第90話    2006年7月1日
 
               生きる意味  


  悪しき行いは なさざるをよしとす そは 後に悩むべければなり
  善き行いこそは なすをよしとす これすなわち 悔いなければなり 
                                   (法句経)



生きる意味

 「人は何のために生まれてきたのか」、「人は何のために生きているのか」と、ふと思うことがあるでしょう、生きる意味をつかみきれないままに、人は日々生きているのでしょうか。

 「人は何のために生まれてきたのか」、それは、他の生き物と同じで、子孫を残すために生まれてきたということでしょう。男であるか女であるかのちがいはあるけれど、他の生き物と同様に子孫を残すために、この世に生まれてきたはずです。でも、子供を産み育てることに生きる意味を求めない人も多くなりました、我が国の世情では少子化傾向が強まるばかりです。
 かって人の一生は子育てが終わる頃に命も尽きたのです、けれども急速に到来した長寿の時代では、子育てを終えても長い年数を生き続けることになるのです。

 「人は何のために生きているのか」、このように問われれば、あなたはなんと答えますか。だれでも、よりよき人生を生きたいと願う、しかし人は善き生き方をしょうとしても、なかなか善き生き方ができません、悪いことをしないようにしょうとしても、悪を抑えきれないところがあります。それは貧欲(むさぼり)瞋恚(いかり)愚癡(おろかさ)の心、すなわち三毒の心がはたらいてしまうからです、これを煩悩といいますが、この煩悩をなかなか自制できないから、自ら悩み苦しんでしまうのです。

 本来、人にはよりよき生き方をしょう、そうすれば幸せになれるのだという思いがあります、善行は幸せに通じ、悪行は不幸をまねく、そういう思いが心の底にはあるのです、それで人は善悪をわきまえて、悪行をしないで善行に生きようと心掛けます。

善悪を教えることが子育ての基本

 親が子供に善悪を教えることが子育ての基本ですが、このごろ若者の間でおこっていることで、善悪でものの判断をしないで、みんながしていることが善いことであるという判断です、たとえ悪行であっても、みんながしているとそれは悪行ではないというのです。親が子供に善悪をきちんと教えていないと、その子が成長して大人になっても、善悪を教えられる親にはなれないでしょう。

 最近、信じられないような事件が起きています、子供が近所の顔見知りの人に殺されるという事件が後を絶ちません。家庭では親子、さらには祖父母と孫の間でも、殺傷事件や放火殺人事件が起きています。親の身勝手なふるまいのために、子供の心が寂しくすさんでいき、善悪の判断ができないままに、さまざまな事件を引き起こしてしまう子供も多くなりました。
 凶悪な事件が多発しています、人は善悪をわきまえずに自我欲望のおもむくままに行動していると、自分さえも見失ない、気がついたら奈落の底に転落してしまっているのです。
 また、お金に目がくらんでしまうと、本来のお金が異質のもの、マネーに変身して、人は価値観まで変わってしまい、善悪の判断ができなくなります。建築物耐震構造設計の偽装が大きな社会的影響をあたえています、そして証券取引法違反事件が増えました。

 世の中の大人の生きざまを子供達は見ています、大人の行動が成長していく子供達の社会生活における善悪の判断に影響します、親の後ろ姿を見て子は育つと言いますが、日常の親の姿から子も自然と善悪の道理を学んでいくことでしょう。

おてんとさまやご先祖さまが見てござる 

 人は死ぬと何も残らない、善悪の行為も一切が消滅すると考える人もいるでしょう。でも先祖を祀る日本人の心の底には、死んだ後には魂が残り、先祖霊として祀られると信じてきましたから、よりよき生き方をして、よりよき魂となって子孫に崇められるような生き方をしょうと心がけてきました。おてんとさまやご先祖さまが見てござるから恥ずかしくない生き方をしょうということです、これが日本人の善悪の判断、恥じない生き方の基本でもあったのです。

 仏教の教えが伝わると、善い行為は善ないし楽をもたらし、悪行は悪果ないし苦をまねくという考え方が広がりました。人の生きかた、行為を業
(ごう)としてとらえ、肉体が消滅しても業は霊魂とともに存続するから、今世において善き生き方をすると、来世でよき先祖霊として成仏すると信じられるようになりました。

 人は死ぬと何にも残らないのでしょうか、亡き人は何も残さなかったのでしょうか。悲しみの中に、たとえどんな小さなことでも、亡き人につながる思い出に気持ちは動きます。鐘を打つと余韻が漂っているけれど、いつしか消えてしまう、亡き人の面影も印象も薄れていく、やがて時の流れと共に忘れられ、消え去ってしまうでしょう。けれどもその人の生きざまや実績が全く消え去ってしまうということはない、亡き人の手がけた事業や仕事は有形無形のものとして残るでしょう、その人の生きざまとか教えといったものは、後の世の人々の心に受け継がれていくでしょう。

四摂法(布施・愛語・利行・同事)の実践がそのまま善行です

 善悪の道理をわきまえてよりよき生き方をするといっても、実際に日々の生き方がそうでなければ意味がない。そこで道元禅師は生き方の基本を四摂法(布施・愛語・利行・同事)を実践すること、すなわち利他の生活態度だと諭されました。

「布施」とは、わがままな欲を捨て、物でも心でも、他に与え、他を生かすという生き方です。
「愛語」とは、常に心を清め自然に出てくる言葉として、やさしい慈愛の言葉がけをすることです。
「利行」とは、見返りを求めず、ひたすらに他を利すること、無条件に相手のためになすことです。
「同事」とは、あなたのよろこびは私の幸せ、自分も相手も思いやる心で一つになれるのです。
 自分本位の心を捨てて、世のため人のため、生きとし生けるもの全てのために尽くそうとする誓願をおこし、
頭であれこれと判断するよりも、身をもって善行に生きることをとかれたのが、この四摂法の教えです、この四摂法を日々実践することがそのまま善行です。

 どんな悪行でも、後でしなければよかったのにと悔やんだり、自責の念により悩んだり、恐怖に苦しんだりするものです、ところが善行はどんなことでも心楽しいものです、たとえその時、そのことが苦しみをともなうものであっても、後には必ず喜びがあるはずです。いかに自我欲望をおさえ、善を行う努力をするかが生き方の根本の問題です、善行という道からそれないように、艱難辛苦を乗り越えて生きてこそ、生きる喜びを実感できるのでしょう。

 本来、人にはよりよき生き方をしょう、そうすれば幸せになれるのだという思いがあります、だから自分の生きざまが気になります、自分のなした行為はすべて自業であることを自覚して、今をよりよく生きぬくことにより未来が開けるのです。

  さきに 悪しき業(わざ)を行える人も 後に善きことによりて 清められなば
  まこと 雲を離れたる 月のごとく 彼は この世間を照らすべし  (法句経)


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