「鐘の音」   和尚の一口話   20001年12月1日

 第三十五話
   迷中又迷    
   
  迷いも、悟りも仏法です、迷いがなかったら、
 悟りがありません、生きている限り迷いがあります。



 生きているとはどういうことか、死とはどういうことか、その真実をはっきり見きわめることが、一番大切な問題であります。

 お釈迦さまは、人生のさまざまな矛盾や苦悶を感じられ、真実の姿が見出せない悶々とした苦しみの日々をおくっておられました。29才の時一大決意の下に出家されました。 6年にわたる苦しい修業の日々が続きました、心の苦しみは深くなるばかり、身はやせ細るばかりで、呼吸さえ絶え絶えであったそうです、一粒の胡麻と一粒の米のほかは、一切の食物を断つ「一麻一米」の苦行をされたこともあったと、伝えられています。


 ある日のこと、ネーランジャーラー河の堤の上を、民謡を歌って通る農夫の声が聞こえてきました。耳を傾けるともなく聞けば「糸がつよすぎるとすぐ切れる、弱いと弱いでまた鳴らない、程々の調子にしめて、上手にかきならすがよい」という意味の歌でありました。この歌を聞かれたことがきっかけで、お釈迦さまは苦行をやめられたという挿話があります。

 お釈迦さまは ネーランジャーラー河のほとりの菩提樹の下に柔らかい草を敷いて、「 われもし解脱の道を得ずんばこの座を去らず 」との決意の下に、ここに坐禅されました。 35才の12月8日、明けの明星がまたたきはじめた暁に、大地有情と共にお悟りになられた、 それを成道(お釈迦さまの悟りの完成)とおよびしています。


  人々は生き死にの真実を求めて、 そして悩み苦しみからの救いを求めてお釈迦さまの教え、坐禅に道を求めようとします。 自己満足のために、迷いを切り捨てて悟りを得ようとします、 けれどもどこまでいっても、自分が納得し満足を得ることがありません、 坐禅は納得し満足を求めるという修行ではないからです、坐禅修行に仕上がりはなく、完了という終点もありません。

 道元禅師の著された普勧坐禅儀には「 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めよ 」と説かれています。念想観とは瞑想のこと、坐禅は瞑想することでもなく、特殊な精神状態をつくることでもない、また、観音様などを仮想したり、頭で考えをめぐらすというものでもありません。

 「我が身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなはれて 」すなはち自分の思い勝手でするものでもなく、ましてや、 結果を求めたり
、 目的のためにするものでもありません
無所得・無所悟の坐禅であり、「只管打坐(しかんたざ)」します。

 「自己をはこびて、万法を修証するを迷いとす、万法すすみて、自己
を修証するは、 さとりなり 」修行 と証(悟)は 一つのものです、修行に終わりはありません、 証(悟)に 始めはありません、広大無辺の悟
りの世界にいながら、それに気づかずに迷っているのが私たちです。


  人は広大無辺の悟りの世界に生かされている、今、生きているこの世界はすべて悟りに満ちている、けれども人はいつも満ち足りない思いに心は乱れ、迷い苦しんでいます。 迷い苦しむ自分自身こそが、真実の自分の姿であり、日々の生活、生きることが修行です。

 良寛さんのお歌に「裏をみせ 表をみせて 散る紅葉 」 というのがありますこれは迷悟にもこだわらない生き方を貫かれた良寛さんの生きざま、そのままが現われたお歌ではないでしょうか。

 西暦2001年・仏紀2567年の歳末となりました、世情まさに、経済不況と社会不安の一年でした。12月8日はお釈迦さま成道(おさとり)の日です、しばし、静かに坐りましょう


 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、
 生あり
死あり、諸仏あり、衆生あり
       
道元禅師(正法眼蔵・現成公案)
 迷いも仏法であります、悟りも仏法であります、仏法というものは、
  悟りを求めるものであって、迷いは切って捨ててしまわなければならないものだと、
  普通に考えるとこうなります。
  迷いがなかったら、悟りがありません、
  表と裏みたいなものですから、生きている限り迷いがあります。


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