7年09月24日          
09年10月3日 新たな世界へ

あの日から3年の日が過ぎ、ずいぶん老化をしてきたなと、
思い当たることを感じる機会が増えたえたような、
働き過ぎると体が言い始めたような。

 余暇を作らない事で逃避して来たのも事実で、
もうそろそろ休もうかと

子供の頃は素直すぎるほどの子でも変身するもので、
まったく他人の意見は聞き入れず
とうとう6月の誕生日前に、憧れの地ロンドンへ旅立っていった彼女の弟 。

 彼は中学生の時ケアンズへ旅行した事がきっかけで、植民地支配をしていた
イギリス文化に興味を抱いていたようで、

姉のほうはTDLでミッキーも参加して
お誕生日会をしてもらったことがきっかけて、アメリカに夢を求めて渡米したいとか
言ってましたけど。
 やはり思春期の出会い経験は生涯を左右する結果に繋がるようで
私も若き日パリで過ごした1ヶ月が今の生活に影響を与えたのでしょうか
同時に二種類ほどの生き方を選択出来れば良いのですが。

彼とはそれほど頻繁に連絡は取らないのは、ネットのお蔭で
世界のどこにいようと、何時でもコミュニケーション出来るという安心感が
 あまり距離を感じないのは、そのせいなのかも、

実は1万6千キロもあるのに、
 怪我でもしたらどーすんのですか。
 また 助けてあげられなくなる。

そんな親の気持ちなどはお構いなしで、マイペースに自分ライフを楽しんでいるのなら
一度だけの今を、見守ってやるほうが良いのか、。
少々小言を言うべきなものか
 これも何年か後の結果を予見出来れば、何も心配の種はないのですけど

どうやら私には、10年ほどの間隔で将来を左右するとこに遭遇しているような事が、
 業の分岐 人との離合集散、 
新たな方向へ、自分も転換する予感があるのですが、
 もう戦う気力はあまり無くて
今は無理な変化は避け、出来れば自然体で静かに過したいと思います


07年09月24日
20:33
 それぞれの思いを胸に

思えば前回来た時から、まだ一年半でした
                 
 祖母の三回忌を前に昨年4月15日、その足で家とは逆方向の東京経由で帰ったのが。
あの時会ったのが最後になることなど知るすべもなく、涙に明け暮れた一年でした。

 この頃では、一時期の激しい寂しさは少し落ち着きを取り戻しつつも、ひとつひとつの事が思い出の
なかで悲しく薄れてゆくのがまたこころに寂しい日々です。

9月23日、よく喧嘩していた弟、絵を描いていた子、癒してくれた子、デザイナーの子、見守ってくれ
てた叔父さん、奥さんと私。

 それぞれの直子への思いを胸に本山光明寺へ納骨をすませました、
 どうせ気休めにしかならない事くらい分ってます、法然上人と共に永眠できる事が一番のその後の
幸せと思いたいのは仏門に暮らす人が思うことかも知れません。
 
 何もしてあげられない私たちには、先人に導かれるままに、こんなことしか出来なくて

一年が過ぎ、語らずも相察する事ができる心の内の想い。

 これで一応の行事が済んでしまいました、次に会うのは何時なのでしょうか、
心からの笑顔が戻る日は来るのでしょうか

2007年06月25日
 いつか会える日が
倶 会 一 処 〜 ( く え い っ し ょ )
平たく解釈すればこれは ともに一つのところで会うという意味のようです。
再会を約束する言葉。
 
もうひとつは、浄土宗の往生の利益の一つで、極楽浄土に往生したものは、
浄土の仏・菩薩たちと一処で出会う ことができる、という意味の使い方がもあり、
どうやら後のほうがプロ集団の解釈のよう。

 別に細かいことはどうでもいいとして、
生命を持つものは両親を縁としこの世に生を受け、尊い命を生かされて生きているということ。
 短い人生に於いて、沢山の出会いがあり、別れがある。

愛する人と離れ離れにならなければならない苦しみ、愛別離苦。
憎しみ怨んでいる人にも遭ってしまう、会わずにいられない苦しみ。

 合いたい人に会えないほど辛いものはないものです。

 浄土真宗の教えの中で仏説阿弥陀経というお経の中に、
倶会一処というくだりがあります。
「この娑婆世界では一旦離れても、またお浄土で再会できますよ。」 という お経

で 。そう 信じて 叶う日が来ることを待つことにします 。

来月19日に建立予定で 倶 会 一 処 と言うタイトルの石碑をオーダーしました

 墓なんかは悲しすぎて作ることはできません。
そこで、我が家の先祖代々の墓に未だ刻み込まれていない十五代からの6名分4基を撤去することで少し広めの場所を確保して建立します。
 
 ということで、納骨しなおす人を含めいきなり7名でのスタートになり少しは寂しさが薄らぐ
とか訳の分らない妄想を浮かべつつ、住職の都合で7月28日になった第一回記念日に向け

心の準備を整えつつ 後はこの日を耐え切れるかの試練が。

2007年04月16日
  思い出になってしまった日
とりげん4月14日

東日本橋だと思って探してみたら、馬喰町でした、

 去年の4月15日に大きい人と直子、奥さんと4人で昼食を食べたのが

最後でしたから、その日同じ店に行けば来ているかもしれないから

14日同じ時間に同じメニューを注文してみましたが、一日早かったせい

なのか、あの日が最後だったことを忘れてたのか、待ってても会いに来て

くれませんでした。

 もうあの日から一年が過ぎてしまいました、暖かくなるにつれあの夏の日が

一日刻一刻と近づくのが不安になります。

 特に何かが起きると言うことはないのでしょうが。

黙したまま食事を終え一番親しかった友達のH e さんにメールで帰ることを告げ、

その場を後に自宅へ向かうこことにしました。

あの場所へ行けば会えるかもしれないと思って、あれから

この日がくるのを待っていたので残念でした。

2007年02月05日
22:58
  2月に思うこと
去年は日本海側が大雪で。

 福島市に古く父から引き継いだ取引先があり、ほかの用もあったので

今年は冬の間にどうしても行こうと心に決めていて。

 道路に雪が無くなる日を待って無謀にも一人で自宅から850`

夜のドライブに出かけたのが2月20日。

 奥さんの心配をよそに気分はわくわく、割合順調に佐渡島が見えるあたりまで一気に

500`ほど、一度高速を降りてファミレスでのんびり夜食。

 その後深夜の冷え込みで外気はマイナス8度、少し滑る感じがするので

低速で新潟市から福島市へ山越え、高速の両側が雪の壁で風景が何もない中、

早朝5時予約していたホテルに無事チェックイン。

 丸一日offでしっかり休養&市内リサーチ、東北の人って

話し方がゆっくりした口調で丁寧な感じで、私の取引先の専務とは大違い、

関西人からするとすごく遠慮したように感じます。

 次の日3箇所にアポしてたのを計画的に済ませ、昼前

 直子にрナ、これから行ってもいいかなーー。って

 急遽予定変更、夜予定あるて言うから福島市から東京まで

400`一気に走って4時過ぎ東日本橋のマンションにゴール。

 その時はまったく元気で、仕事やめた事、知り合いの会社で゛

アルバイトしながら新しい仕事探してるて事。

 どこへ面接いってもその場でお願いされちゃう、て事 とか、

前の会社で働きすぎてしんどかった事、ちょっと帰りたい事、とか2時間ほど一生懸命話して。

 予定あるからて言うから何かと聞くと夜、面接が一個あるらしい、

じゃ一緒にいこって雨降ってたので車に住所入力して出発、同じような所くるくる回って

すぐ到着、待っててあげるから休養がてら一緒に帰ろうよ。

 少し説得したけど明日も面接あるからって、その場で別れました、

この時に行ったのがモーションインプレスで彼女の最後の勤め先になった所でした。

 あの時一緒に一時帰ってたら少し運命変わっていたのでしょうか、でもね。

 生きたい道を誰も指図は出来ませんよね、私にはあの子の可能性のようなものを

感じてたから自由に何処へでも羽ばたいたらいいと思ってたから。

 今また弟が東京目指そうとしているのですが、スタイリストらしい、

今度はやめときなと言うかもしれない

2007年01月16日
22:27
 もっとましな機械ないんですか
  人工心臓はいずれかのタイミングではずさないといけない 

 からいつまでもこのままと言う訳にはいかない。

 なぜ、自分の心臓が元気に回復するまでゆっくり養生すればいいじゃない、

て 思ってました。

  ここのICUの入院期間は二週間ですから、その後他での   療養になります。

 なぜ、せめて歩けるくらいになるまで入院させといて下さいよ

  こんど不整脈がでたら、だれも助けてあげられませんから

じゃ、不整脈出ないようにしてくださいよ。

最初から解ってたんですよ、病院の人たち。

 人工心臓って、足の静脈から心臓までつながってて 

血液逆流させて脳の中心だけにしか血液送ってなかったんです、

とにかく脳を守るための機械で、他の臓器とか手足なんか全然血が通ってなかったんです。

あんなどでかい機械なのに。

心臓も腎臓も肺も機械が正しく動かしていてくれるから

そのうち自分の力で動けるようになるから、そんな心配しなくて大丈夫。

 勝手に思い込んでました。

一日が限度らしいですね、後になって言われても困ります

もう四日目でしたから、医師たちも仕方なし外したんですね

私なんかは、自分の心臓が動きかけてきたのではずしてみます

って言われたの間に受けて、人工心臓外して自力で血液送ってるて聞いたときは

もうこれで回復するっと思いましたから。

 強心剤のせいで動いてたのに、その後あの子かわいそうでした、

何日も血が通ってなかった臓器に血液が行ったからなのか

輸血のせいなのか、高熱のために氷のようなベットに寝かされ

熱がさがったら顔色悪いし

 あのICUで二週間以上入院しない理由がその時わかりましたよ。

 それじゃ25年前の父の時から大して進化してないですよ。

 ずっと使える人工臓器でなければ意味ないです

2007年01月08日
22:29
いろいろな年始

年始はいつも、渋滞を避けてあまり外には出ないことが多かったように思います

だいたい近所で初詣をすませて、奥様の実家にご挨拶はそこそこにお年玉集め、と。

後は必需品程度の買い物くらいで質素なもんでしたね

 そんな中であの子が高校1年の時は、みなべロイヤルホテル

のスイートに家族で雑魚寝したこと、高校3年の時沖縄のリゾートホテル、

ここも大きな部屋で雑魚寝しました

それと東京に住み始めた年に箱根プリンスホテルへ行ったくらい、

後は何処へもいかなかったのか忘れたのか記憶には残ってません。

箱根プリンスへはたどりつくのに早朝出発したのに着いたら

真っ暗。どーしよーもなく渋滞ばっかり選んで最悪の遠回りで

行きましてヒドイめに合ってしまいました

確か朝暗いうちに車で出発して奈良法隆寺に初詣を済ませて

その後静岡あたりまで順調だったのが、渋滞にぶつかり選んだ

湘南バイパス経由が大当たりの渋滞でまったく進まず、

ほぼ半日 富士山見てすごしてしまいました。

その後の箱根もちょうど箱根マラソンの日で大渋滞もう最悪

そんなこんなのくたくた道中で、なんとかホテルのディナー

にぎりぎりセーフ 。食事しただけで部屋へ

この日はだいぶ前に予約したにもかかわらず本館が満室で

コテージに回されてたのは承知してたのですが、このコテージ

地盤沈下で床がゆがんでたんですよ、ドアが何だか僕が作ったような少しズレてるし、

まあ疲れていたからよく寝ましたけど

翌朝外にでて霜柱に感動。

見たことないような、5cmほどのコケに霜がびっしりでコテージの周りの林の中に

一面が芸術的な美しさ、吐く息が白くなるくらいのキーンとした

空気の中で洗われた気分になったのを

今もあの景色を覚えてるくらいよったです

床がズレて居ごこち悪かったのは文句いわず良い気分でホテルを後に、

箱根神社で大きな縁起ものの熊手買って東京へ行ったことも良い記憶です

また寒い時にあのコテージ行ってみようと思います

2006年12月26日
22:01いつもなら

あさってくらいには帰るよん。

  11時の関空だからねー。

って感じのメールが来てる日ですね、今晩か明日の朝くらいには。

 いつも年末には28か29日に帰ってその日はレンタルビデオ何本も借りてきて、

朝方まで二人でコタツにもぐりこんで見ていたのが、ここ数年の年末。

 だいたいは私の趣向に合わせてもらって近未来ものの洋画、

大変だったのは大好きなダークエンジェルを一気に12本見て朝になった時でした。

 めったに夜更かししない生活を送ってますから次の日ふらふらで、

ユニクロ行って、めっけもん広場の店片付けいったのはもう3年くらい前かも。

 ここ2.3年は商品が多くなり積みきれなくなったので大きい貨物車で

私が片付けに回るようになって、恒例の皆でユニクロはごぶさたになってます。

そのせいかなユニクロっぽい服は最近我が家からあまり見かけなくなったのは。

 今年のは何を借りようか思案中、一人で朝まで何みよかな

前スパイダーマン面白かって言ってたのでまず1本、あとは店で適当にきめよか

2006年12月22日
21:58 ぶつぶつひとりごと

ぶつぶつ。後悔したらだめ

 その時どきの判断でそれが正しいと思って行動してきたこと

だから、たとえそれが間違いであっても後で気づくことだからその時に

迷いながらも導きだした結論であればそれはそれで正しかったと思うしかないです

 大阪へ行ったこと、東京へ行ったこと、デザイナーになったこと、

ともだちと住んでたこと、都心へ引越したこと、大きいひとと結婚しなかったこと、

別れたこと、会社変わったこと、無理してがんばりすぎたこと。

 いつも相談するふりして、もう決めてたのに事後報告みたいなもんやな

僕と一緒やからしょうがない。

 また一緒に住みたいよ直さんって言ったらもうちょっと待ってって言ってたけど

いつ位のつもりやったのかな。

2006年12月12日

20:30 4ヶ月経ちました

8月12日午後8時30分

 あれから4ヶ月になります。時間が経つのが早かったのか

遅かったのか毎日毎日そのことを想う日々が続いてます

 最近はもう戻らないことを、しみじみ噛みしめるようになりました

どうしようもない事を実感として身に心に感じ取り、

現実を直視できないまでも、ほぼ認めざるをえないといったところでしょうか。

最近自分なりに決めていることがあるんです。

 墓はまだデザインが決まらないので、しっかりと考えたいと思うので

まだ来春は無理なような気がかるけど、いいんです墓なんかいつでも、

好みのデザイン思考錯誤してるんです。

 7月31日を1周忌として法要を実施。

 (このときは家族親戚で普通に)

 9月23日に京都本山へ納骨。

 (ツアーします。大きい人もよびます。ヒサエさんもよびます)

 この秋の納骨を自分なりに直子との別れの日と決め

 その後は残された人生を一生懸命 いきようと

2006年12月04日
23:53
  あの日

あの日は早朝から配達に出てたので、いったん帰宅して

 財布にお金入れて奥様連れて、mさんにじゃあね行ってくるからねって

出たのがもう九時半、電話かかってきてから1時間後のスタートでした。

 まずは関西空港目指して阪和道からANAに電話したら今からだと

午後の便しか飛んでないとのこと急きょ伊丹空港に問い合わせたところ

一時間後の便に空席あり、予約したのが大阪との県境付近で通常なら絶対むりな時間、

なんとかする。

すごいスピードで羽曳野市付近でもう時間がない、飛行機はキャンセル

もうこのまま名神東名行くしかないけど夏の繁忙期で疲れがたまってて。

 あと10日がんばったら直子帰って来てくれるからもうちょっとガンバロって

その日の朝思って配達出たくらいやから相当 疲れがたまってたんですよ。

 だから集中力をどれだけ維持できるか相当不安でしたね

とにかく高速走行しながら新大阪駅は方向違ってるから京都駅

なら新幹線に乗れるかもしれない、近くに目標を変えて目指した、

京都駅なら名神乗ってしまえば30分あれば行ける。

 駐車場探してたら時間ムダになるから奥様だけ先に行って、

"私一人でムリ" わかったもう東京までいくよ。11時

 直子が東京へ行く前から取引先が関東でしたので、車で何度

も行ったことはあったのですが和歌山、東京は670Kmありますから、

長距離トラックのドライバーでも8時間以上かかります、昼間だと10時間、

今から急いでも夕方7時半くらい。

 そんなユウチョウなこと言ってられません、とにかくガンバルしなかい。

 フェアレディという車はその気になれば200Kmは出る、

でもね年が年だけに運動神経がついて行かない。

 とにかく急いで。

名古屋から浜松は、去年大きい人と家族でオークラシティホテルから

愛知万博の会場まで往復した道、その時のこと思いながら、直子待ってて、

ガンバレ、もうすぐ行くよって何度も何度もいいながら。

 長いながい道のりをどうして走ったのかもう忘れましたが

足柄サービスエリアでトイレと水分補給、普通なら足柄温泉に

入ってリフレッシュするんですがもちろんノーサンキュです。

 足柄温泉は直子と3回休憩しました、高校卒業前、弟と一緒

その次はHAL2年生の時引越しの途中休憩、あの時も暑い夏で

すごく大変やったな、それと東京で生活始めた年の冬だった。

 このとき悪い予感がしてたんですけど、そんなことは絶対ありえない、

うちの子に限って絶対大丈夫、そんなことは考えない、もうあと箱根の山越したら横浜、

がんばれ直子。

 救命救急へ電話しても電話では病状は説明できないから、

とにかく急いで来て下さいと言うだけ、東名東京をでて首都高速

に入った途端に渋滞、一時間近く動かない、もう少しなのに早くいきたい。

とうとうクラクション鳴らしてむりやり追い越し

 やっと病院の二階に駆け上がったのがもう4時すぎてました

高速道路でヘッドライト点けてクラクション鳴らしながら

 急いでる車みかけたら進路譲ってあげて下さい

2006年11月08日
19:53だんだんとスカイハイ

12月が近づくにつれ、晴れの日は空が一段と青さを増しています。

 まさにブルースカイ、スカイハイです。もうすぐ年中で一番

美しい空の季節がやってくる、晴れの日を1日1日積み重ねて

あとひといき、もうちょっとですね。

 澄みきった空にぽっかり雲が二、三個、毛布でも敷したら乗れそうなのが

ゆっくりのんびり浮かんで、空はのどかな一日でした。

 不安定な精神状態が続く中、業務に追われる日々

こういう空気が一番からだに良いのかもひとときほっとしたような。

 8月にリフォームした部屋の主人が帰るのを

毎日毎日、待っても待っても、ペンの場所ひとつ変わらない。

 帰ってきた気配もない。

 いつまで待てば、何か結果がでるのでしょうか

もうすぐ10日

2006年11月10日
22:0925年目
               

この世に命をうけて25回目の誕生日を迎えました      

 中学生からの親友が仕事を終えてから来てくれました

こみ上げる感情を抑えられず、涙の対面でしたが元気な頃

の話に、日頃沈みがちなこころを和らげて頂き

子供たちの友情を大変有難く感じとりました。 また来年
                    

2006年10月31日
22:39季節はずれの確定申告

自営業にとってやはりキライなものベスト3には、おおかた

入ってると思う、税務署行ってきました。

 若い頃たぶん19の頃から父の代理で家業の会計してましたから、もう30年。

 以前は税務署への申告は税理士にお願いしてたのでほぼあなたまかせ

おきらくに今回はいくらくらいで収めといてってかんじ。

 でもね、事務費がだんだん高くなって来て10年前で年間

80万ほど税理士報酬払うようになってきたので、自力で

年2回確定申告するようになったんです。

 通常の3月の個人は簡単にすませられるんですが

会社となるとなかなか大変で当初は何日も机にかじりついててヘルニアになったくらいです。

個人と法人を別々にする合理性がなくなり、現在個人営業に併合

その会社も昨年末解散届けを出して現在清算中の確定申告。

 結了するにはかなりの税額が発生する可能性があるので、

まだ数年かかりそうな感じ、

 何年か前もういらない会社を休業状態にしておいて、そのうちオフィスなおこ。

 に変身させて、やってみよかって、時々話してました

自分で何かするんだったら、レシートとか領収書はノートに

貼り付けときなよ、それだけあったら何とか書類つくれるから

 言ったとおりに

直子の事務用品のなかに、領収書をノートに張りかけにしたのがありました。

 給与とは別の収入あるから来年から確定申告します。

そんなことを、僕が消費税の申告書作ってるとき電話で話してて、

この子はやっぱり僕の子で普通に会社員ではすまないんだな

苦労するのにやめときなって口では言ってもなぜか うれしくって、

のりのりで夢物語をしゃべってました

 会社を作るのに又1千万かかるから、休業のままにしといてやろうと思いつつ、

先に解散したのも何かの因縁ですか。

私自身は、行きたかった学校へも行かず18から家業を継いだのですが、

辛抱して受け継いだ反動からでもないのですが、多少はあります。

 受け継いだ時とは全然違う仕事に変身させて、

失敗ばっかり苦労が絶えないのですが、与えられた環境の中でどうにか

オリジナルなものを目指してきたので、大変でも、いつも悔いはありませんね。

 そういうとこは一緒だったな。なおさん。

来年春、確定申告一緒に行きたかったな

10月24日
2006年10月24日22:32

 去年の今日わたらせ温泉へいっていました

 ここの温泉は、ここ数年母と二人で年に数回定期便のように

ハマッている温泉です。

 機会あるごとに一緒に行こうと話していていたのですが、

後にも先にもこのとき限りでした。

 全部の露天風呂行ったわけではないのですが、ここの露天風呂は

なかなか味わえないロケーションと圧倒的はおおげさですがスケール

も大きく関西では一番良いと、そう私が思って時間があれば癒されに通う所です。

 この少し前9月5日に不整脈が出て救急車で運ばれていたことを、

どうして話さなかったのでしょうかね、渡辺さんも何で報告してくれなかったのか。

 言ってほしかったですね、必ず結婚しますからって言うから一緒に住むのを許可したのに。

 もっともっと責任感をもっててもらいたかったですね。

 珍しく長期休みを取って帰ってきて、本当は相談したかったんだろうけど、

また倒れたなんてバレたら、仕事なんかやめてすぐ帰れって、言われると思ってたんでしょうけど。

 母はそう言うかもしれませんが、私は他の対策を考えたと思いますよ、

 医療の方法とか、仕事のやりかたとか。

 親っていうのは究極の"みかた"

何があっても子供のことをまず第一に考えることを、もっと

理解しといてほしかったですね。

 今年は初夏からごぶさたしてたので先日行ってみましたが

空虚でしたね。

 どこへ行ってもあの子と一緒の時のことしか考えられなくて

 まだまだとうぶんは後悔後悔の日々が続くなか

たまにこころ分かちあえる時、ほっとひと息つける瞬間を

感じられることもあるようなったのは、時間のせいでしょうか

2006年10月20日
20:59 去年は7回でした

むしの知らせとかっていうこと、あるのかなって

 なんとなくそんな気がしますね

あの子が東京へ行ってから、なかなか会いに行くことも

ままならず。せいぜい盆と正月で一年で2回ほどしか会って

話す機会がかなったのですが

去年は秋から

 9月3日愛知万博、家族全員と大きい人も一緒に豪華ホテルに一泊。

 9月30日浅草のしにせ風、すきやき屋さんで健嗣と三人で晩ご飯。

 10月27日母と3人で、わたらせ温泉大露天風呂&熊野本宮&関空アウトレット。

 年末年始、みんなでごろごろ

 2月25日福島の出張帰りにむりやり東京経由

このときモーションインプレスの面接会場まで2人で一緒にいきました。

 4月末、母と大きい人と4人で、日本橋鳥源でランチ。

 7月10日すごく会いたくて行きかけたのですが、仕事の都合で断念。

 このときなぜ行かなかったのかと後悔先に立たず。

 ということで4月末の鳥源がリアル直子の最後でした

もっともっと一緒にいたかったな。

 運命とか、宿命とかではなく

きちんと納得できる説明がほしい

006年10月18日
20:30いつまでもまっています

私の父が亡くなったのは直子が一才のとき

 あの子は歩き始めるのが遅かったので、病院の父が寝ている

シーツの上を無邪気にはいはいしてました。胃から始まった

病巣があちこちに転移して体中手術の後で、痛かったろうに

笑顔を絶やさずに遊んでくれた日からもう25年

 当時私は27歳。悲しかったけど

今のほうがつらいですね。

 父は、このことを知っているのでしょうか、誰か伝えて

くれる人はいるんでしょうか。

 生きているということは、離合集散がつきまとうのは当然

のことと解ってはいるものの、別れを認めたくないですね。

 まだあの日から、墓へは近づけませんが。

来年の彼岸には新しい墓を作らなければと思う気持ちの一方で

もう6年も離れて暮らしていたので、ここにいなくても

 またいつの日か、

元気なメールが届くのではと

かなわない希望を願う日々

2006年10月12日
13:27  QT延長症候群(ロマノワード症候群)  

 今から8年前、あの日もセミがうるさいくらい

鳴いていた7月末の朝

起き上がって自分の部屋から一歩踏み出したとたんに

ばたんとローカに倒れたことがはじまりでした

その時はすぐ自力で起き上がった、顔から倒れたらしく鼻血

出しながら、倒れた話をしていました。

念のため県内の国立病院に受診にいってみたら

即刻入院。検査のため10日ほど心臓チェックしたところ

QT延長症候群(ロマノワード症候群)と診断されました

 QTとは心臓の鼓動の波形にはアルファベットでAから名前

がついているそうです。その中のQとTの間隔が長いという病気

 普段はまったく異常なく、つかれたり、ストレスとかが

あった時に、QTと不整脈が重なったとき。

 心臓がとまります。

それは大変な病気だとそのときは思いましたが不整脈さえ

出なかったら普通に生活できるということでしたので

不整脈を抑える薬を常備薬とすることで

その時は解決していました

 実は私も若いころ20歳前後だと思いますが

気が遠のくことが何度かあったので、たぶんそういう事の

強力なのかなとおもうくらいで

頻繁におきるようなことがあれば心臓ペースメーカー

が必要になったかな?くらいの気持ちでした。たぶんあの子も

深刻には受け止めてなかったのです。

 若い人が運動中に倒れたり、とか突然死のほとんどが

この病気がかかわっているとの説明を受けましたが

うちの親戚で、あそこの人買物中に倒れて逝ってしまったな

とか思うくらいで、うちの子にかぎってと言うきもちでした

そういえば、皇室のあの方も何年か前テニス中になくなった

のもQT延長症候群のようでした。

その後、2年後大阪の専門学校を経て東京で働くようになり

もともと運動神経はなかったですけど、泳ぐことはできたので

たまにはプールで運動もしたり、多忙な毎日の中でも

それなりにやっていたので、そのことは頭の中心から少し

距離をおいていたのも事実でした

とうとう7月31日夏の朝に悪魔が降りてきてしまったのです

世界中の不幸を全部背負ってしまった気分になりましたね

あの日から体の水分が全部涙になるくらい泣いてましたが

8月12日に帰らないことが決まりました

暑かった夏からもうずいぶん時間がたったように思えるけど

まだ二ヶ月です

2006年10月06日
  だれも助けてあげられなかった

7月31日午前2時過ぎ東日本橋の友達の会社で話をしていて

その後東日本橋3丁目の自宅マンションで就寝したのは

 午前3時ごろ

 朝8時半過ぎ携帯に、ともさんから直子の心臓が止まって息もしてない。

救急隊が来て病院に運ばれたって連絡があった。

 その時 めっけもん広場 のプリンのショーケースに何時ものように、

どっさりならべているときのこと。

 店長っ しばらく東京へ行くからと告げ

急いで店を出てしばらく自宅への急ぎ道 。

 日大救命救急センターから連絡がきた、大変危険な状態と

今度東京へ行ったら調べたいのですが

だれが救急隊呼んだのですか

直子の発信記録は7時15分頃でした

7時15分に電話したとすると8時半までも時間かかるはずが ないし

病院の説明では救急隊の到着から病院でのいろいろな人工臓器

が動きだすまで1時間以内で処置できたから

適切な処置だと自信満々にせつめいされた。

 薄れゆく意識の中で電話したのか、ともさんがあとで気がついて電話したのか

あと5分10分はやく心臓動いていたら、今でも生きていたかもしれないと思うと

 人に聞くのが怖くていままでベールをかけていたことが

毎日気になってしかたがないので調べることにしました

 そのことでだれかをせめたりはしないことに決めています

いまさら戻ってこないし、それはあのこの喜ばないだろうから

東京消防庁の方教えてください 

2006年10月04日
  涙がとまりません

 直子の長い夏がやっと終わり、暑かった記憶は段々と 薄れてゆくけど。

 元気に話していた頃のことがつぎつぎによみがえるばかりで、

もう耐えられない寂しさが日に日にましてゆく

 今日も車の中でずっと溢れる涙をとめられなかった

この世で一番なかよしだったのに

ウェブ アニメータ

2005年正月早朝の法隆寺にて

ソーシャルワーキングコミュニティサイトより一部、越してきました

また逢える日まで

 語りあう日が訪れる事を願い。