2003年8月1日
 
                 まごころ
         第55話   真心は美しい
              
  見えなくてもお花を供えたい 食べなくても美味を供えたい
 聞こえなくても話したい  見えざるものへの真心は美しい



 盆棚に真心を供える

 お盆には床の間や仏壇の前に、あるいは新仏を迎える新盆棚は縁側に、精霊を迎えまつる盆棚が設けられます。正式には四方に竹を立てて縄を張り、その中に雛壇を置いて上にゴザを敷き、上段にご先祖の位牌を並べます。華・燭・香と、山・野・海のものが供えられます。

 地域や慣習によって盆棚のまつり方はさまざまですが、蓮などの葉の上にキュウリとナスをサイの目に刻み洗米をまぜた「水のこ」、やや大きめの器に「水」を、盆花のミソハギを添えてお供えします。子々孫々に家が長く栄えるようにと、そうめん、そして張った縄に昆布、カンピョウ、豆、稲穂、ホオズキなども掛けられ、豊穣の祈りと先祖への感謝の気持ちをあらわします。

 京都ではご先祖を盆棚に迎えて、はじめに落ち着き団子がそして家門伝来のしきたりによって飲食を供えます。「赤い実のホオズキはご先祖様を迎えるお灯明の代わりですよ、迎え火を焚き、足の速いキュウリの馬でお迎えをして、送り火を焚いて足の遅いナスの牛でゆっくりとお帰りいただくのですよ」と、お婆さんがお孫さんに話しながら、子供も一緒に精霊棚のお飾りをします。

 家族みんなで盆棚を準備してご先祖さまをお迎えします、お供え物やまつりごとのしきたりを通して、ほのぼのとした幸せの実感を味わうことができる、これがお盆のおまつりです。命の不思議、命の尊厳、自然との関わり方、そして人生について、子も親もお盆のまつりごとから学ぶことがとても多いようです。

 お盆は、命をたたえるおまつりです

 お盆には、お寺から各家へお盆のおまいり、棚経によせていただきます。あるお宅へ「少し早いのですが8月10日にお盆のおまいりによせていただきます」とご連絡すると、「その日はまだご先祖さまをお迎えして、おまつりができません」と言われました。それで「とりあえず、お仏壇のおまつりをしておいてください」とお願いしました。

 当日おまいりによせていただきますと、「急いでお墓参りして、ご先祖さまをお迎えしておまつりしました。仏間へどうぞ」と通されました。そして、今日の午後に妹がお墓まいりに行くといってきましたので、「只今我が家にご先祖さまをお迎えしているので、お墓は空っぽですよ」と妹に言ったと、話されました、一見滑稽な会話ですが、お盆の精霊まつりの一コマです。

 ご先祖さまは、あなたにとってどんな存在ですか、先祖霊は命の源です、もとより一族や、家のこだわりを超えたものであり、一度もとぎれることなく何万、何千年も連続してきたからこそ、今の私がそしてあなたがあるのです、この命の連続こそがご先祖さまです。

 この世に生を受けただれもが、命の源から連続する尊い命をいただいた、かけがえのない存在として、望まれてこの世に生まれてきた。だからご先祖の御霊をおむかえするお盆の精霊まつりに、今生きていることを喜び、命を大切にして、生き抜いていくことを、ご先祖さまにお誓いするおまつりでもあります。お盆の精霊まつりは、命をたたえる、すばらしい日本の伝統行事です。 

 やさしさの心を取り戻しましょう

中島みゆきさん作詞作曲の歌に「帰省」というのがあります、なんとなくホットする歌です。

1.遠い国の客には笑われるけれど  押し合わなけりゃ街は  電車にも乗れない
  まるで人のすべてが敵というように  肩を張り肘を張り  押しのけ合ってゆく
  けれど年に2回 8月と1月  人ははにかんで道を譲る  故郷からの帰り
  束の間 人を信じたら もう半年がんばれる

2.機械たちを相手に言葉は要らない  決まりきった身ぶりで街は流れてゆく
  人は多くなるほど 物に見えてくる   ころんだ人をよけて 交差点スクランブルを渡る
  けれど年に2回 8月と1月 人は振り向いて足をとめる 故郷からの帰り
  束の間 人を信じたら もう半年がんばれる    《 帰省 ・ 中島みゆき 》

 お盆に故郷に帰ること、そしてそこで非日常的になってしまった、さまざまなものにふれることによって、誰でもが生まれながらにもっているやさしさの心をよみがえらせることができる、忘れかけていた何かを取り戻すことができる、そんな何かを求めて人は帰省する。

 そして故郷の心、ご先祖の霊にふれることによって、このうえもない安らぎに浸り、物や金では満たされない心豊かな落ち着きを得る。経済では推し量れない人々の人情やあたたかさ、自然と共に過ごす短い時間であっても、生命の息吹に抱かれる喜びを全身で感じとることができる。
 そして生活の場である都市の喧噪に戻っても、日常生活の中にやさしさの心を少しばかりの間でも持ち続けることができる、こんな小さな喜びの気持が歌になったのでしょう。  

 お盆は命の故郷に帰る時

 盆とは盂蘭盆を略したもので、インドの言葉でウランバナ(倒縣の苦しみ)が語源だそうです。お盆の行事はお釈迦様の十代弟子の一人である目連尊者の亡母があの世で倒縣(逆さづり)の苦しみにあっていることを知り、僧の修行が終わる7月15日に百味の飲食を衆僧に供養し、その功徳をもって苦患を救ったという由来が「仏説盂蘭盆経」にあります、これを起源とすると伝えられています。
 また中国の祖霊祭や日本の精霊迎えのまつりが結合して、加えて実りの秋の豊穣と一家の安寧の祈願が合わせ行われるようになったともいわれています。

 盆棚を設けて先祖を迎えまつるお盆のおまつりは、地域によって違いがありますが、いずれも伝承行事です。近年この伝承が危ぶまれています、これは命の源である先祖霊にふれ、やさしさの心を取り戻す機会が持てなくなってきたことを意味します。
 近年、人々の意識として、近い親族のホトケのみをまつる傾向が強くなってきましたが、お盆に迎える精霊は祖霊、新仏、無縁仏です、人はただ一人では生きられない、多くの人々や、生きとし生けるさまざまな命にささえられ生かされている、だから無縁の精霊にもあたたかい手をさしのべるところに、幸せがついてくるのです。

 お盆に亡き人の精霊をお迎えして、あの世でなくこの世で共に一時を過ごします。やさしかったお父さんの顔が、あたたかいお母さんのぬくもりが、亡き人のにこやかなほほえみのお顔が目の当たりに浮かんできます、盆棚に灯明をあげて思わず話しかけます、亡き人やご先祖さまとの親密な関係がよみがえるのもお盆だからでしょう。

 
命への思いが希薄になった子供たち、なにごとも経済原理でしか推し量れない大人たちにとって、安らいだ心境とあたたかな生命の息吹を精霊まつりで感じとる、お盆のおまつりは、それ自体が命の故郷に帰り、やさしさの心を取り戻す一時なのです。

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