『従縁寺略縁起』

   従縁寺の由緒は旧記焼失のため不詳であるが、『栗太郡史』によれば

    「延暦年中(八百年頃)良弁僧都の弟子実忠和尚の開基にして、十一面観世音を
   本尊として大伽藍を建立せらる。叡信ありて長光山慈眼院大乗寺と勅額を被下給ふ。
   その後、当地に縁海寺伊得寺の末寺を建立し繁栄なりき。然るに応仁の乱(一四六七
   年)の兵火により灰燼に帰し、什宝記録等焼失し僅かに本尊観世音のみ免れ給ふ、こ
   れを一小堂に安置す。慶長年中に従縁寺と改む。正徳二年(一七一二)僧佳然再興を
   企て勧進に努め本堂を今の地に再建し、聖光院薮林山従縁寺と号し、阿弥陀如来を本
   尊として浄土宗に帰す。別に当境内の隅に小堂を結び、十一面観世音を移座す。正徳
   四年(一七一四)安土浄厳院の末寺となり、享保年佳然の弟子継誉の時、能分寺格となる。」

  と記されている。本尊阿弥陀如来像は正徳二年頃のものと推定され、善導大師、圓光大
  師の両大師像は、寛政十二年(一七九九)に壇信徒によって寄進されたものである。観音
  堂に納められている二月堂十一面観世音菩薩は、銅製の半面坐像で頭部に宝冠を付け
  ている。高さはわずか七センチと小さいが、千二百年以前の作であり『栗太郡史』にも出て
  くる貴重なものである。この仏像は、実忠和尚が奈良の大仏の功徳を全国へ流布するため
  小さな観音像二千体を作り、全国の寺々を巡回し、一体ずつ祀っていったうちの一つと伝
  えられている。また、この仏像には種々の伝説があり、「徳川時代、この付近の領主であっ
  た遠藤某氏が馬で散策中に、同寺近くの田んぼで後光がさしている≠ニ叫び人夫に掘ら
  せてみると、この観音像が出てきた」という寺伝も残っている。また伽藍の大改修が天保年
  間と昭和の二度にわたって行われ、平成五年には山門の改修が完成した。
   明治時代、教育令が公布された頃、現在の葉山小学校の前身として当寺の本堂にて多
  数の学徒が机を並べていた。(当時は『咸煕学校』と称した)
   今も本堂の木戸に残されている落書がその頃の面影を伝えている。

木戸の写真     木戸の写真

     本堂の木戸に書かれた、明治の子供たちの落書き



二月堂観世音菩薩御詠歌

 慈悲の眼に にくしと思うものはなし

     罪ある身こそ なほかはいけれ

            二月堂観音堂

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