建水分神社(たけみくまりじんじゃ) 




所在地 
大阪府南河内郡千早赤阪村水分357


祭神      〔中殿〕               天 御 中 主 神    (あめのみなかぬしのかみ・宇宙根源の元始神)
             〔左殿 ・右室〕     天  水  分  神      (あめのみくまりのかみ・天の水を施し分配する神)
             〔右殿 ・左室〕     国  水  分  神      (くにのみくまりのかみ・水を主宰する神)      
             〔左殿 ・左室〕     罔  象  女  神      (みつはのめのかみ・地の水を施し分配する神)       
             〔右殿 ・右室〕     瀬 織 津 媛 神    (せおりつひめのかみ・罪穢を祓い清める神) 


           摂社 南木神社
      楠木正成公(大楠公)

           末社 金峯神社
     天照大御神


建水分神社 御由緒 
 創建は第十代崇神天皇五年(西暦前92)で、同天皇の御宇天下饑疫にみまわれ、百姓農事を怠った時、
諸国に池溝を穿ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀せられた。

 延長五年(927)修撰の『延喜式-神名帳-』に「建水分神社」と記載(河内國・石川郡・官幣・小社)の式内社である。
また延喜元年(901)撰上の『日本三代実録』には叙位累進の記録が見える
(貞観五年(863)正五位下、貞観十六年(874)従四位下、元慶三年(879)従四位上が朝廷から授けられる)

 世々皇室の御崇敬極めて篤く、第九六代後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠木正成公に勅して、
元は山下にあった社殿を現地山上に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営させられ、延元二年(1337)神階正一位の極位を授け給うた。

 当社は霊峰金剛山の総鎮守で、古来より付近十八ヵ村の産土神であると共に、累代此地を本拠とした楠木氏の氏神でもある。
正成公は勅を奉じ征賊の軍を起こすに当たり、祈念厚く、「久方の天津朝廷(あまつみかど)の安かれと 祈るは國の水分の神」
と詠まれ、公の純忠のいかばかり神助を仰がれたかが推察される。

 また織田信長は河内国攻略に際し、当社領を悉く没収し社頭は一時衰退したが、
豊臣秀吉は再び田地を祈祷料として寄進し、深く崇敬するところとなり旧に復するを得た。

 尚、大鳥居の「正一位 水分大明神」の額は、後醍醐天皇宸筆と伝えられる木額(宝物)の表面が摩滅した為、
宝永二年(1705)、前大納言葉室頼孝卿がその聖筆をなぞり、金銅製にて模造したものである。

 明治六年、付近十八ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列し、明治四十年、神饌幣帛料供進社に指定せられ、
氏子区域内十七の神社を合祀し、大正二年、府社に昇格した。

 

南木神社 御由緒
 延元元年(1336)正成公が湊川で戦死されると後醍醐天皇その悼惜限りなく、翌二年(1337)御親らその像を刻ませ給い、
公と縁故深き当社境内に祀り、その忠誠を無窮に伝えしめ給うた。

 そして後醍醐天皇の皇子、第九七代後村上天皇より「南木明神(なぎみょうじん)」の神号を賜った。
「南木」とは「楠」を二つに分けたとも、『太平記』記述の後醍醐天皇の御夢によるものともいう。

 元禄十年(1697)領主の石川総茂も正成公を尊崇し、傾頽した社殿を再建した。
しかしこの社殿も昭和九年の大風害(室戸台風)により老木倒れて崩壊した。

 現社殿は昭和十五年官幣社建築に準じて設計再造営されたものである。
尚、社殿前の由緒標は陸軍大将荒木貞夫男爵の筆によるものである。


金峯神社 御由緒
 本社拝殿北脇に鎮座。由緒創建は詳らかでないが、皇室の御祖神であり、
日本人の総氏神でもある伊勢の神宮の御祭神、天照大御神を奉斎する。

                                 以上、建水分神社御略記より



本殿は全国でも類をみない様式で国宝にも指定されているが目にする事はできない。

 大鳥居は石造りとしては全国有数の規模とされる。

 狛犬は大きさ、姿形ともに趣がある。

 鐘楼内に、南河内最古とされる梵鐘があり石段中腹より上部を覗う事ができる。

 近在の神社を合祀した事もあり、境内には様式の異なる石燈籠も密かな見所と云える。

 手水舎の龍は石造りであり愛嬌のある姿形をしている。

 以前の表参道は緩やかな石段であったがスロープへと改修され境内に駐車場が増設されている。



以下合祀された御祭神(河南町誌より)


合祀場所  合祀神社    御祭神                      合祀前           明治以前      

左殿     桐山神社    国常立神                                      桐山
        白木神社    建速須佐之男神                           白木             牛頭天皇社
        奥谷神社    熊野大神、天水分神          芹生谷
        八幡神社    応神天皇、天照大神、田心媛神   川野辺
                  伊邪奈岐命、伊邪奈美命 
        厳島神社    市杵嶋姫神                  東板持
        森谷神社    建速須佐之男神              森屋
        八坂神社    建速須佐之男神              寺田             牛頭天皇社
        河内神社    神倭伊波礼比古大神         下河内
        加納神社    罔象女神                    加納             蔵王権現社
        立岩神社    天照大神、天兒屋根神        上河内           天照大神宮、熊野権現
                  八幡大神
        中神社      天兒屋根神、斉主神、思兼神    中村大字中
        馬谷神社    国常立神                    馬谷                      八社権現(神代八代)

右殿     別井神社    建速須佐之男神             南別井
        別井神社    建速須佐之男神             北別井
        水汲神社    天水分神、国水分神          寛弘寺           十八善神社(元禄頃)
                   伊邪奈美神、天照大神                                               牛頭天皇合祀
        弘川神社    国常立神、中筒男神          弘川 
                   伊邪奈岐神、伊邪奈美神
        八坂神社    建速須佐之男神             白木
        板茂神社    建速須佐之男神、大巳貴神     西板持

南木神社  多々羅神社  白山大神、伊邪奈美神        桐山神社境内     多々良ノ宮、琳聖太子(古代)
                  菊理比咩神                                                                白山権現(江戸)
        水分神社    水波乃売神、御井神、雷鳴神       河内神社境内
        住吉神社    中筒男神                    中神社境内    
        大神神社    大物主神                        〃
        天神神社    国常立神                        〃
        稲荷神社    稲荷神                          〃
        厳島神社    厳島神                          〃             弁財天
        稲荷社      稲荷神                          〃
        山王社       大山咋神                        〃
        若宮神社     事代主神、蛭兒神                〃







建水分神社私考

 現在と過去において祭神の異なりをみるが、下記資料にあるように日神月神は神仏習合のおり、
呉子孫子は軍略家としても知られる楠公との縁を考えれば自然なことである。
 特筆すべきは、明治一桁の頃には、神仏分離により神宮寺は廃されるのが常であったが、
明治二十六年発行の日本地名全辞書に神宮寺としての記述を見ることができる。
 この事例と現在まで梵鐘が残されている事からも、当時のこの地域の人々の信仰心の高さと
建水分神社が地域における心的支柱であった事が伺える。


 金峯神社についてだが明治以前は蔵王権現を後に金山彦命へと改める流れが一般的であると思われる。
 しかし当社においては天照大御神、近在に二社祀られていた金峯神社は罔象女神(元は蔵王権現社)、
広国押武金日命(安閑天皇)となっている。
 推論の域を出ない話であるが、金剛山を御神体とする神奈備信仰に始まり、
後に蔵王権現へと推移したものではなかろうか?(例として修験道の行場に白山信仰が根付くなど)
 故に金山彦命ではなくそのとき求められた神に改められたのではないかと愚考する。




以下参考資料

河内鑑名所記(江戸前期頃)
水分神社
神書ニ建水分神社と有 五柱中ハ水分明神 左ハ日神月神 右ハ呉子孫子也
鳥井ニ楠正行自筆の額あり
南木の明神の社あり 是ハ楠正成を神○○いはひ有由
宮寺ハ 十一面観音立像御長二尺一寸ぢやうてうの作也


日本地名全辞書(明治二十六年)
水分の神社
水分村、祭神五柱、中殿は水分明神、左は日神、月神。右は呉子、孫子。
鳥居の額の文字は楠木正成の書。●(一)[南木明神]楠木判官正成の霊を祭る。
(二)[宮寺]本尊一面観音、長二尺一寸、定朝の作


 

平成23年1月19日



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