2020年12月1日 第263話
             
毫釐(ごうり)

     然れども、毫釐も差あれば、天地はるかに隔たり
     違順わずかに起これば、紛然として心を失す。
                       普勧坐禅儀

人間関係は結び合い、絡み合い

 地球温暖化のせいか、京都での紅葉の盛りは11月中旬から12月上旬で、昔と比べると半月ほど遅くなってきたようです。紅葉という歌の歌詞に「秋の夕日に照る山紅葉、濃いも薄いも数ある中に、松をいろどる楓や蔦は、山のふもとの裾模様」とあります。紅葉の見頃になると里山の景色は錦繍の装いで、まさに錦織なす風景というところです。

 紅葉真っ盛りの頃になると、山の裾野は絵のような美しい景色となります。それは錦の織物のようにあでやかであり、紅や黄色の自然が織りなす模様です。複雑にからみ合う人間関係を織物のありさまにたとえると人間模様ですが、こちらの方は、濁ったものがあり、美しいなどといえないかもしれません。

 糸とは繭や綿、毛をよりをかけたもので、糸は絲のこと、よりいとです。人間模様について、とりわけ人間関係の言葉が糸偏であらわされていることが多いようです。

 人間関係の絡
(から)み合いは、一度縺(もつれ)てしまうと、それを解きほぐすのが容易でありません。断ちがたい堅い絆(きずな)で結(むす)び合っている夫婦でも、綻(ほころ)びが生じますから、早めに繕(つくろ)わなければ縒(よ)りをもどすことがむつかしくなります。このように糸編文字で文がつくられます。

 人間関係は糸を結ぶということに似ています。蝶結びだとすぐに糸が解けますが、まめ結びにすると一度繫
(つな)がるとなかなか解けません。人間関係でいがみ合っていると縺(もつ)れてしまい、力ずくで引っ張るとさらに縺れてしまうから、これを解くのにはゆっくり解くか、思いきって切ってしまうか、このままの関係を続けるか、ということになります。いずれにしても人間関係は結び合い、絡(から)み合いです。

 縦糸の横糸

 機織りの歴史は古く、人類は石器時代から織っていたようです。繊維とは布を織る材料となる糸の素材のことで、植物、動物から採取される天然繊維と化学繊維などの人造繊維とがある。繊維を糸の状態にすることを紡(つむ)ぐ、紡績(ぼうせき)といい、糸を紡ぐのには糸を紡ぐための道具である紡錘(ぼうすい)が用いられる。駒の回転力を利用して、繊維をねじって撚(よ)り合わせて糸を繰ります。

 織るとは機(はた)をおることです。織物は糸を縦横に組み合わせて作った布です。織物は織機を使って織ります。基本的な原理は、縦糸(経)を張り、その間に緯糸(よこいと)を通すことで織りあげる。織り方で布地の性格が決まる。織物の美しい模様を絢(あや)という。また、綾は絹織物のことです。

 織物は糸の段階で染める先染めと、織ってから染める後染めとがある。糸を染めることから、緑、紺、紅、緋など、糸偏で色をあらわす言葉があります。紙も糸偏で、これに画くと絵になる。弦楽器に張る糸を絃という。締めたり、緩めたり、絞ったり、縛ったりして音色の調節をします。

 織物は、縦糸のと、横糸のとで織られることから、ものごとのいきさつ、事情を経緯などといいます。経緯について、その過程でどのような間接的な原因すなわち縁があったのか、糸のように細長いすじ状のものを線というが、線上の諸々の縁を手繰ることで、糸口や緒てがかりが判明する、などといいます。

人間の行動や、心の動きを表す言葉に糸偏が多い

 心の動きや、人間関係を表す言葉に糸偏が多い。これは人類の歴史において、古代より身にまとう衣類を織ってきたからでしょう。生活していくうえで欠かせないものが衣類であるからです。織物の技術を発展させていく過程で、織ることに関係する言葉が生まれ、それが人間の行動や心理をあらわす言葉となってきたのでしょう。 「人生は糾える縄のごとし」の糾(あざな)うもその一つです。

 まじりけのない糸のことを純ということから、けがれのない、かざらない人の性格を純という。高貴な人の帯を紳ということから、教養のある男子を紳士という。技術や知識を身につけ、きたえあげることを練といい、上達することを熟練といいます。また技術や知識は受け継がれる。そして成し遂げたことを績といい、てがらや功労、勲功のことを功績といいます。

 人間関係において、ものごとが縺(もつれ)てまとまらないことを紛(まぎれ)るという。それで細かいことを綴りあわせたり組み合わせたりして、総じて一つに統じ繃
(たばねる)ことができれば締めくくれます。紛らわしいことを絶ちきることを約し、(かん)して終わればよい。だが、なお続くようであれば、さらに納りどころを絞りこんで約し直して締めします。

 人の心はわがまま勝手なもので、自己中心の行動をしてしまいがちです。したがって人間関係は良好に保つことがむつかしいのです。自己中心でなく利他心で、互いを尊重し合えばよいのですが、そのようにならないのが人間関係というものです。綻
(ほころび)糸で縫い直すことを繕つくろうといいますが、繕いや結び直しや新たな縛(しば)りが
いるようです。

 毫釐も差あれば、紛然として心を失す

 尺度は長さを表すものですが、尺は日常では使われなくなりました。尺の十分の一を寸、寸の十分の一を分、分の十分の一を厘、厘の十分の一が毫です。
 糸とは繭や綿や毛をよりをかけたもので、
毫とは細い毛のこと、糸は絲のことです。厘を中国では釐と書いた、1釐は10毫、1毫は10絲、1絲は10忽、忽は繭糸の太さとされています。毫釐とは微小なことをいいます。

 ウイルスはナノメートルという微小なものですが、新型コロナウイルスが人類に恐怖を与えています。それに打ち勝つためのワクチンの開発が進められています。コロナ禍、人々の価値観にも変化が生じているようです。インターネットと人工知能が生活様式や人間関係、経済活動を変えています。コミュニケーション、流通、電子決済、勤務形態に変化がみられます。自動運転の車が往来する日も近いでしょう。

 お釈迦様はご自分の指を弾いて、生きているのは一瞬の今、刹那だと教えられた。弾指とは指を弾く間のことで、刹那とは指を弾く間に六十五刹那があるという。
 刹那とは一瞬のこと、微小の時なり。良寛さんは 「裏を見せ表を見せて散る紅葉」 という辞世の句を残された。木枯らしに吹かれて最後の一枚の葉が枝を離れて地に落ちる。「刹那に息して、生死はおまかせ」 と、ご自分の心境を詠まれました。

 書物をとじる糸を編ということから、文章をつづって書物にすることをさします。お経の経とは織物の縦糸のことです。縦糸は変わらないことから、お釈迦様の教えである仏法を説く書物を経典といいます。
 
毫釐とは微小なことであり、正しい教えである正法からの逸脱が些細なものであっても、紛然とは物事が入り乱れてごたごたしているさまで、結局は心を失してしまう。すなわち道を誤り、迷ってしまいます。道元禅師は毫釐も差あれば、紛燃として心を失すると、正法から逸脱することなかれと説かれました。急速に変化する時勢に翻弄されることなく、物事の本質をしっかりと見極めて、いかに生きるべきかということでしょう。

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