建立者 半田三吉 僧名 戒弘(カイコウ) 生没年
慶応貳年~昭和貳拾年(1866~1945)
奈良県吉野郡洞川大峰山龍泉寺住職 羯磨真弘(カツマシンコウ)師に師事
戒弘氏所有の土地(大阪府南河内郡国分町片山百七十七番地)に私財を投入し親交のある旧大阪坂町住民多数(主に開信講・開信尼講)並びに片山村有志より寄進を募り建立
※補足 開信講並び開信尼講、河内國彼方村(現大阪府富田林市彼方)にある瀧谷不動明王寺の講社の一つであり瀧谷不動にある御瀧行場前に講の石碑を見る事ができる
現片山薬師堂北側公園のある場所には仮堂(庫裏)が存在し、住職家族が在住す(大正拾三年頃~昭和四十一年頃まで)
この御堂、薬師堂と称すも仮堂の時本尊薬師如来像盗難により所在不明となる。
現本尊は戒弘氏によって厨子に収められ秘仏となっており以後未開帳。
境内本堂前南側に並ぶ六つの礎石は戒弘氏が「南無阿弥陀仏」となぞらえて配置せるものなり
抑モ堂伽藍ハ距今一千二百ニ十七年前人皇第四十二代文武天皇ノ御代ニ建立セラレタルモノニシテ
觀音寺文殊院藥師堂ト稍セリ其後三百五十二年ヲ經タル天喜年辛卯年兵燹ニ罹リテ燒盡セリ
爾來其跡絶エタルモ近郷ノ庶民本尊ノ靈現顯カナルヲ景仰シ明治三十三年假堂ヲ建立セリ越エテ大正十二年修理ヲ加エ
翌十三年ニハ境内ニ埋没シタル昔時伽藍ノ基石ヲ發堀シテ堂前ニ据エ之ニ巨石ヲ配シテ六字ノ妙號ノ形トナシ
更ニ玉垣ヲ繞ラシテ面目ヲ一新セリ
當堂ニ於テハ天皇陛下寳祚廷長國體鞏固萬民豊樂父母師長六親眷屬乃至法界平等利益別シテ
當村ニ於ケル先祖代々各生靈ヲ弔ヒ併テ家内安全家業繁榮子孫長久ノ祈願ヲナセリ
上記の由来記は片山薬師堂に縁のある過去帳に大正十三年に記されたものである。
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昭和39年当時の片山薬師堂外観 本堂の後ろに庫裡の姿を見る事ができる |
本堂建立時記録 昭和四年
棟札
聖天中天 迦陵頻迦聲 大壇主大梵天王 住持戒弘建立
梵字(バン 大日如来)奉造立片山藥師堂 壹宇
哀愍衆生者 我等今敬禮 大願主帝釈天王
工匠 門谷重太郎 至田幸太郎 番匠 松下亀吉 尾野浅市
以下寄進者の名前あり
片山廃寺は北に大和川、西に石川をのぞむ玉手山丘陵北端に位置し、塔心礎の存在や屋瓦の散布により、古くから寺跡とされてきました。
昭和五七年四月の発掘調査によって、一辺の長さ11,7メートルの塔の基壇が確認されました。
凝灰岩切石を組み合わせた壇上積基壇で、一部瓦積みに補修され、南・西縁には階段も残っていました。
基壇の大きさから小型の五重塔と推定されます。
出土した軒瓦は飛鳥の藤原宮で使用されたものと同じ瓦型から作られたもので、塔の創建が七世紀末~八世紀初頭であったことがわかります。
一九八九年三月 柏原市教育委員会
境内説明書きより
片山にまつわる話にその昔みすぼらしい身なりの僧(弘法大師と伝えられる)が、
この地に立ち寄りし時、村人に水を求めた際其の風体を見て村人は断ったそうな。
それ以降片山の地に井戸を掘っても水の湧くことがなくなったと云う。
その後もこの地では水の確保に朝子供らが川まで水汲みに行くことが日課となっていたと聞く。
時代は流れ村長、地主たちは不便に思い村の二カ所に川よりポンプで水道を引く。
この事からも長く井戸に水が出なかった事がうかがえる。
片山の上薬師堂建立に際し半田戒弘氏の指示する場所を掘削すると井戸二カ所湧き出る。
この事により当時住民の間において戒弘氏が弘法大師の生まれ変わりであるとささやかれたらしい。
厳冬の頃「のうせんぎょ」と呼ばれる行事が行われていた
他の土地では稲荷信仰の一つとしてシャーマンによって狐おろしを行い狐の不都合などを聞き油揚げ、
赤飯二つ竹の皮に包み田や竹林、狐のすみかあたりに置いて帰る風習があるそうだが
薬師堂においては狐おろしの風習はなく野生の狐狸への布施を主としていたようだ。
ただ狐がお礼として現れ境内に足跡が多数残ると言う目撃談が今も残る。
ヤリ石と呼ばれる石が本堂外半鐘の下に置いて在ったが後に本堂内に移した
この石は叩くと良い音のすると伝えられる
毎年9月8日には薬師さんまつりと呼ばれる例祭が行われている。
村人(町人)が集まり護摩供養、数珠繰り(約畳十畳の大数珠を参加者全員で回す)などが行われる。
昭和三十年頃までは当日子供らが鉦吾(金属製の鳴り物)を打ち鳴らし、「やくしさんでじゅずくりでっせ」と言いながら村内を練り歩いていた。
その後練り歩きは無くなったが祭り自体は続いた。平成二十年までは実施されていたが二十一年度は行われていない。
尚 この大数珠の房玉に、大正十三年 片山薬師堂 住職 半田戒弘との文字が刻まれており
小玉にも当時の寄進者信徒の名を見る事ができる
沢田(現藤井寺市沢田)に住む植木職人が境内にある石(茶色で穴のあいた石)を自宅の縁側の踏石にしようと持ち帰る際、
途中道明寺辺りで体調不良にみまわれ慌てて住職(戒弘)に相談し石を返却し難をのがれたと言う話だ
現在も供養のためか境内南西に其の石が残る。
片山薬師堂の玉垣は他の寺社に見られる様な個人名や寄進額ではなく、
キリーク(阿弥陀如来梵字) ○○先祖代々や個人戒名が刻まれており、すべてではないが玉垣前に遺骨、遺髪が納められており、供養碑の意味を持つ
又、玉垣以外の石もその下に遺骨の納められたる物もあり粗末に扱う事ははばかられる
尚、新年を迎えるにあたり境内の玉垣一つ一つに松竹梅の枝を供え供養となし、とんど焼きも同時に行われていた。
平成22年2月7日
追記平成22年4月14日