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  忙中閑話

「国際的?国際化?」 2013・2・7
昨年、国際尺八フェスティバルという催し物がありました。何回めだかは
知りませんが、今までは海外で開催されていたのですが、昨年、本場たる
日本での開催となったのです。場所は京都です。さすが、京都は古都です。尺八宗家は多いのですが、こんな時に、参加されないところもあるのですね。どうも、聞くところによると、世話役の一人纏めに反発したとか。。うんぬんだそうです。世界中からの尺八愛好家を迎えての行事に持ち出す問題なんでしょうかね?小生は「一節切の製作体験と演奏会」・「本曲独奏会一本竹」の2催事で協賛させていただきました。世話役は他流の方でしたが・・・・・・(これは皮肉です)           さて、海外からの奏者が
演奏されたのは、ほとんどが古典本曲でした。いや全部と言っていいでしょう。それ以外は自作曲ですから。彼らが魅力と感じるのは。古典本曲・・・
それも、長管の地なし延べ管での演奏なのです。尺八本来の、
精神性豊かな演奏なのです。和楽器を使ってのレベルの低い音楽ではないのです。そんなものは西洋音楽が進んでいるのです。日本人自体が、尺八から離れていくことを嘆く必要などどこにもないのです。世界には何億もの人口が・・その中の何人かが吹けば、日本の演奏人口よりも大人数となるでしょう。すでに、古典本曲に関して日本人以上に上手な人たちが ゴロゴロ  勉強しないで えらバッテみても世界は動いているのです。
皆さん・・・いやいや、尺八吹きの方々!「地なし延べ長管」を一本持って
古典本曲を一曲マスターしてみましょう。それから「自分は尺八奏者だ」と
自覚してください。価値観が違い、好みが違うのは解かりますが、チャラチャラした曲を吹いて、尺八吹き などと思っている人がおおすぎるのでは?
柔道・空手・剣道・・・・国際的になれば世界の中の誰かが卓越して現れるのです。負けないように「尺八道」に励みましょう。


「流の型」? 2012・1・6
流派の曲には、型があるらしい。
あるらしい?とは言ったけれども、どのような、流派とは言っていないので
心当たりを思い浮かべていただくのはご自由です。
流派の型?正調らしいらしい!なにか、ややこしいですね。
その、型が変わるのです。研究をして、進歩して変わるらしいのです。
10年前とは変わっているのです。一部分ですが・・・・・・・
変わる基準はなんなのでしょうか?研究してより良いものに・・と、言われたと思いますが、
誰が、より良いと判断するのでしょうか?「判断」する資格があるのでしょうか?
「型」は型のないものなのでしょうか?だから変わるのでしょうね!
この「型」のないものを「型」として操ることは、何か利するところがあるからでしょう。
で、なければ、「型」を型無しにしてしまう理由は見当たりません。今習っている「型」は
明日には、間違っていると、いわれるのですから、いや、言われるのでなく、「間違っている」と言える人が、型をかえているのですから・・・・


「一節切尺八」 2010・6・27

明日・「一節切尺八」演奏会のチラシが出来上がってくる。
どんなものかは、本HPの「一本竹」のページを見ていただければ、およそのことは、ご理解いただけるでしょう。
問題は、継承者がいないことなのです。すでに絶滅種となっているのですから・・・・
1億人の人間がいますと、何人かが、この、絶滅種を研究して、復活とまでいかなくとも、継続・継承をの志を持たれる
人があらわれるのですね。そんな研究家の熱意にうたれ講義を受けている者達の発表会なのですが、
会の真意は「跡継ぎを探す」ことなのです。ですから、われわれ年寄りがいくら増えても、もう10年も「中継ぎ」はできないのです。20歳ぐらいの方が継いでくれますと。50年は大丈夫!なのです。お若い方、ぜひとも、「一節切尺八」の継承に
お力を!

立ち禅 「弓道」 と 吹禅 「尺八」 1010.6.25
いわゆる座禅に対して「弓道」を「立ち禅」、「尺八」のことを「吹禅」と言われることがありますが、
小生は「座禅」の経験が有りませんので、三つ巴となる話は避けて行きたく思います。また、どちらも
さほどに、上手ではありませんので、所謂「下手の横好き」といわれる仲間のひとりです。
その上「悪口」ときていますから、皆さんに「思い当たる人」が居るようでしたら、多分同類だと思われて
結構、正解かもしれません。そうそう、「悪口」だけではなく、「講釈」までたれるのですから、益々、性質が
悪いこと請け合いです。そんな「がさつ」さが弓道や尺八に心が傾くのかもしれません。尺八は普化禅宗としての「吹禅」の立場を明確に主張出来るとおもいます。吹く行為そのものが「禅」なのですから。では
「弓道
」の禅はどこからきているのでしょうか?ご存知の方は教えて下さい。

剣も禅を唱えますし 空手も禅をとなえますし結構禅だらけなのです。
「座禅」の達人?聖人?君子?悟りをひらいたならば、「吹禅」「立禅」でも悟りをひらける?悟りをひらけば、
何をしてもみな同じ?話がコンガラカッテきましたので協はこのへんで


      旧 閑話

   ただ今 休憩中に付き無駄話を

忙中閑話 1 
芸は盗め

  よく習い事をしていますと、師匠より「芸は盗め」と
  言われたりします。しかしながら人様の芸を盗むには
  盗人それなりの技量・技術がいるのです。無駄なもの・
  値打ちのないものを盗んでみても芸の肥やしにはなり
  ません。(盗人・盗む と耳さわりの悪い言葉で申し訳
  無いですが辛抱してください)
  昔の師匠はそれはそれで、それなりに済んだかも知れ
  ませんが、今の時代果たしてそれだけで済むことでしょ
  うか?
  師匠は月謝を頂いて教えているのです。お弟子さんは
  月謝を払いその芸のノウハウを買いに来ているのです。
  如何に付加価値の高い「芸」を教えていくかにその値打
  ちがあるのではないでしょうか?  盗む芸での教え方
  では進歩の度合いがちがってきます。一日も早く芸を
  盗めるだけの技量を身につけさせるのが師匠の役目です。
  ですから師匠が自分の弟子に自分の芸を盗めと言うには
  大間違いです。それは単なる芸の売り惜しみか、売る芸の
  無い師匠のどちらかです。
  師匠は愛弟子を一日も早く立派な「盗人」に育てることによ
  り、その世界の発展があり未来が開かれてくるのです。
  こん日、斜陽であろうかとおもわれる芸能の師匠は心して
  自らが「教え」のプロを自覚し常に弟子よりも一歩先んじて
  歩み、「なきものは他所より盗ます」でなければ、義理と人情
  恩義でもってお金をもらいながら身も心も縛ろうなど厚かま
  しい時代はないものと思うべきである。
  「盗み」は家中ではできません。当然「他所」ですることになり
  ます。「他所」での「盗み」には「捕らわれ」の危険が伴いま
  す。縛り付けて斜陽の世界のなかま入りか?「捕らわれ」の
  危険を冒させるか?
  さて、貴男(貴女)は、愛弟子をどの様に・・・・・・・・

         壬山閑話  00,10,28


忙中閑話  2  嘘か真か 驚くべき話
 
  新しいお弟子さんができました。(父上は日本でも有数の音
  楽家で、海外での演奏活動も常時との事。とゆうのは洋楽の
  友人から聞いて知りました)このお弟子さんまだ3回しか教
  えていません。恐ろしく耳が良いのです。専門は、コンピュー
  ターですが、特に音に強いとのことです。小生などは、とくに
  音に弱くて通知簿では音楽はいつも1(断っておきますが、
  その他はオール5でしたぞ) 准師範試験は聴音0点 歌一
  つ歌えない これ又信じがたい音痴なのです。その彼曰く、
  「聞いた音は五分ぐらい正確に覚え再現できます」「じゃあ、
  今から私の吹く音をロ・ツ・レが無理ならA・B・C・Dで答えて
  ごらん」と乙ロを吹きました。さてここからが驚くべき事の始
  まりです。彼「先生の音は、この音の倍音が幾つとこの音・
  この音の8和音です」と傍らのキーボードで音再現をするの
  です。「あっ この倍音ももう一つ入っています」絶句です。
  「じゃあ この音は?」と平常を装いつつ ロの換え手で吹き
  ます。「いまの音は、この音が変わりフラットになりった和音
  です」と実演「あっ、この音は弱になってました」 と一音
  訂正。またまたロの換え手を吹きます、「この音が変わりま
  した」と答えます。和音の何たるか、もわからぬ音痴の小生
  「尺八の音を、外国の音楽家がオーケストラに対比して正に
  小さなオーケストラであると表現した人が居るが、君同様に
  和音を聞き分けて表現したのかなー」と感心と驚きしきり。
  それでも彼言ってくれました。「私の音は、単音です。さすが
  に先生の音はちがいますね。がんばります。」複雑な気持ち
  で帰宅の途につきました。
  貴男(貴女)の 耳はどんな耳? メール下さい。
                     壬山閑話 00.11.2


 忙中閑話  3  私は二流?
        
  出藍の誉れと言う言葉があります。誉れと言うぐらいです
  から、一般の師匠を超えたぐらいでは、誉れとは言えない
  でしょう。やはり一流の芸を超えた超一流でなければ少々
  具合が悪いでしょう。一流を超えるには一流の師に付かな
  くては、先ず一流にはなれないでしょう。泥まみれのスッポ
  ンたる小生など二流或いはそれ以下なれば、当然我が愛
  弟子もその域を超えられぬ運命を背負ってしまっているの
  です。一期一会と言う宿命のもとに。  最近は長寿です。
  師は70,80,歳と喜ばしい事に長生きして下さいます。
  当然、弟子も長生きです。二流の師に一生付いて60・70
  歳、最早新たなる道を求めるには少し遅きに失します。
  そうなりますと、この世界は未来は暗いでしょう。我が師は
  その意味では良く出来た方です。ご期待に沿えなく申し訳
  なく思うばかりです。意欲があり、資質のある愛弟子は、手
  元に置きたいのは良く解りますが、この世界の為、皆が少し
  勇気を出しましょう。
                    壬山閑話  00.11.14