2016年11月1日 第214話
             
性に任じれば道に合す

     ただこれこころざしのありなしによるべし、身の在家
    出家にかかわらじ。又ふかくことの殊劣をわきまうる人、
    おのずから信じることあり。いわんや世務は仏法を
    さゆとおもえるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、
    仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。
                            正法眼蔵弁道話


     (出家であろうが在家であろうが、物事の優劣をふかく考える人は、
     日常に仏道修行することを専一にする。世俗の務めは仏法をさま
     たげると思うものは、世俗のなかに仏法はないと思い、仏法のなか
     では世俗として区別するものがないことを知るよしもない。)

         

生かされているから、生きている

 「今朝、私は線路に立っていました、そこへ駆けつけてきた彼が、私を線路上から連れ出してくれた。私は死ぬことができなかった。死んでおれば楽になっていたのに、生きていける自信などないのに私はどうすればよいのでしょうか。」そんな相談がありました。
 その人は鬱病で10年間苦しみ、自分の彼氏の存在が心の支えとなって生きてきたが、あることでその彼を失ったと思い絶望し、その切なる想いを彼に伝えたのだが、話しの内容から悪い予感を感じ取った彼が翌朝、彼女のところに駆けつけた。そして線路上の彼女が彼氏に助けられたということでした。

 生きていたいという気持ちがある反面、生きていくことができない絶望感にさいなまれて、自分は線路の上に立っていたという。でも、死んでいたら本人は楽になれたかもしれないが、身内の者や彼にすれば、死なせてしまったという苦しみを引きずって生きていかなければならなくなる。そうでなかったからよかったと思わなければいけないのでしょう。

 呼吸することは空気を吸うこと吐くことで、空気中の酸素をいただき炭酸ガスを吐きます。植物は炭酸ガスと太陽の光と水で光合成して成長に必要な栄養分をつくります。そして、その過程で酸素がうまれ、それをいただくことで人は生きていける。
 このように植物と人は生かし生かされあっています。この世とは、植物と人のみならず生きとし生けるものみなが共生きであり、ことごとくが関係し合って存在しているところです。だから、生きていることは生かされているということでしょう。どんなに悩みが深刻であっても、この世は共生きであることを識れば、孤独の深穴に落ち込むことはないでしょう。

 ことごとくが関係し合ってすべてのものが存在している、そういうこの世に生まれてきたということ、そして生かされているということは、存在すべき何かの必要性があるから、生まれてきて、そして生かされているのでしょう。どんなことで自分をこの世の中が必要としているのか、その必要に合う生き方をしなさいということで、だれもが生かされているのでしょう。
 死んでしまえば終止符のピリオッドですが、今、生きていることは人生の進行形ですから、いつでも句読点のコンマは打てる。愚僧へ相談してこられた彼女もひとまずコンマを打って、新たな人生の現在進行形とされることを願っています。生きていくという進行形には常に不安や悩みがつきものです。それで人は宗教に寄る辺を求めようとします。

日常生活そのものでなければ、それは宗教ではありません

 ある宗教の布教者が自宅に来られて、自分の信仰する宗教の話をされた。誠実そうに見えるその布教者の話しに耳を傾けているうちに興味をもつようになりました。そして何度か布教所に通うようになり、自分も布教者の一人として家庭を訪問して、その宗教を説いてまわることになったのだという人があります。

 また知人からの誘いがあって、ある宗教の会に出かけてみた。大勢の信者さんが熱心にお祈りをされておられるところに何度か通うようになり、そこに自分が身をおくことの違和感もなくなり、雰囲気にも慣れてきた。しだいにその教団組織に所属することに安心感をもつようになり、教団の信者となった。このようにして宗教に入信される人もあれば、疑問を感じて身を引かれる人もあるでしょう。

 日常生活において精神的に不安であったり、体の不調を感じたり、満たされない思いがあれば、人は安心感を得たいがために他に救いを求めます。それが知識能力の向上を目指す教室とか趣味やスポーツの会であればよろしいのですが、宗教や政治がらみのところであれば、その人の日常生活や家庭をも変えてしまうようなことも起こりかねません。

 宗教とは、教義や教団の力で世の中を変えるというものではありません。あくまでも自分の生き方を変えることで、幸せを願いもとめるものです。また特異な体験をして特別な能力をつけることでもなく、一心に名号や題目を唱えて陶酔境にひたることでもなく、瞑想して妄想の闇に身を隠すということでもない。日常に自分の生き方を変えることで悩み苦しみをやわらげ、やすらかな生活ができる。日常生活そのものでなければ、それは宗教ではありません。

性に任じれば道に合す

 どんな人でも精神や肉体にいささかの不安を持っています。それで日常的に苦しみや悩みを感じながら生活をしています。そこに仕事や家庭、人間関係、災害や事故、病気、近親の死亡などからくるストレスが加わると、悩みはより深刻なものになり、心身ともに萎えてしまい、日常生活ができないような状態になってしまうことがある。自身の足がいつもしっかりと地についていなければ、気持ちが不安定になってしまうでしょう。

 だれかに相談したり、悩みを聞いてもらえればすこしは楽になるでしょうが、根本的な解決にはなりません。それで、人は心のやすらぎや精神的な支えとなるものを宗教に求めようとします。また逆境を克服しようと向上心を奮起して、人格や知識能力の向上を目指す人もある。それが適合するものであれば悩みや苦しみも払拭できるけれど、人によっては満足できずに、かえって心が折れてしまうこともあるようです。

 日本人は古来より命の源である先祖を祀ってきました。命の源から今に到る命の流れと、その命を受け継いでいることに、尊崇と感謝の念をもって先祖を祀ってきました。先祖祀りは日常の生活そのものであったから、あえて宗教という認識すらしなかったようです。そして先祖を祀り続けることで安全安心の加護があると信じていましたから、生老病死や災害なども自然なこととして受けとめることができました。しかし現代の日本人は先祖にたいする尊崇と感謝の念が薄らいでおり、日常に不安心や悩みをもっている人が多くなってきたようです。

 迷える人はことごとくに執着してしまうから、まずは自分に正直でありたいものです。直心を行ずるとは、あらゆるものに対して執着することのない自在な心になることです。あたかも水が何の滞りもなく自由自在に通じて流れるような、そのような心のあり方をいいます。 悩みというものは自分流に考えるところから生じるようです。この身このまま、ありのままということを性というが、性というのは無限の過去から無限の未来にわたって、少しも変化しない、たったひとつの真実真理のことで、その性に任さないから自分で苦しい思いをしてしまうのです。それで自分に正直にして執着しなければ「性に任じれば道に合す」で迷うことはない。

人生の標準時計

 この世の真実真理のことを、お釈迦さまは正法眼蔵涅槃妙心(仏心)といわれた。その真実真理の現れを本来の面目(仏性)という。本来の面目とは、人ならば本来の自己であり、真実の自己です。人は生まれる前も、人として生きている今も、死んでから後も仏性そのものです。だから人は生まれながらに仏性がそなわっており、そのことに目覚めて、仏心に違わぬ生き方をしなければいけないということです。宗教とは真実真理に目覚めて、日常生活において真実真理に違わぬように生きることで、これを真の信仰というのでしょう。

 その真実真理の生き方とは、日常生活において利他の願いを発し、利他を実践することです。共生きのこの世では、自分の幸せを願うならば他を幸せにしない限り自己の幸せはない。これがこの世の道理ですから、自分のことで精一杯で他の人のことまでかまっていられないという人は、いつまでたっても幸せになれない。自分本位の生き方でなく、他を利する生き方でなければ、共生きのこの世では生きていけないのです。自他の区別がないことを同事といいますが、その同事行が利他行です。真の信仰とは、他を幸せにしたいとの願いに生きることでしょう。

 真実真理の現れである本来の面目(仏性)はもとから人々の上に豊かにそなわっているから、修行することで現れる。修行がそのままに本来の面目(仏性)の現れであるからです。そして本来の面目(仏性)は自分自身の標準時計です。この標準時計に合わせれば、自己を見失わず、足は大地を離れずに生きていけるでしょう
 人生の標準時計には三つの針がある。短針は自性清淨心です。本来の自己、真実の自己の覚醒を指している。長針は慈悲心です。共生きの世での利他行を示している。秒針は命の鼓動です。それぞれの針は今を指し、生きている命の一瞬を刻んでいます。

 宗教の宗とはこの世の真実真理のことであり、その真実真理の教えが仏法です。自分の生き方を仏法という標準時計に合わせて、あるべき生き方をなし、あるべき生き方でないと思えば、生き方を変えればよい。自分の生き方を変えれば生きる楽しみを知ることができる。その生き方が他の人の気持ちのありようにも影響して、他も生き方を変えようと思うようになる。生まれてきてよかったと常に思える生き方ができておれば、その人は悩みも苦しみもなく、幸せであるということでしょう。

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