壱須何神社 (いちすかじんじゃ 壹須何神社 一須何神社 一須賀神社) 

左一の鳥居 中龍神 右拝殿

所在地 大阪府南河内郡河南町一須賀六二八

祭神   大己貴命    (縁結び、病気平癒の神)
      天照大神    (国土安泰の神) 
      天兒屋根命  (産業繁栄の神)
      品陀別命    (開運厄除、家内安全の神)

降幡神社より合祀神
      天之忍日命      (軍神の神)
      日子番能迩迩芸命  (交通安全の神)
      日子穂穂手見命   (一家繁栄の神)
      鵜葺不合命      (安産の神)
      神倭伊波礼毘古命  (勝運の神)

東山菅原神社より合祀神
      天満大自在天神   (学業成就の神)

摂社  戎社

境内  一願不動尊


由緒  

 本地はもと石川郡に属し、当地方は古くは石川氏の居所であった。
当社の起源は詳らかではないが、恐らくは「渡会氏神名張考證」などにも説かれているように、
蘇我の本支族がその祖廟として、宗祖石川宿禰を祀ったものと思われる。延喜式内社に列し、
一に天神とも云う。大日本神祇志には「今俗云市河明神」とし、
河内名所図会は、「一須賀神社は一須賀村にあり延喜式内今天神と称す、
当村大ヶ塚村の産土神也、宮寺に十一面観音を安置す」とある。
これにより宮寺のあった事が窺われるが、盛衰は不明である。

 天正十七年伊賀守より、境内免許の御証文を下され、後慶長十三年片桐市正の検地の節、
宮山の内、開作の地の分御竿入高一石三斗五升六合、先年の旨を以って、右の高免除され、
天正十七年豊臣秀吉、其の臣伊藤秀盛をして、当社の祈祷と境内免許の証を下された。
その時祈祷のため伊藤秀盛の奉納した湯釜は今も社宝として保存している。

 明治五年村社に列し、同十年九月十九日大字東山字上条の村社菅原神社を、  
同年十一月二十八日大字南大伴字宮の前の村社降幡神社を合祀した。
    
 老樫が境域をおおい、本殿は春日造りで桧皮葺きである。
又この地方は楠正成の時代に石川源氏の拠る所であって、
この神域もその当寺城塞の一部分として利用されたようである。




 神木かやの木(樹齢千年) 

一の鳥居横の大木は神木とされている。
5,60年前には根本の穴が狸の巣穴とされていたそうだ

他にも、けやきの木(樹齢千年)が境内に存在する。



 境内の石柱(上写真中央)

龍神を祀るとされる。


 
 
拝殿左手梅の木の横にある社

かがり台開発(平成13年前後)により 大伴黒主神社が移転する際 一時仮社として御魂を迎える

現在 古札の回収箱として利用される





「南河内郡東部教育会郷土史の研究」の記述

壹須何神社 

 和漢三才図会目録に「天神宮は一須賀村にあり、祭神管家、有寺本尊十一面観世音」とあり。河内名所図会に「一須何神社は一須何村にあり、延喜式内天神と称す。

当村大ヶ塚村の産土神也宮寺に十一面観音を安置す」と。

又大ヶ塚由来記に「元禄五年の検べに除地にして天信天神、春日大明神、天照大神、正八幡を祀る。

境内東西三拾一間半、南北四拾九間社は梁行五尺五寸、桁行四尺五寸、玉垣高さ四尺一寸、但二方拝殿梁行一間三尺四寸、桁行三間七寸五分、鳥居高さ一間四尺五寸、横一間二尺二寸、但石材、神主四人にして一ヶ年代り相勤め申候。

右の社住古より有來観請年暦並に神主歴代相知申さず候。

天正十七年伊藤加賀守殿より境内免許の御證文下されおき、後慶長十三年片桐市正殿御検地の節、宮山の内開作の地の分御竿入高一石三斗五升六合、御地誥被成候へ共、先年の旨を以て右の高免除され候に付、境内の内にて御供料収納仕り難有奉存候」とあり。

現在大己貴命、天照大神、天兒屋根命、品陀別命を祀り、一に天神と称す、創立年月日、神社建築物の変遷等不詳 明治五年村社に列せられ、明治四十年九月十九日に大字東山字上條の村社菅原神社を、同年十一月同村大字山城なる降幡神社を合祀す。

氏地は石川村全部及び大伴村大字南北両大伴にして、毎年十月十七日各字より地車を集め、盛んなる祭をなす。境内敷地千四百八十坪にして社殿(梁行一間八分、桁行二間)拝殿(梁行二間桁行五間)太鼓堂(梁行九間桁行一間七分)社務所(梁行三間桁行五間)あり。

社宝として湯釜あり天正十七年三月十一日豊臣秀吉、共の臣伊藤加賀守をして当社に祈祷せしめし時、加賀守の奉納したるものなりと。




平成22年3月24日



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