寺  内  町 (じないまち)

じないまちの起こり

じないまち・富田林が産声をあげたのは16世紀半ば、戦国時代のことです。「杉山家」に伝わる文書には、<本願寺一家衆興正寺14世紀の証秀上人が富田の荒芝池を百貫文で申し請けたこと、周辺の4か村(中野・新堂・毛人谷・山中田)から集めた人々に開拓の指揮をとらせたこと>が記されています。
 当時、河内は主戦場のひとつでした。じないまち・富田林には戦乱の世に生き残るための知恵が随所に生きています。外周には土居を廻し、竹を植え、四方に門を置く。この門は朝夕開閉され、町を守る役割を果たしました。また町割は六筋七町。道と道は「あてまげ」といわれるように、角でずらして見通しを妨げています。
こうした町造りの工夫に加えて政治的な努力もなされました。戦乱の時代ゆえ、領主の交代がめまぐるしく、芝池代金を領主に納めたその手で、次に乗り込んできた武将方へ「酒樽四十と肴三種を祝いに届ける」といった配慮がなされました。永禄五年(1562)、三好山城守へ納めた五貫文を最後に、土地代金納入問題は解決し、永禄十一年、証秀上人は歩き出したばかりの富田林を見ながら隣村毛人谷で入寂なさったということです。やがて江戸時代には、酒造衆を中心とし木綿問屋、紺屋染物衆、油屋など軒を並べ活気ある商衆の町へと変貌を遂げていきました。

旧杉山家(重要文化財)

 富田林寺内町でもっとも古い町家建築を持つ旧杉山家。寺内町の創立に関わった八人衆の一人杉山家の歴史は寛永21年(1644)江戸中期以降、造り酒屋として財をなし、町割りの一画を占める拡大な屋敷地の中に主屋・酒蔵・土蔵など十数棟が軒を接して建てられており、最盛期には70人以上が働いていたそうです。屋敷内部の造り一つ一つにも贅が凝らされ、日本建築文化の粋を集めた建造物と言ってよいでしょう。昭和58年(1983)、富田林市はこの旧杉山家を購入し国の重要文化財に指定されました。
休館日 月曜日 入館料400円

石上露子(いそかみ つゆこ)
 富田林寺内町が生んだ歌人、石上露子。
 石上露子、本名杉山タカ(孝子)は、明治15年(1882)6月11日、富田林寺内町随一の旧家杉山家の長女として誕生しました。杉山家は、室町時代に寺内町開発にたずさわった「八人衆」の系統を継ぐ家といわれ、江戸時代に酒造業で財をなし、タカが生まれた頃には、杉山家所有の土地は町内ほか10か村に及び、およそ57町あまりもの田畑から納められる年貢で威勢を誇る、南河内一の大地主でした。
露子は最晩年、次のような歌を残しました。
現しょうの
 ゆめよりさめ七十路の
  いまはしづかに

   暮るゝまたまし
いしかはの
  さゞれの上のゆふちどり
    わが名によそへ   
    人もこひしか
 
人の世の

  旅ぢのはての夕づく日
   あやしきまでも
    胸にしむかな