大伴黒主神社 (おおとものくろぬしじんじゃ 大伴神社 黒主神社 大伴黒主御魂神社


  祭神     大伴黒主   
  
  摂社     牛瀧堂

 所在地   大阪府富田林市山中田町2-14-31山中田町会館付近

  由緒    文政9ごろ、大伴黒主夫婦の墓のある地を田地して開墾すると、
        黒蛇があらわれ後、大火災により村の半数が延焼する。
        此を大伴黒主の祟りと考えその南方の山に野廟を建立し、以後氏神として祀る。


        明治42年、美具久留御魂神社に合祀される。
        昭和32年、山中田有志五名の尽力により氏神として復社される。
        山中田住人宅に祀られていた牛瀧堂も、この時摂社として祀られる
        平成13年住宅開発に伴い社を移転現在に至る

        大伴黒主(おおとものくろぬし)は平安時代の歌人。
        生没年不詳、伝不詳。六歌仙の一。
        六歌仙の中で唯一小倉百人一首に撰ばれていない。


        牛瀧堂内には牛の形代があり農耕の神として祀られる

        
 
左-鳥居 中-大伴黒主神社 右-牛瀧堂             


 下 移転前の社(平成9年12月30日)                                      

左-大伴黒主神社 右-牛瀧堂


大伴黒主私考

黒主については「大伴」とするのは誤りで「大友」と表記するのが正しいとされる。
その根拠に、天忍日命
(アメノオシヒノミコト)を祖とする大伴氏は823年には淳和天皇(大伴親王)の名を避けて伴(とも)と氏を改める。

伴氏は鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職として残る(後においても伴を大伴に戻していない)。
此により同時代「大伴」氏は存在しない。原則的には存在しない。

よって滋賀県(大友黒主は近江の人の記述)において弘文天皇(大友皇子)─与多王(大友賜姓)の子孫あるいは地方豪族大友氏の末裔等の記述がある。

上記のことを根拠に書き間違いとする向きがあるも「大伴」表記が不敬にあたる時代「大伴黒主」と書き間違うとは考えがたく淳和天皇(大伴親王)の血族が臣籍降下し、大伴を名乗ったと考える事もできるのではないか。

 (補足 例外として大伴高多麿流大伴氏が十数代大伴姓のまま続くが高多麿は妾腹であり系図に記されていない事も多く四代後には畿内を離れている等々の事情もあるが、嫡流筋が皆、伴氏に改めている事から特殊な例と言える)


次に当地黒主神社についてだが、大伴黒主夫婦の塚を荒らした事による祟りを鎮める為であるが、
この塚が黒主夫妻の物である根拠を記す資料は残されていない。

そこで別の視点より考えるに近在の地に大伴氏の祖神である天忍日命を祭神とする降幡神社(天忍日命を祭神とする神社は少ない)があり、さらに「大伴」の地名も残る。この事から古代、大伴氏の支族がこの地方に住んでいたとされている。

近年神社の在った山を住宅開発に伴い発掘した結果、竪穴式住居跡や古墳20余基、勾玉などの副葬品が発掘される。
ゆえに当地は古代においては大伴氏の墓所として伝わっていたのではないか? 
その後時代が進み大伴の夫婦塚と六歌仙大伴黒主の説話が結びつき大伴黒主夫婦之塚と呼ばれたのではないかと思われる。





以下 「南河内郡東部教育会 郷土史の研究」の記述原文





黒主神社(廃社) 
大伴村大字山中田にありたる村社にして、大友黒主 を祭神とす。現今は喜志村にある美具久留御魂神社に合祀せらる。
伝説によるときは、今
(大正15年 西暦1926)より百年前(文政9年 西暦1826)山中田の村民一同東方なる大友黒主の墓を開墾して、田地となさんとせしが、工事中黒蛇出で山中田に逃げ入りたり。
此の歳山中田に大火災ありて殆んど村の半以上烏有に帰したり。村民これは黒主の霊の祟りならんとて、其の南方の山に野廟を建立し黒主の霊を祭て同村の氏神となせりといふ。



夫婦塚 
大伴村大字山中田東方の山林字宮山にあり山の中腹一畝歩位の所に高さ五尺位の塚南北に並びて二つあり。
其上部には蓋石の如きもの一部露出す




大伴黒主の墓 (俗に夫婦塚ともいふ。これは前項の夫婦塚と混同せるものならん。)
大伴村大字山中田の東方、南大伴との境にあり。
俗に大伴黒主の墓と称すれども、大日本史歌人列伝には「黒主は近江の人にして、世々大伴郷に居る、因りて氏となす。
郷は近江滋賀郡にあるを以て世々滋賀の黒主と称す。和歌を善くせり。故に後人祠を滋賀郡に建て祀り、黒主明神と称す。」とあれば、此の塚は同人葬りしにあらざるものゝ如し。

維新数年前迄は普通の田地なりしと云ふ、然るに其頃に至りて此の地を所持するものは必ず死亡すると云ふ迷説により、この地を寺院に寄附し、以て現今の形となせりと。

されば大伴黒主の墓といふ伝説は如何なる點より出でしにや、記録等一も徴すべきもの無し。
然れども中村大字寛弘寺の西方より大伴村にかゝる一帯の連山は、太古は墓地なりしか、数多の石棺現はれたり。
此の地も亦元田地なりし頃は時々古代の土器様のもの出でたりと云ふ。されば昔は何者かの塚なりしを開墾して田地となしたるものならん。




 
河内鑑名所の中に田畑の中に土を盛り上げた塚が二基並ぶ挿絵を見ることができる 


三才圖會(正徳2年 西暦1712)に「大伴黒主之塚、東條川西條川ノ二流於テ2大伴黒主塚ノ北ニ1成2一河ト1其東條川者出ヅ2石川郡森屋村ノ邊ヨリ1 江州志賀郡有2黒主ノ神祠1」と記せるは即ちこれなり。

以上 


平成22年2月 2日
追記 平成22年5月14日
追記 平成22年6月09日


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