半七捕物帳 作品紹介 (その一)
〈あらすじ〉少年時代のある晩秋の日、私は「Kのおじさん」という父や叔父の知り合いに、「おふみの一件」と言われる怪談の真相を聞いた。
元治元年(1864)の三月半ば、番町に住む旗本松村彦太郎の家に、妹のお道が三歳の娘お春を連れて帰ってきた。お道は小石川の旗本小幡伊織の家に嫁いでいたが、夜毎その枕もとに散らし髪、びしょぬれの女が現れ、一緒に寝ている娘のお春までが「ふみが来た!」と叫ぶというのだ。半信半疑の松村・小幡の眼前で、またもお春は「ふみが来た!」と悲鳴を上げた。この一件に首を突っ込んだKのおじさんが、神田の岡っ引半七に相談を持ちかけると、半七は二・三の質問でたちどころに真相を看破するのであった。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
元治元年は、京都で蛤御門の変のあった年です。長州藩が四ヶ国連合艦隊に砲台を占領されたのもこの年でした。将軍様のお膝元である江戸でさえ、尊皇攘夷派の武士による辻斬りなどが起こっていました。しかし、半七捕物帳の文章で見る限り、それほど物騒な様子も見られません。半七は男盛りの四十二歳、厄年でもあります。
半七捕物帳の特徴の一つとして、実際に十手・取り縄を使ったアクションが少ない点です。これは他の捕物帳の岡っ引、さらには時代劇の一般的な岡っ引と違うところでしょう。この第一作でも、半七は犯人を捕えるというより、新たな犯罪の発生を予測し、秘密のうちに未然に防いでいます。なお、作品中半七が「‥‥延命院の二の舞で、‥‥」と説明する部分がありますが、この『延命院』とは東京都荒川区西日暮里に現存する寺で、十一代将軍家斉の時(1803)に、住職の日潤が祈祷と称して江戸城の奥女中と密通していたことが発覚して、死罪になった事件を指しています。
また、半七捕物帳では料理屋・蕎麦屋・茶屋などでの飲食場面がよく出てきますが、この作品では、下谷の寺でKのおじさんともども「念の入った精進料理」の馳走にあずかります。
この作品の終わりの部分には、「‥‥江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった。」という一文が出てきます。『お文の魂』が講談倶楽部に掲載されたのは1917年のことですが、この年にはまだドイルは陸続とホームズ物を発表しつづけていました。当時すでに世界的に盛名だったホームズになぞらえたのは、半七シリーズに相当の抱負と自信を持っていること、そして長く書きついで行こうという岡本綺堂の決意の現れでしょう。
〈あらすじ〉天保十二年(1841)の十二月初め、日本橋の小間物屋「菊村」の番頭清次郎が、暗い顔をして横町から出てきた。半七が声をかけると、「菊村」の娘お菊が昨日浅草観音に参詣に行ったまま帰らないという。奇妙なことに、次の日の夕方ふらりと店にお菊が戻ってきて、再びどこかへ消えてしまった。仲働きのお竹を問い詰めて、お菊と清次郎がその日浅草で忍び逢っていることを聞き出した半七。再びお菊が店に現れると、今度は母である女主人お寅が刺し殺される。お菊は自分の母親を殺して逐電したのか? 現場を丹念に調べる若き日の半七が気付いたものは?
半七が売り出すきっかけになった、十九歳の時の事件です。時代の設定は、水野忠邦による天保の改革の年の年末になっています。しかし、作品中に改革の影響は見られず、むしろ、「現代の浅草公園第六区を更に不秩序に、更に幾倍も混雑させたような」と描写される両国の広小路の賑いが印象的です。
第一作に引き続いて、半七の生まれ・育ちや江戸時代の警察制度の解説を含んでおり、初めの二作だけで半七について一通りのことは分かるように書いてあります。また、第一作がちょっとした訊き込みだけで解決するのに対して、この作品では半七自体が若いせいもあるでしょうが、現場の詳細な観察から推理を働かせて行く点、また変装による誤認トリック(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)を使っている点など、シリーズにヴァラエティを持たせようとする綺堂の工夫がうかがえます。
〈あらすじ〉安政五年(1858)の年の暮のある朝、半七の妹お粂が常盤津の師匠文字清を半七の家に連れてきた。去る十九日の晩、京橋の和泉屋で素人芝居忠臣蔵六段目の最中、早野勘平役を務めた和泉屋の息子角太郎が腹を切る場面で、舞台用の刀が本身の刀とすり替えられており、深手を負った挙げ句死んでしまったのである。文字清は「角太郎は実は私の子。刀をすり替えたのは今の和泉屋のおかみ」と主張するのだが‥‥。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
安政五年(半七は三十六歳です。)は史実上はたいへん難儀な年でした。二月には日本橋から佃島まで大火、八〜九月にかけては暴瀉病(ぼうしゃびょう=コレラ)の流行で二万八千人余りが死亡、この中には歌川(安藤)広重・山東京山など著名人の犠牲者も含まれます。さらに十一月には、赤坂・麻布・神田・日本橋などを焼く大火が発生しています。
話の内容としては、素人芝居とはいえ綺堂得意の芝居ネタです。この作品では、半七が鰻屋の二階で酒を飲む場面が出てきます。酒にあまり強くない(ように見せただけかもしれませんが)半七が、酔ったふりをして管を巻き、すさまじい磔(はりつけ)の講釈をしますが、それが人情味溢れる解決策にもなっているところは、よくまとまっています。
〈あらすじ〉文久三年(1863)の正月六日、湯屋(ゆうや)を経営している手先の熊蔵が、半七の家に顔を出した。自分の湯屋に毎日毎日、それこそ大晦日も元日も、二人連れの武士が来るのだと言う。彼らは偽侍で,夜盗や押し借りに変身するのではないか? 翌日湯屋を訪れた半七が、謎の侍の入浴中に預けてある荷物の中身を改めると‥‥何年経ったか分からないほど古い、人間の干し首が現れた!
文久三年は半七四十一歳。尊王攘夷運動が激化している時期で、対外的には前年の生麦事件の後始末に苦しみ、七月にはイギリス船によって鹿児島が砲撃されます。その一方で、「攘夷のため、夷狄(いてき)征伐のため軍用金を出せ!」と言って町家を脅して歩く浪人組も、翌年にかけて盛んに跳梁していました。そんな時代背景がプロットとうまく結びついています。
正月のおめでたい気分の中で、種を割ってしまえば「何だこりゃ?」という、半七には珍しい見込み違いです。しかしそんな中でも、「武士は重い大小を左腰に差しているから、左足が発達する。」という、シャーロック・ホームズ流の鋭い観察眼を見せています。
〈あらすじ〉嘉永七年(1854)七月の十日、酸漿市で知られる浅草観音の四万六千日の朝、下谷御成道の長屋で踊りの師匠水木歌女寿が蛇に巻き殺されていた。歌女寿は姪の歌女代を養女にして芸を仕込んでいたが、体の弱い歌女代が旦那取りを嫌がったのを根に持ってこき使い、一年前に病死させていた。その歌女代の幽霊の噂から「お化け師匠」と呼ばれるようになった歌女寿、ちょうど若師匠の一周忌に‥‥人々はとうとうお化け師匠が呪い殺されたと囁きあうが、半七の眼は事件の裏面をしっかり見抜いていた。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
嘉永七年は十一月に安政と改元されました。半七は三十二歳です。安政大地震の前年、この年の三月には日米和親条約が調印され、二百十年あまりの鎖国の夢から覚めた年です。政治の安定を願う『安政』改元ですが、打ち続く事件に「こんなことなら変ええ(=嘉永)でもいい」と囃された多難な時期でした。
この作品では、1−2『石燈籠』に見られる現場の証拠への鋭い観察と、1−3『勘平の死』に見られる人間関係への濃やかな着眼が、事件の解決に大いに役立っています。またシリーズ中はじめて、実際に十手を構えての捕物場面が見られます。次作『半鐘の怪』と並んで、いかにも捕物帳らしい、第一巻前半を代表する力作であると思います。
なお四万六千日は、現在の暦では八月の半ば、立秋は過ぎているものの、落語『船徳』では「‥‥四万六千日、お暑い盛りでございます‥‥」と語られるように、残暑の厳しい時候です。しかし、江戸の昔は現在のようなヒートアイランド現象などなかったのでしょう。「土用が明けてまだ間もない秋の朝日はきらきらと大溝の水に映って、大きい麦藁とんぼが半七の鼻さきを掠めて低い練塀のなかへ流れるようについと飛び込んだ。」思わずたくさん引用してしまうさわやかさ。この季節感も本話の魅力です。
また半七の推理の核になる「池鯉鮒の護符」ですが、三河の国池鯉鮒(現在の愛知県知立市)は往時の東海道五十三次の宿場の一つで、知立神社は三河の国二の宮に相当する由緒ある神社です。現在でも知立市を代表する神社として、多くの人の参拝を受けています。
〈あらすじ〉ある年の晩秋から初冬にかけて、江戸のとある下町で奇妙な事件が起こった。火事でもないのに町内の半鐘を鳴らす者があるのだ。火の見櫓を警戒するようになると、今度は若い女の傘の上に何者かが圧し掛かったり、洗濯物を引っかぶって屋根を走ったり、町内は大騒ぎ。鍛冶屋の弟子の権太郎が、悪戯の犯人と決め付けられて自身番に捕えられたが、まさにその夜、久方ぶりに半鐘が鳴った。権太郎でなければ、狐狸妖怪の類の仕業か? 町内は震え上がった。その後も頻々と続く怪事件、半七の読みはいかに?〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
この作品は、半七捕物帳68編(『白蝶怪』を含めれば69編)の中でただ一つ、事件発生の年が書かれていません。文章中に「十一月はじめの時雨れかかった日で、‥‥」「ほかに手放すことのできない用を抱えていたので、二、三日という約束が四、五日に延びて、半七はその町内へ足を向けることが出来なかった。」とありますから(事件解決は十一月八日)、十一月の初頭に起こった他の事件が分かれば良いのですが、残念ながら該当するものはなく、発生年を確定することができません。
以下は初稿アップ後に気づいたことです。筑摩書房版の解説(光文社文庫版の年表も同じ)では、『半鐘の怪』は安政年間のできごととなっていますが、2−5『お照の父』(これは慶応元年(1865)のできごと)の中では、この事件のことを「‥‥実例は、彼の記憶にまだ新しく残っている。」と回想しています。次話2−6『向島の寮』(こちらは慶応二年(1866)のできごと)には、再び「半七はまだ耳新しく記憶していた。」というフレーズが出てきますが、こちらはわずか一か月前のできごとです。しかも「記憶に新しい」という書き方の例は、半七物中、この二ヵ所だけです。としてみると、言葉の使い方の面からいえば、この『半鐘の怪』は五年も前の安政末年より、やや下る文久・元治ころのことではないかと思いますが‥‥。皆様のご叱正をいただければと存じます。
この作品もまた、半七の観察眼の鋭さがポイントです。人間心理の洞察をよく読んで人情味溢れる解決をするところは、いかにも捕物帳にありそうですが、現場の半鐘の梯子の観察から解決の糸口を得る点は、半七(=綺堂)ならではでしょう。推理小説的な面から見れば、権太郎が捕まっているときの半鐘が偶然なのは惜しいですが、猿が犯人の里程標的作品『モルグ街の殺人』(ポー)や、猿と人間の行動が重なったために錯綜する『百万長者ベイビーブレイク誘拐』(フットレル)などの(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)先行する作品に伍する佳作だと思います。最後の「猿の遠島」のユーモアは格別です。
冒頭の四谷の初酉から始まって、神田明神の祭(現在は五月ですが、かつては九月に行われていたそうです。)、八里半の行燈(九里=栗に近いという洒落で、焼き芋屋のことです。)、お会式(十月十二・十三日の両日、日蓮上人の忌日)、鞴(ふいご)祭(十一月八日に鍛冶屋などが一日鞴を休めて清めます。江戸ではこの日鍛冶屋が道にみかんを撒いて子供に拾わせました。)と、晩秋から初冬にかけての季節感も横溢しています。
〈あらすじ〉文久二年(1862)年八月十四日の夕方、茶店を営むお亀が娘のお蝶のことで相談があると、半七を訪れた。お蝶が武士や奥女中にかどわかされ、ときどき影を隠すというのである。お蝶の話では、どことも知れぬ武家屋敷で美しい着物を着て座っているだけ、しかし時に正体の分からぬ何者かが娘の様子を見に来るのだ。恐ろしさに震えたお蝶が泣いて頼んだので、前の二度は十両の礼金と共に返してくれたが、三度目の今回は二百両の金でお蝶を貰い受けたいと、奥女中が懇願してきたという話に、さすがの半七も思案投げ首であったが‥‥。翌晩現れた奥女中に、半七が取った意外な態度は?〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
文久二年は、有名な生麦事件(薩摩藩士が横浜近郊で英人商人を殺傷、翌年英軍艦が鹿児島を砲撃した薩英戦争の原因になる。)や、英公使館焼き討ち事件(高杉晋作らが品川に建設中の英公使館を襲撃、全焼させた。)など、過激な攘夷運動が発生した年です。また、皇女和宮が十四代将軍家茂(いえもち)の妻として降嫁した年でもあります。いよいよ幕末の動乱期が始まったといえるでしょう。
この事件も、文久の幕政改革という歴史を背景にして成立しています。この改革では、後に十五代将軍となる一橋慶喜が将軍後見職に任ぜられましたが、特筆すべきは参勤交代を三年に一回に改め、人質の意味から江戸に住むと決められていた大名の妻子に自由に帰国させる、という思い切った政策です。これが事件の原因の一つになっていることがラストで明らかにされ、作品に奥行きを与えています。
この作品は、「娘の身代わりを良く似た他人に勤めさせる」(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)という状況から、ドイルのホームズもの『ぶな屋敷』を想起させます。事実、『奥女中』のヤマ場で半七が言う「御女中の小指に撥胝(ばちだこ)があるようでは‥‥」云々のセリフは、『ぶな屋敷』のイントロ部分でのホームズのセリフ「左手の親指を見て植字工と悟らないくらい不注意な‥‥」云々を意識しているとしか思えません。とはいえ単なる翻案に留まらないプロットの組み立ては綺堂の腕の冴えを感じさせますし、冒頭の「きりぎりすが一番江戸らしい」とか、新旧の暦による八月十五夜の気温の違いなど、半七物ならではの味わいがあります。
〈あらすじ〉帯取りの池‥‥池に美しい帯が浮いているのを見つけて取ろうとすると、たちまち巻き取られて飲み込まれる‥‥。そんな伝説を持つ市ヶ谷にある池に、安政六年(1859)三月初めのある朝、派手な女物の帯が浮かんでいた。はじめは盗賊が捨てたとかと思われたが、帯の持ち主おみよが死んでいたことが判明。何者かがおみよを絞め殺して、帯だけを解いて池に投げ込んだのか? 半七は、おみよを囲っていた旗本を調べに雑司が谷を訪れたが、尋ね人の願掛けに鬼子母神に参詣していた清元の師匠と偶然出会ったことから、意外な事実が明らかになっていく。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
安政六年は、史上名高い『安政の大獄』の年です。前年の日米修好通商条約の勅許についての幕府の対応を批判したり、将軍継嗣問題で一橋慶喜(後の十五代将軍)を推したりした大名・公家・その家臣らが、大老井伊直弼の命によって厳しく罰せられました。大名・公家らに対しては隠居・落飾(出家)が命ぜられ、京都などで捕えられたその家臣らは、前年暮れからこの年の初め、まさにこの事件が発生したころに江戸へ送られました。秋には、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら、行きていれば時代を担ったはずの若い俊英達が処刑されました。しかし、この作品にはそうした時期の緊張感はうかがえません。
半七は三十七歳。この作品では松吉とともに探索の任に当たります。事件解決のきっかけとなる清元の師匠との遭遇が偶然に頼りすぎ、「自殺遺体に手を加えたので、他殺のように見える」(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)という設定は、帯取り伝説に結びつけるためとはいえ、多少不自然です。しかし、あえて途中でネタを割った上で、事件のカギを握る重要参考人の隠れ場所を推理する半七の手並みは、隠れ場所の意外さ共々、時代の特徴を良く生かして鮮やかです。
なお文中の鬼子母神は、東京都豊島区雑司が谷三丁目にあり、現在も多くの参拝客を集めています。本文中に名物として出てくる「すすきのみみずく」も、元禄年間創業の駄菓子屋(!)川口屋で売られ続けています。
〈あらすじ〉慶応元年(1865)の正月末、雪のちらつく入谷田圃を急ぐ半七は、風雅な建物の門前で、按摩を呼び込もうとする女とそれを振り切ろうとする按摩を見かけた。芝居さながらの光景が印象に残った半七は、数日後また同じ場面に遭遇、按摩に声をかけて事情を聞く。按摩の徳寿の話によれば、そこは吉原の辰伊勢の寮で、花魁の誰袖(たがそで)が出養生しているのだが、なぜかそこにはいるとからだ中がぞっとするのだと言う。興味を感じた半七が調べるうち、誰袖の生まれた金杉で若い辻占売りが行方不明になっていることが判明。再び出会った徳寿から半七が聞き出した事実は?〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
多事多難な幕末のうち、事件が発生した慶応元年は嵐の前の静けさのような年です。強いて言えば、諸外国の圧迫のうちに、とうとう条約が勅許されたことが、最大のニュースでしょう。この作品中でも世情にはほとんど触れられず、わずかに10年前の安政の大地震で多くの遊女が犠牲になったことが語られるだけです。半七は四十三歳です。
この作品の眼目は、冒頭半七が「あなたはお芝居が好きだから、河内山の狂言を御存知でしょう。‥‥」と語り始めるように、綺堂のホームグラウンド、芝居を背景にした点でしょう。『河内山の狂言』とは河竹黙阿弥(1816-93)作『天衣紛上野初花』(くもにまごううえののはつはな)のことで、有名な『雪暮夜入谷畦道』(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)‥‥雪の降る寂しい夜、御尋ね者の御家人片岡直次郎(通称直侍)が、恋の病に倒れた恋人三千歳(みちとせ)に会いに行く場面‥‥が下敷きになっています。按摩が出てきたり、蕎麦屋で粋な直次郎と野暮な目明しが会ったりと、まさにこの作品と重なるシチュエーションが続出します。とはいえ、なまじ芝居の筋を知っていると、恋の病に倒れた三千歳にあたる誰袖が殺人者だったとは思わないはずで、(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)一種の芝居ネタのトリックと言えるでしょう。ちなみに、蕎麦屋で徳寿が食べる『あられそば』は、青柳の貝柱(いわゆる「小柱」)を冬の空から降ってくるあられに見立てて、新鮮な小柱を生のまま海苔の上にのせた、江戸の冬を代表するそばだそうです。 おいしそうですね。綺堂も好きだったのでしょうか。
この作品のもう一つのポイントは、「床下に死体が埋めてあるのを、超自然的な(?)勘で感じ取った。」(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)という怪異性です。江戸時代という背景のため、半七物には『猫騒動』(第1巻)や『津の國屋』(第2巻)のような怪異・怪談物が多数ありますが、多くは合理的な解決や、科学的にこじつける解釈で作品を終えています。この作品はあえて理を追求せず、含みを持たせた結末にしている点で、やや異色です。久生十蘭の名作掌編『昆虫図』は、この作品をヒントにしているのかもしれません。
※ 葉桜どきの昼下がり、浅草から向島まで隅田川沿いを歩きながら、半七老人が聞き手の青年に、界隈の昔の事件を語るという趣向の作品で、二つの独立した物語からなっています。
(1)『広重』編
〈あらすじ〉安政五年(1858)正月十七日の朝、浅草袖摺稲荷そばの旗本黒沼家の大屋根の上に、三、四歳くらいの女の子の死骸が横たわっているのが発見された。身許は不明、屋敷内の者にも全く心当たりがなく、結局八丁堀にもその詮議が依頼される。同心の命を受けた半七は、子分の庄太を意外な場所へと誘う。「十万坪まで附き合わねえか?」遠く深川の向こう、砂村新田の稲荷社まで、半七は一体何をしにいこうというのか?〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
安政五年については1−3『勘平の死』で述べた通りで、半七三十六歳の事件です。手がかり皆無の事件ですが、さすが同心に「‥‥こういう仕事はお前にかぎる。おだてるんじゃねえが‥‥誰でも好いというわけにも行かねえ‥‥」と言われるだけあって、あっさり子供の身許を明らかにしてしまいます。(あまりにも都合の良い設定には、ツッコミを入れたくなりますが‥‥)結局は「鷲にさらわれた女の子が、たまたま屋根の上に落とされて死んでしまった。」という事故(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)だったわけですが、この作品は、綺堂がどのようなところに作品の題材を求めていたかがうかがえる点で、大変興味深いものがあります。
まず、死骸のあった場所については、大田南畝(1749〜1823 蜀山人という名のほうが有名です。)の『半日閑話』中の「屋根に溺死人落つ」に、1800年浅草の某屋敷の屋根の上に見知らぬ溺死人が載っていたという事件が記されており、これにヒントを得たようです。(この話は、『座敷浪人の壷蔵』を運営されている座敷浪人さんにご教示いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。)また、ミステリファンなら、死骸を落とすという発想に、ドイルのホームズ物『ブルース・パティントン設計書』を想起されるかもしれません。
「鷲が子供をさらう」(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)テーマは、古くは『今昔物語集』にも見られます。(巻二十六第一) 綺堂が『今昔』を読んでいたかどうか、直接は知りません(^_^;)。しかし、新潮日本古典集成『今昔物語集』の頭注(第三巻221ページ)に「岡本綺堂説によれば」という記載があるので、たぶんどこかに綺堂が『今昔』や『宇治拾遺』について述べた文章があるはずです。半七登場の前年、大正五年(1916)には芥川竜之介が『鼻』や『芋粥』を発表し、この頃今昔物語集などの再評価が進んだことから考えても、綺堂はまちがいなく『今昔』を読んでいたことと思われます。
しかしこの短い物語の一番の典拠(?)になったのは、作品中でも半七の推理の契機になっている、歌川(安藤)広重の『名所江戸百景』中の一作「深川洲崎十万坪」です。(画像リンク先は東海銀行のホームページです。勝手にリンクをはらせてもらいました。不都合ならば管理人までメールして下さい。m(__)m)広重晩年の傑作『名所江戸百景』を代表する作品の大胆な構図が、綺堂のイメージを膨らませたことは疑いありません。題名に『広重』を入れただけでなく、事件発生の年が実は広重の没年であることは、綺堂が意図的にしたことでしょう。
このような背景を知った上で読み返すと、一見淡彩のスケッチのようなあっさりした物語に、俄然深い奥行きが出てくるような気がします。これも『半七捕物帳』の魅力の一つであると、私は思っています。
(2)『河獺』編
〈あらすじ〉弘化四年(1847)九月の秋雨の降る夜、本所中の郷の荒物屋に血だらけで転げ込んで来た男がいた。暗い中で突然傘の上から何かが襲ってきたというのだ。荒物屋の亭主は河獺の仕業だと言って、彼を介抱してやった。翌日、下谷の道具屋の隠居十右衛門から、中の郷の川っぺりで何者かに襲われ、五十両入りの財布を奪われたという届け出。十右衛門は、自分が囲っているお元の従弟と称する政吉が、河獺の仕業に見せかけて自分を襲ったのではないかと半七にほのめかす‥‥。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
弘化四年は半七二十五歳。かなり早い時期を扱った作品になります。歴史的には、善光寺地震(信濃〜越後)で、八千六百人余りの死者が出た年です。江戸では今一つ目立った事件がなく、強いていえば徳川斉昭の子昭致(後の慶喜)が、若干十一歳で一橋家を継いだことでしょうか。
この作品でびっくりするのは、江戸のあちこちに河獺が生息していたことです。半七の言葉から引用しますと「‥‥東京になってからひどく減ったものは、狐狸や河獺ですね。‥‥河獺もこの頃では滅多に見られなくなってしまいました。‥‥以前は少し大きい溝川のようなところにはきっと河獺が棲んでいたもので、‥‥河童がどうのこうのというのは大抵この河獺の奴のいたずらですよ。‥‥」という具合。それが明治時代ですらめったに見られないものになり、現在では特別天然記念物。豊かな生活と引き換えに、日本人は一体どれだけ多くの自然を失ってしまったのでしょう?
推理小説的には、推理のための材料が読者にきちんと提示されていて、考える楽しみのある小説に仕上がっています。十右衛門が口止め料を渡した荒物屋を探り出し、十右衛門の顔色から真相を推量する半七の思考はなかなかのもの。その後で財布を首にかけた河獺を持ち出して実は河獺の仕業だった(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)という結末も、意表を突いて読者を驚かせるに足ります。
なお、この作品で、半七の女房お仙は明治二十年代には亡くなっていて、その墓が橋場(東京都台東区)にあることがわかります。
〈あらすじ〉安政三年(1856)十一月十六日の朝、八丁堀同心槇原の屋敷に呼ばれた半七は、裏四番町の旗本杉野家の用人中島から内密に相談を受けた。八日前、お茶の水の聖堂で行われる素読吟味(旗本御家人の子弟対象の儒学の試験)のため、早朝家を出た杉野家の嫡男大三郎が、付き添いの中小姓が草履の緒をすげ替えるわずかな間に、姿を消してしまったというのだ。とかく入り組んだ事情のある旗本屋敷のこと、直接杉野家の様子を探ろうとした半七は、失踪の際に付き添っていた中小姓山崎の素っ気無い態度に、疑問を感じる。『朝顔屋敷』という怪談の伝えられる杉野家には、いったい何が隠されているのか?〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
安政三年は半七三十四歳、脂の乗り切った時期の事件です。歴史的に見れば、後に日米修好通商条約の一方の当事者となるアメリカ総領事ハリス(いわゆる『唐人お吉』伝説で有名)が下田に着任した年、また岡山では被差別身分の農民達が、藩の差別強化策に反対して一揆を起こし、終にそれを撤回させた『渋染一揆』の年でもあります。
この作品は、一読しただけではアンフェアな印象を受けるかもしれません。大三郎が行方不明になったときの顛末が実は全くの作り話であるのに、本当にあったことのように記述されている(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)からです。しかし再読してみると、用人の中島から聞いた話であることが明記されており、これが一種の叙述トリックであったことがわかります。「トラブルを避けるため、子供を行方不明にしてしまう。」という発想は、後の第五巻『河豚太鼓』でも再度使われており、当時は珍しくなかったのかもしれません。
また、この作品のもう一つ興味深い点として、旗本階級のさまざまな制度・習慣などがわかることがあげられるでしょう。素読吟味もそうですが、中小姓や中間など旗本屋敷に雇われている人々や、そこに出入りする提重の女たちの生態、大身の旗本の子と小身の御家人の子の仲が悪い点など。百二十石取りの御家人(ということは小身の烏賊(イカ)組になります。)の家に生まれた綺堂のことですから、自身の父親や叔父の体験談が反映されている可能性は十分にあります。
なお、現行の光文社文庫本292ページ11行目(第三節の三分の二くらいのところ)にある「‥‥向う側の高い堤の松の上にちょうど今、青白い顔を出した二十六日の冬の月にあざやかに照らされていた。」の部分にある「二十六日」は、「十六日」の誤りではないかと思います。冒頭「十一月十六日と覚えています。」という半七のセリフがあります。またそれ以外でも、前の本文から考えてこの場面の時刻は午後七時ごろではないかと思われるのですが、旧暦の二十六日では月の出る時刻は深夜から明け方の間で、つじつまが合いません。他社の版ではどうなっているのでしょうか?
〈あらすじ〉文久二年(1862)も秋深い九月。芝神明宮近くの裏店に住む老女おまきは無類の猫好き。魚屋を営む息子の七之助は、働き者で評判の孝行息子だが、おまきの方は十五、六匹の猫を飼い、近所の住人達に『猫婆』と呼ばれて嫌われている。迷惑した隣人達が家主と語らって猫を捨てに行くが、すぐに戻ってきて埒があかない。化け猫との評判まで立ち、結局俵に詰めて海に投げ込むという荒療治でカタがついたが、その七日後おまきが頓死した。脳天には打ち傷が一つ。病気か、殺しか、それとも猫の祟りか? 子分湯屋熊が聞き込んできたこの話に、半七は俄然興味を示す。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
文久二年については1−7『奥女中』で述べた通りで、半七四十歳の事件です。しかし、この事件の発生年については、綺堂の勘違いがあるように思われます。事件を報告した湯屋熊に対して、半七は「‥‥だが、てめえの挙げて来るのに碌なことはねえ。この正月にもてめえの家の二階へ来る客の一件で飛んでもねえ汗をかかせられたからな。‥‥」とからかっていますが、明らかにこれは1−4『湯屋の二階』事件のことでしょう。ところが『湯屋の二階』では「文久三年正月の門松も取れて、‥‥」とあるので、この『猫騒動』事件は文久三年に発生したことになってしまいます。いずれにしても、世情落ち着かない時期のできごとではあります。
さてこの作品は、犯人(?)の不自然な行動にいち早く気付いた半七が、近所に引っ越してきた男のふりをして巧みに事件関係者に近づき、犯人をあぶりだしていきます。「犯人が第一発見者を装う」(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)というよくあるパターンですが、1920年前後の小説としてはなかなか斬新な犯人の設定です。
ただやはり、この話の主眼は猫が人に化けたのかもしれないという怪異性にあるでしょう。近世以降、猫は化けると広く信じられており、『耳袋』(南町奉行を17年務めた根岸肥前守鎮衛[1737〜1815]の随筆)にも、猫の怪異譚が数話収録されています。綺堂は『猫騒動』を書く際に、この『耳袋』の巻之二「猫の人に化けしこと」を直接参考にしたと思われます。「人間に化けた猫を切り殺したが、人間の姿のままだった。しかし夜までほっておいたら、だんだん猫の姿を現した。死んだ猫がすぐに正体を明らかにしないからといって、考えなしに自害するのは思い止まるべきだ。(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)」という同話の内容は、少なからずこの作品と重なります。
なお、おまきの裏店に近い「芝神明宮」は、港区芝大門1丁目に現存する芝大神宮のことで、毎年九月中旬の例大祭「だらだら祭り」(十日間にも及ぶことからこう呼ばれる)では、生姜や甘酒が売られるそうです。これが作品中の「生姜市」にあたるのでしょう。
〈あらすじ〉安政と改まった年(1854)の三月十八日、神田明神下の質屋山城屋の番頭利兵衛が、半七宅へ相談に訪れた。小僧の徳次郎が半月前から口が腫れる病気になり、前日実家で息を引き取った。ところが死に際に徳次郎は、店の一人娘お此に殺されたと兄の徳蔵らに言い残し、徳蔵が三百両寄越せと山城屋に掛け合いに来たのだ。主人夫婦が弁天様に願掛けして生まれたことから『弁天娘』の異名を持つお此が、本当にやったのか? 半七の推理は真相に鋭く迫る。ところが一件落着と思われたその時、意外な殺人事件が発生して‥‥。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
安政に改まった年と書かれていますが、改元は十一月のことなので、事件発生時はまだ嘉永(七年)という年号だったはずです。日米和親条約が調印されて、二百十余年の鎖国が破られた年ですが、条約調印は三月三日ですから、この事件はそのわずか半月後に発生していることになります。1−5『お化け師匠』と同じ年、半七は三十二歳です。事件の後半には善八も姿を見せます。
この作品の特徴は、一見事件が解決したように見えたところで、新しい殺人事件が発生するというプロットで、一話一事件形式の多い半七物の中では少数派に属します。第一の事件が「箱入り娘の悪戯心が小僧の事故死を招いた(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)」のに対して、第二の事件は「妻が金目当てに夫を泥棒の仕業に見せかけて殺した(ネタバレのため、背景色と同色にしてあります。)」というもので、コントラストがあざやかです。登場人物の性格がうまく書き分けられている点も、見逃せません。佳作といって良いでしょう。
なお、江戸三大祭の一つ三社祭は、台東区の浅草寺北東隅にある浅草神社(三社権現)の祭りで、現在では五月の第三金・土・日に行われていますが、江戸時代には三月十七・十八日の両日に行われていました。
余談ですが、半七が事件関係者と鰻を食べに行くのは『勘平の死』と同様で、いずれも大店から依頼された事件であるのは、結構な謝礼が期待できるせいでしょうか。(うがち過ぎかな(^_^;)
〈あらすじ〉文久二年(1862)の五月、八丁堀同心の奥方の湯治先を見舞うため、子分の多吉とともに箱根へと向かった半七。小田原城下の旅篭に泊まった二人のところに、若い与力小森の中間で多吉と顔見知りの七蔵が、助けを求めてきた。謝礼目当てに、通行手形を持たない男を、自分の知り合いと称して荷物運びに臨時に雇い、関所を越えさせてやったところ、男は旅篭内で強盗殺人を起こして逃げてしまったのだ。責任を感じた小森が、事件のきっかけを作った七蔵を手討ちにしようとしたので、逃げてきたのだが‥‥。〈この作品を『青空文庫』で読む。〉
文久二年は1−7『奥女中』でも述べたように多事多難な年でした。本来慶事であるはずの将軍家茂への皇女和宮の降嫁も、「悲劇の皇女和宮」という面だけが語り継がれていますが、実のところ公武合体を強調するための政略結婚ですから、止むを得ないでしょう。半七は男盛りの四十歳ですが、「‥‥ちっとくたびれたようだ。‥‥おとどし大山(神奈川県伊勢原市)へ登った時のような元気はねえよ」と笑いながらぼやいています。
題名の『山祝い』とは、旅人が無事に箱根の関を越えた際に、その夜の宿で祝いの席を設けることをいいます。本文によれば、主人が供に一人三百文くらいの祝儀をやって、さらに酒を振舞ったようです。この題名の通り、珍しく江戸以外の土地で事件に遭遇する半七ですが、直接犯人探索に乗り出すわけではなく、与力の隠れ場所を見つけるのに観察眼を働かせます。一方結末の強盗逮捕では、子分の多吉が怪しい男に気付いたことになっており、子分の観察眼もまたなかなか鋭いと言えそうです。
ところでこの作品で半七は、厄介事を全て欲が深過ぎて自滅した中間になすりつけて、年若の与力を救っています。1−11『朝顔屋敷』でもそうですが、小姓や中間というような武家の渡り奉公の連中に対して、半七物ではやや厳しい見方をしています。(これが後続の久生十蘭『顎十郎』シリーズでは、むしろ顎十郎を中間らのヒーローにしている点で対照的です。)逆にこの第一巻では、旗本・御家人に対する温かい目が感じられます。(『広重』での黒沼の剛気(原文ママ)・誠実な態度。この作品での小森の潔い態度や、末尾の後日談に見る幕臣びいき的な見方。)これらは、世が世なら筆者綺堂が百二十石取りの御家人であったことと、決して無関係とは思われません。
‥‥第 一 巻 解 説 終 了‥‥
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