2017年10月1日 第225話
             
不殺生

      十重禁戒あり。第一不殺生。
      生命不殺、仏種増長す。仏の慧命を続ぐべし。
      生命を殺すことなかれ。   道元禅師・教授戒文
    

殺生しない、殺生させない

 人類の歴史は戦争の歴史である。そういっても過言でないかもしれません。今も世界中のどこかで戦争が起きています。また戦争と関係するテロの誘発もまねいています。北朝鮮では核兵器とミサイルの開発がエスカレートして、世界中が懸念を表明しています。とりわけ周辺国の人々は恐怖にさらされようとしています。

 戦争やテロは人命に関わる重大な事態であり、命の尊厳を踏みにじる悲惨な行為です。戦争やテロが起こるたびに命の尊厳が叫ばれ、戦争の終結や紛争の回避、テロの未然防止のための国際協力が問われ、紛争解決のための努力がなされてきました。こうした平和を希求する人類の願いにもかかわらず、今も世界中のどこかで戦争やテロが起こっています。

 命の尊厳を踏みにじる悲惨な行為は戦争やテロばかりではありません。身近に起こっている、いじめやパワハラなども命の尊厳を罵倒する醜い行為です。いじめやパワハラは、受ける側では、人格を否定されるという苦しみに、心の傷が癒やされない悶々とした日々をおくることになり、自死という悲劇にいたることもあります。あきらかにこれは殺生です。

 この世の中は共生きの世界です。人のみならず生きとし生けるものすべてが互いに生かしあっています。人は生かされ合って生きている、この共生きの世では、自己中心の生き方をすると生きづらくなってきます。共生きとは命の生かし合いですから、生かし合いの世界に殺生はあってはならないのです。殺生しない、殺生させない、これが不殺生ということでしょう。

食べ物と不殺生

 食材を語るときに、殺生ということが話題になることがあります。また宗教上の理由から、牛肉、豚肉を食べないとか、健康上の理由から、魚介類は食べるが他の動物性の食材は避けるという人もいます。ベジタリアンであるから植物性食材以外は食さないという人もあります。

  私たちは生きるために「もの」を食べます。その「もの」は動物性であろうが植物性であろうが、食材はすべてが生きものの命です。他の命を食べることで命が生かされている。この世とは、どんな生きものも、すべて命のつながりによって生きています。すなわち食物連鎖によって、どの命も存在しています。それは他の命の死が他の命の生を保っているのです。

 それでは、食物連鎖であるならば、殺生ということがあるのでしょうか。地球上のすべての命の生滅は、すべての命の連鎖にもとずいているということならば、食物連鎖には殺生がないということでしょう。ところが人間に限ってはその連鎖を自然なものとしないことから、そこに殺生が生じるのでしょう。したがって不殺生が問われることになります。

 米一粒も無駄にしてはならない、「ご飯を炊く際には、鍋を自分そのものだと思い、米をとぐときには、水を自分自身の命そのものと考える」それは、「食とは命をいただくこと」を意味しているからです。にんじん、米、豆も、肉も魚も命です。命をいただくから、「いただきます」といいます。
 一杯の水は多くの動物や多種多様の植物を育てている宇宙のしずくです。大宇宙の生命力が地球のすべての生命を生かしている、その事実に感謝することが「ごちそうさまでした」ということでしょう。

懺悔とは、不殺生なり

 2500年前のインドにおいて、お釈迦さまは乾季にかぎり遊行されました。そして、お釈迦さまの僧団は雨季には一ヶ所に集まって建物の中で修行しました。これは、虫の活動が活発になる雨季には無意味な殺生を最小限にするという意味もあったようです。それで、極力外出や歩くことを控えられたのでした。不殺生を生きることが修行の根本にあったからです。

 禅宗では信者からの施食によって露命をつなぐことが建前です。それで食事については常に感謝の意を表し、食事を受ける者の反省と向上の誓いを述べます。また、受けた食事を餓鬼にも分かち与えるというしきたりがあります。インド伝来のもので、食事に先立ってご飯粒を7粒ばかり卓上に置く生飯(さば)や、洗鉢(食器を洗う)に用いた水を半分自分が飲み、半分を餓鬼のために折半します。こうした食事においての姿勢は、すべからく不殺生の精神を常に忘れないようにということから行じられています。

 現実の地球環境は日々刻々として変わり続けています。人口爆発が食料問題や大気汚染を惹起しています、戦争やテロが尽きることなく繰り返されています。それで地球環境が破壊され続けています。
 国の統治において、民主主義でも命の尊厳を守れないことがあるのに、一党独裁や軍が国家権力を握ると人民は限りなく抑圧されてしまいます。そして地球規模での不幸をもたらしかねない殺生をまねくことになります。

  嘘偽りもごまかしもなく、もとよりあやまちもなく不正もないことを「戒」といいます。山河大地、山川草木、大自然は、嘘偽り、ごまかし、あやまちもなく不正もないこの世の真実真理そのままです。人間は真実真理そのままの森羅万象の中に生きていながら、自らそのことに気づかず、嘘偽り、ごまかし、あやまち不正の生き方をしてしまいます。
 この世はすべての命がつながって命が生かされている共生きの世界です。すべての命を生かすことが「不殺生戒」です。人には慈悲心があるから懺悔できます。懺悔によって人は不殺生を生きることができるのです。

不殺の生
 
 殺生とは生きものを殺すことで、生命あるものを殺すということは仏教の罪のなかで、最も重いとされています。生きものを殺してはならないという「不殺生戒」は十戒の第一にあげられ、出家はむろんのこと、在家者もこれを犯してはならないとされています。

 道元禅師が、ご本師、如淨禅師から伝承された禅の教えにもとずく戒法の神髄を説いた教授戒文に、「十重禁戒あり。第一不殺生。生命不殺、仏種増長す。仏の慧命を続ぐべし。生命を殺すことなかれ。」とあります。
 人には自性清淨心といわれる仏性仏心が本来具わっており、戒法とはその覚醒をすることです。それを修得することが仏道です。

 いただいた命は尊く、その命の尊厳を傷つけたり、殺したりすることはできません。だから不殺生とは生あるものを殺さぬと読まないで、「不殺の生」殺しのない生、「殺」という文字すらない「生」のみの生、これが不殺生です。

 不殺生とは、ただ殺さないというだけでなく、その生命をより良く生かしきるという積極的な意味をも含んでいます。しかしながら現実の世には無数の「殺」があります。人類の歴史において殺しのない日は一日としてありませんでした。未来において殺しのない日があることを願いたい。

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