2019年2月1日 第241話
             
不瞋恚(ふしんに)
   第九不瞋恚
      退に非ず進に非ず、実に非ず虚に非ず。
      光明雲海あり、荘厳雲海あり。  教授戒文

怒り憎むことがなければ、
人は気楽に生きられる

 あおり運転は大惨事を引き起こします。運転中のちょっとしたことがきっかけで、かっとなってあおり運転の危険な行動に走ってしまう人があるようです。怒りの行動による危険なあおり運転は、取りかえしのつかない惨事をまねいてしまいます。

 また、人との肩が触れあう程度のことであっても、怒りがこみあげて、自分の感情を抑えきれずに大声を発してののしり合ったり、あげくの果てには暴力をふるったり、争いごとを起こす人があります。争いがおさまらず、自制できなければ殺人事件にまでおよぶこともあるのです。

 高校野球は人々にさわやかな感動を残します。優勝チームだけでなく、すべての選手が苦しい練習に耐えたからこそ、憧れの甲子園の土が踏めたのです。最近の若者はキレやすいといわれますが、若い時の辛抱はきっと後日、役に立ちます。忍耐が自分の体にしみこんでいますから、少々のことは乗り越えていけるのです。

 絶対に自分が正しいと言い切らないと相手にスキを与えてしまい、その後の自分は不利な立場に立たされてしまうから、自分の側に原因があっても自己の正当性を主張する人があります。また、自己責任を認めず、他に責任を転嫁する人もありますが、はたして気楽におれるのでしょうか。怒り憎むことがなければ、人は気楽に生きられるのですが。

深い悲しみや、苦しみに耐えてこそ、喜びや幸せを深く味わい知る

 今年も、香り高き梅の花が咲く時節になりました。梅は夏に伸びた若枝「すわえ」に、翌春には蕾をあまりつけません、冬の寒風に吹かれ、そして夏の灼熱を超えて成長して、翌々年の春になって、その枝も太くなり、多くの花を咲かせるようです。

 寒風、灼熱に耐えて咲く梅の花は美しい、あたかも人が艱難辛苦をのりこえて、生きて、はじめて真の喜びを知るが如くであります。しかも、梅は、己が力だけで咲いているのではない、天地自然のさまざまなご縁のもとに、自然が総掛かりで美しい花を咲かせるから、梅一輪にも、暖かさが感じられるのかもしれません。

 柿の木も、幾星霜を経た枝になる実は、じつに甘い、自然が甘く実らせるのでしょうか。甘柿でも枝を切り払って、新たに伸びた枝になる実は渋いものが多いようです。だが数年を経ていくうちに甘い柿が実るようになります。渋柿も寒風にさらされると熟して甘くなります。

 寒風、灼熱に耐えて咲く梅の花は美しい。柿の木も、幾星霜を経た枝になる実は、じつに甘い。深い悲しみや、耐え難い苦しみに耐えてこそ、命ある、生きているこの上もない喜び、幸せを、深く味わい知ることができるようになる、そういうことかもしれません。


六波羅密の菩薩行の一つに忍辱行(にんにくぎょう)というのがあります

 人生においては、何事においても耐えることがどんなに大事な価値あることであろうか、思い返せばあの日、あの時、この上もない屈辱の中にあって、内心は激しく怒りと悲しみの渦を巻きあげておりましたけれども、こみ上げる怒りをおさえ、涙が今にもあふれそうになる悲しみに耐えて、じっと我慢の一時を過ごしました。

 後日不思議な喜びがわいてきました。あの時耐えてよかった、我ながらよく凌ぐことができたものだと、何かしら、自分がひとまわり大きくなって、我が人生に一段の深まりを感じる。
深い悲しみ、耐え難い苦しみを経験し、それに耐えて、のりこえることによって、はじめて、 生きること、 命ある喜び、ほんとうの幸せとはなにかが、よくわかるようになるのでしょう。

 「般若心経」では、波羅蜜多といって、彼岸に渡ることが、人生の目的だと教えています。凡夫の心の奥底には、いつも自分が大切と自己本位の想いが潜んでいます、自分の心を点検して、利己性を除くことが六波羅蜜の菩薩行です。
 六波羅蜜の菩薩行の一つに忍辱行(にんにくぎょう)というのがあります。いかなる辱めや侮りや苦悩(はずかしめ、あなどり、くのう)があろうとも、こらえて心を動かさないという修行です。なんともすばらしい行ではありませんか。

 ひらきなおって、耐え忍ぶ中に生きている喜びさえ感じられるようになれば大したものです。ひたすらに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ それ人生の全てです。喜怒哀楽にふりまわされてどうにもならないこの現実の世界が、毎日の生活そのものが、広くて自由な清らかな世界、すなはち彼岸なのです。

瞋恚は衆善を滅し、諸悪を生ずる極悪なり

 瞋恚は(しんい)または(しんに)と、単に瞋とも恚ともいい、怒りとも訳されます。瞋恚は、むさぼり(貪欲)・無知(愚癡)とならんで三毒すなわち、貧瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の一つです。いかり憎むことで、煩悩の中でも炎の如く最も激しくて、善心を害し、自己を見失なわせてしまいます。

 瞋恚(しんい)というのは、全身怒りの表情になって立腹することで、怒りによって自身の内にあるたくさんの善業が消え失せてしまい、いろんな悪をつくってしまいます。すなわち、自らの善業(善き生きざま)のことごとくが、怒りによって悪業(悪しき生きざま)に替わってしまうのです。したがって、怒りとはいけない悪の行為です。

 頭に十一面の相を表しておられる観音様がおられます。その十一面観音様は、やさしいお顔の慈悲の相をなさったお顔があれば、その反対には憤怒の相をされたお顔があります。瞋恚は怒りであり悪です、不瞋恚は慈悲であり善です。憤怒のにらみ顔(瞋恚)をされて、悪業を重ねることなきようにと、そしてやさしく慈悲の眦を垂れて、善業(不瞋恚)に励めとさとしておられるのです。

 不瞋恚の光明とは、屈辱やはずかしめを受けても、じっと耐え忍ぶことで、やがて柔和な表情となり、それが光明となって光を放つというのです。じっと耐え忍んでいると、。仏さまが光明を与えて下さるから、やがて光が向こうの方から射してきます。
 不瞋恚とは、そうした怒りのないおだやかな和みであり、それは、あたかも光明雲海であり、荘厳雲海のようなもので、光り輝く雲海のひろがる荘厳な大海原のごときものです。いかり憎むことなければ、人は気楽に生きられるでしょう。


戻る