし、結局最後まで逮捕されることはなかったが、死ぬまで追手の恐怖に悩まされた(かもしれない)。



エルヴィン・ロンメル Erwin Rommel(1891−1944)

”砂漠の狐”と呼ばれた将軍。第1次世界大戦では「プール・ル・メリット」勲章を受章している。37年に「歩兵の攻撃」を著し、この本がヒトラーの目に留まり取り立てられる。40年のフランス戦では装甲師団を指揮しその神出鬼没ぶりは「幽霊師団」と呼ばれ恐れられた。

1941年にはイタリア軍を救済するため北アフリカに派遣され,数的不利ながらも巧妙な戦術を駆使し次々と勝利を収め「砂漠の狐」と呼ばれるようになる。42年トブルクを陥落させその功により最年少で元帥に昇進した。同年7月にはアレクサンドリアへの最後の防衛線エル・アラメインまで到達するが,苦戦を強いられ、その上補給不足に陥りもはや攻勢に出られる戦力は無かった。イギリス軍は勢力を盛り返し、ロンメルは病気を患い本国に帰国する。以後北アフリカではドイツ軍は敗走を続け43年5月には降伏した。

病気を回復したロンメルは司令官として復帰するが、44年ノルマンディー戦線で連合軍機の銃撃を受け重傷を負う。同年7月20日にはヒトラー暗殺未遂事件が起こり、ロンメルは首謀者の一味であるとみなされ、服毒自殺を強要されそれを受け入れ死亡した。



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