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蔵人昔物語 |
蔵人のご苦労に報いる応援歌
・ 蔵人の高齢化・後継ぎの不在
・ 長い年月をかけて磨きぬいた酒造りの技も
激しい労働に絶える肉体を離れて存在しない
・全国の酒蔵から消えていく彼らの一生をかけた
酒造りの苦労も忘れ去られていいのでしょうか

現在の製造技術も先人達の残されたご苦労・技術なくして存在しません
・歴史的背景、濃漁村の事情
・動力(電気)もなくすべて人力に頼る
・木樽(雑菌の繁殖)、蔵つき酵母(腐造の恐れ)
その時代のハンディーを乗り越え現在の美酒の基礎を造っていただいた
先人達のご苦労をご紹介致します。
<旅立ち> 蔵入り
稲の刈り入れもすむと蔵入りの日も近い、いったん蔵に入ると酒造りの
終わる数ヶ月間、簡単に故郷に帰れるものでわなかった
蔵入りの日は年老いた両親を持つ蔵人にとってこの世で最後の別れに
なるかもしれない日でもあった。
蔵人の一年生は「駆出し」「新参」と呼ばれ、まだ酒造りが機械化されて
いない昭和20年ごろまで作業はすべて人力でこなされます、
夜9時に寝て、夜中には「盛り」(麹の番)・「泡番」(モロミの管理)
朝3時にはその日の仕込みの準備・・・
冬の昼夜を問わない作業、零下前後、ヒビ・アカギレはあたりまえ、
つかの休み時間も体が冷えて寝れるものでわなかった
駆出し・新参の頃の辛い仕事を耐え抜くことが成長していくための第一関門であった。
<桶洗い> 杉製の道具類
酒の仕込みから貯蔵に用いる様々な小道具から高さ2mを越す六尺桶まで
杉が用いられている、木桶が琺瑯・ステンレスに変わるのは昭和5年以降
杉といえば高価に思え聞こえはいいが手入れが大変
“腐造”は蔵の命取り、殺菌は熱湯で徹底的に行なわなければならない
六尺桶を洗うとなると天秤棒の前後に熱湯を入れた荷桶で満量汲み入れ運ば
なければならない、足を踏み外しでもしたら頭から熱湯をかぶる危険な作業、
その日から毎日、熱湯による洗いが一ヶ月も続いたようです。
<水汲み> 冬の凍てつく水
酒造りには洗米から仕込み水、道具洗いまで大量の水が要ります、
蔵に電気が入るのは昭和の始め、
井戸から釣瓶で汲み上げ、天秤棒で担いで運ぶ、これも冬の作業
<米洗い>
米を洗うのは手洗い・足洗い、1.8トンの米を二人で洗うのに3時間
冬場の事、手足の感覚がなくなるほど冷たく過酷な作業。
< モトの櫂突き>
生モトつくりで半切桶の中に、蒸米・米麹・仕込み水を入れ櫂ですり潰す
作業(山卸)
5・6時間ごとに3・4回おこなう厳冬の早朝から深夜にわたるハードな作業
<モロミの泡消し>
留仕込みも終わり1週間もすると発酵による泡が沸きあがる(高泡)
この泡の中には大切な酵母がたっぷり含まれているので桶からこぼれない
よう番をした (泡番)、夜中(宵番)
高度成長し始める昭和30年代まで杜氏出身地の農漁村では、冬季の
農閑期酒やの出稼ぎに行くのは当然のことだったようです
、
尋常高等小学校卒業15歳位で100日間の出稼ぎに出るのです
村の顔役などの紹介が多く途中で逃げ帰るようなことがあれば
家の恥じになるような時代です(大正の始め農家一世帯あたりの田の
面積は0.5ヘクタール(五反)、夫婦に子供3人の暮らしを支えるのが
限度、経済的な理由もあったようですが)
昭和30年ごろまで蔵は完全に男だけの世界、蔵でのした働きと同時に
飯炊き・給仕に至るまで新参の若い衆の勤め、電気による動力などない
時代すべて人力による仕事に加え、微生物相手の仕事には昼も夜もなく
上下間も非常に厳しい
当時の桶は杉材(六尺桶一本250円家一軒立つくらい、琺瑯・ステンに
変わるのは昭和10年以降)、現在配布されているような純粋酵母などなく
蔵に浮遊する野生酵母を巧みに取り入れていた時代にはモロミの腐蔵は
よくあり蔵にとっても恐ろしいことです
、
大桶1500キロ仕込みの米を腐らせる、五反百姓出身の蔵人にとって
どれくらい精神的プレッシャーだったことでしょう
現在は科学的な解明・純粋優良酵母の配布などにより腐蔵などの心配は
なくなりましたが目に見えない微生物の力を借りてお酒を造る基本はまったく
同じで、先人達の知恵・技が行かされています
蔵を訪問させていただくと60・70代の杜氏・蔵人の暖かさが伝わってきます、
彼らの人柄が微生物の発酵・お酒の味になっているのだとつくずく感じさせられます
ガンバレ・・・本物の愛情のこもった日本酒!!
皆様の愛飲を願うものであります 。
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