降幡神社 (ふるはたじんじゃ 降旗神社 古畑神社) 



所在地 大阪府南河内郡河南町山城747-15  山城地区老人集会所付近

祭神   天之忍日命      (大伴氏の祖神・天孫降臨時の前衛を務めた一柱)
      日子番能迩迩芸命  (天照大神の孫)
      日子穂穂手見命   (神武天皇の祖父)
      鵜葺不合命      (神武天皇の父)
      神倭伊波礼毘古命  (神武天皇)


由緒  「降幡神社跡
     大伴氏の祖神天忍日命
(あまのおしひのみこと)をまつる由緒ある神社であったが、
     明治の末、一須賀神社に合祀された。
     古代この地方に住んでいた大伴氏の氏族が、その祖神をまつったのであろう」
                                     境内の案内より


     社地は山城の南方一丘南大伴字宮の前にあり創建の年月は不詳である。
     姓氏録末定雑姓河内の部に「大伴連」とある。
     祭神に大伴氏の祖天忍穂耳命 天之忍日命 を祀っている事より、
     大伴氏との関係が窺われるが、明らかでない。
     明治初年村社に列したが、同四十年壱須賀神社に合祀されたが後に、
     元の地に鎮座した。
                                     大阪府神社名鑑より
                                               
      (補足 原文のまま記しているが誤った記述部分には訂正を加えさせて戴いた)




昭和三十一年十一月四日北大伴住人三嶋氏の遺言により降幡神社復興されるとする内容の記念碑が境内に存在する

境内北東位置にある玉垣に古畑神社昭和八年八月とあり元に存在した社標あるいは神社跡の石碑を再利用したものと思われる

大きさから見て樹齢壱千年以上と思われる楠が境内に存在する

廃社以前のものと思われる礎石を見ることができる

本社以外に三社造りの神棚を利用した社が存在しこちらに天之忍日命以外の日向三代並びに神武帝が祀られているのではないかと思われる(推察)

降幡神社私考

下記の郷土史(大正15年)によると、その昔、天忍穂耳尊がこの地にて暫し休息された時に幡を下賜され其の幡をお祀りした。
この伝説が降幡神社と云う名の語源であると読み解く事ができる。

一点気になるのは三代実録等古い文献では天押日命
(天之忍日命)が主祭神であることが伺えるが、
近年の文献では天忍穂耳尊が主であり天之忍日命の名を観ることはできない。
天忍穂耳尊は天孫降臨以前の神(人物)であり古事記の流れからも違和感を覚え、
かつ地名の大伴から考えても天之忍日命であることが自然であるように思われ
近年の文献は
アメノオシヒノミコトと、アメノオシホミミノミコトと云うように音で聞くとよく似通っていることからの誤りではないかと思われる。
   
 (上記由緒にも同様の点で触れている)




「南河内郡東部教育会郷土史の研究」の記述

降幡神社(廢社)
石川村大字山城にありし村社にして、大伴村大字南大伴、及北大伴の兩村の氏神たり。
現今は石川村大ヶ塚一須賀神社に合祀せられ、天忍穂耳命、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊、神武天皇、を祭神となす。
傳説に依る時は、太古天忍穂耳尊この地にて暫し休息せられし時この幡を降し給ひしを以て此の幡を祀りたり。其の後今の降幡神社の地に祭りて、南北大伴の氏神となせりと。(古老の言)


河内誌に「降幡神社、神位、貞觀十五年十二月授2天押日命神従五位下1。河内國石川郡大箇塚村、近隣四村共2祭祀1。」とあり。
又「天押日命神社、神位、貞觀十五年十二月二十日河内國正六位上天押日命神従五位上」とあり。




河内名所図会に降幡神祠との記述あり内容は上記同様、貞觀十五年何々と云うもの

河内鑑名所記に山城村降幡大明神との記述あり

神位等の記述は三代実録(901年)に記されたものに由来





平成22年6月13日



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