- 2000年 ブエノスアイレス紀行/日記 -


00/03/26



3/26

  関空から United Airlineで、

サンフランシスコ〜シカゴ〜ブエノスアイレスと飛ぶことになっている。
初の一人旅で、緊張する。
PM6:00、関空に見送りに来てくれた家族に別れを告げてゲートに向かうと、
とうとうこの時がきたか、という気分だった。
 覚悟を決めて乗ったサンフランシスコ行きの機内で、隣り合わせたのは、
シリコンバレーに住む日本人エンジニアだった。反対隣はいかにも、
カウボーイハットの似合いそうな、ちょびひげで、皮のジャケットを着て、
頭の薄くなりかけた40代の白人男性だった。
エンジニア氏と「アメリカは、住みやすいですよ」とか、話しながら過ごす。
 8時間で、サンフランシスコ到着。
 日本で友人達から
「泥棒多いよ。」
「荷物は股に挟んで立つ」
「岡本は、絶対なにか取られたりするに違いない」等と言われ続けたのですっかりおびえて、
到着直前に機内でトイレも済ませてトランジットラウンジで、シカゴ行きの飛行機を待つ。
その間1.5時間。普通なら空港内の喫茶店に入ったり、お店を見て廻ったりするんだけど、
今はギターや、スーツケースを持って歩き回る元気は、ない。
だってまわりは、みんな泥棒だと思ってるんだもの。
 静かにだだっ広いこの空港の待ち合い室に座って、荷物を股に挟んで時間を待つ。
まわりには、これから小旅行を楽しもうという感じの大学生グループや新婚旅行らしいカップル、
ビジネスマンなど、国は変わっても日本と同じような人々を見て少し安心する。
 シカゴ行きの機内では狭い席の一番奥だった。
隣の席には、何だか解らない言葉を話すスキンヘッドで眉のない大男。
そのとなりは、眼鏡をかけて目が合うと必ずにっこりする人の良さそうな60代ぐらいのおじさん。
おじさんはともかく、スキンヘッド大男はかなり怖かったが、それも見かけだけで、人一倍明るい人だと判明
何回かトイレに行こうとしたが、その度に3人は、通路に立って
「そうだなあ、君が行くんならついでに行っとこうかなあ」てな具合で、連れ立ってトイレに。
絶対変な3人だっただろうな。
 おじさんは、ブラディーマリーを何杯もおかわりして
キャビンアテンダントをからかったあげく寝てしまう。スキンヘッド氏も映画に熱中している。
僕はこんな時しか読めないグリシャムの『ペリカン文書』を読む。隣のスキンヘッド氏は、
「うわ、変な字で、こんなのを読んでる!!」と驚いていた。
そんなもんだろうな。日本人が、アラビア語の川端康成を見た、という感じか。
 シカゴに着く。ここは、機能的でない上にえらく広い空港だ。
スーツケースを取りにバッゲージクライムに行く。すごく遠い。
ところが、僕のスーツケースが出てこないじゃないか。
「あの、わたし、バゲージが、ないです」
「わたしゃ知らんね。あの、人に聞きな。」
そう黒人のおばちゃんに言われて、とぼとぼカウンターに行く。
「バゲージが、ないです」
「あ、これね、直接ブエノスアイレスに行くように運ばれてるよ。」
「あ、そうですか」良かった。
今度は、チェックインカウンターまで空港の反対側まで行かなきゃいけない。
そしてカウンターについたら、
「ああ、これ、もう、チェックイン済んでます」と言われ、「Cの26ゲートに行って」とのこと。
しかしすぐに行き先を見失ってしまい、歩いている綺麗なフライトアテンダントに
「これって、どこなんでしょう、、。」と聞いたら
「ああ、逆よ」とあっさりいわれてしまった。
 そして着いた先は、最初のバゲージクライムの真下だった、、。無駄の多いことを、、。
 ブエノスアイレス行きのゲートの前には、いかにも南米系と思われる人がいっぱい。
もう英語すら聞かれなくなった。スペイン語である。それでも、多少は勉強してて良かった。
中学の時、ビートルズの歌詞を聞いて「あ、ところどころわかる!!」と、興奮した時のようだ。
 飛行機に乗る。非常口の前の席だ。足下が広くて嬉しい。3人掛けシートを独り占めである。
すると、がっちりした、ショーン=コネリーのような人が、
「横に座ってもいいか?」と聞いてきた。
「いいですよ」そういうしかないではないか。
話を聞いてみるとカルフォルニア大学の動物学の教授で、ウルグァイに学会の発表に行くらしい。
「音楽をやってるの?」
「はい、フォルクローレの勉強に」
「うちのせがれもアカペラのグループを組んでて、CDを出したいとか言ってるよ。」
「ワインで乾杯しましょう」
「そうだね。」等と、話してるうちにえらく打ち解けて、
「昆虫は、地球上のものじゃないんじゃないか?」
「宇宙人は居るのか?」なんて話をしたりして、盛り上がった。
しかし煙草も吸えず、もう、永遠に飛行機に乗ってるんじゃないかって気分になってきた。
気が付くと、眼下にはアマゾンの森林が広がっている。
シカゴに到着するまでは、アメリカ大陸は茶色の大地がずっと広がっていた。
木の生えてない山が続いていた。
今度は、どこまでもジャングルだ。
えらく遠くまで、来た気がする。


3/27

 朝の11時半。飛行機はブエノスアイレスに到着。カリフォルニア大学の教授ともお別れ。

 税関も無事通ったが、ギターを持っていたせいか、
スーツケースまで開けて詳しく調べられる。
こんなに詳しく調べられたのは初めてで、多少びびる。
 ゲートを出ると、ホームステイ先のジャズギタリスト、
ギジェルモ=バッソーラが声を掛けてきた。
背は180センチを超える大男の彼は昔のTVシリーズ「コンバット」のサンダース軍曹を間延び
させたような二枚目だが、5分刈りでイタリア系。
あまり人相がいいとは言えない。
 僕の前のグループでべースを弾いていた、グスタボ=グレゴリオに紹介してもらったのだが、
聞くと「昔から顔は、知っていたが、1年前に初めてセッションしてそれだけだよ?」と言う。
それでも、グスタボからのE-mailで、
会った事のない僕の滞在を1週間OKというんだから、
かなりいい人に違いない。アルゼンチンでは、トップクラスのミュージシャンだ。
 彼は車を持っていないので、頼んだという友人の車の運転の荒い事。
その友人は笑いながら反対車線に入り、横断者の10センチ前を横切るなど、
僕は世間話を一生懸命してくれるギジェルモの相手をしてられない。
おまけに、まわりは初めてみるブエノスアイレスの風景なのだ。
忙しい。
20分ほどで、ギジェルモの家に着く。
 そこは、ブエノスアイレスのど真ん中で、
ヴィラ=クレスポ区のスカラブリーニ通りを入ったところの
3階建てビルの3階がギジェルモの部屋だ。
その古いマンションは、ブエノスアイレスの雰囲気いっぱいで石造り。
ドラムセットが置いてある3DK。そこのリビングにマットが敷いてあり、
「うん。ここで寝ればいいよ」という。煮染めたようなマットだったが、
「ありがとう」というしかないではないか。
 アレルギー持ちの僕は、びびって持病の薬を予防の為にすぐに飲んだ。
結局、部屋との相性が良かったようで滞在中は、なんでもなかったけど。
 彼は、大きい音でジャズを聞く。
タンゴやフォルクローレを勉強しに来た自分には、
あまりに日常的な音楽に拍子抜けをする。
しかしマンションは、とてもいい雰囲気の中にある。
1階は、古い電化製品を扱う古道具屋だが、ギジェルモは、
「どうせ、盗んだものばっかさ」という。
通りの角は雑貨屋とちょっとしたバーで、いわば日本の駄菓子屋か、お好み焼き屋のようで、
棚にケーキやピザが置いてある。
 ギジェルモは、さっそく気を使ってくれて
近くのヌエベ=デ=フニオ駅の繁華街に連れていってくれる。
見るものすべて新鮮で素晴らしいのだが、時差ぼけで頭を素通り。とても疲れている。
 とりあえず家に帰る。ギジェルモも僕をどう扱っていたらいいか解らないらしく、
いろいろ声を掛けてくれる。
そのうち彼女が現れて、紹介してくれてやっと和んだ感じになる。
「オラ(こんにちは)」と言って耳もとにキスをしてきた彼女は、
短い黒い髪のグラマーかつ細めの美人だった。
その後判明したが、ブエノスアイレスでは、女性がみんな挨拶にキスをしてくる。
例えば、パーティーで早めに帰る時など、知り合い全員にまめにキスして帰っていく。
うーん、いいところだ。
「どうだ、かわいいだろう」とギジェルモは言い、
それからというもの二人は四六時中キスをしながら
「愛してるウ?」
「当たり前じゃないか」てな感じで、僕はおじゃまむし。
「シャワーあびてくるわ。」と中座したりしたが、その後もいちゃいちゃしっぱなし。
「晩御飯は?」と聞くと、
「じゃ、行くか」という感じで外に出る。
歩き回ってカフェテリアにはいり
エンパナーダス(ひき肉をパイ生地で包んだ半月型のおやつ)と赤ワインを頼む。
3人で軽く食べて、彼女をバス停まで送るが、
最後までおじゃまむしには、違いなかった。
 今後が思い遣られる。


3/28

 ギジェルモはまだ寝ている。
僕は時差ボケもあって、早く起きた。鍵をもらったので、
近所の探検に出かける。

目的は、^たばこを買う_散歩`ミネラルウォーターを買う、だ。
ミネラルウォーターは、炭酸水で「コン=ガス」炭酸無しは、「シン=ガス」である。
この炭酸入りが、妙に美味しく生水はやめようと思っているので是非欲しかった。

 町の雑貨屋は、「キヨスコ」と言って日本の「キヨスク」そのままの意味。
通りの角には、日本でいう駄菓子屋のようなお店があり、棚にはパンやケーキが並んでいる。
 まず、煙草を買う。
「ウン シガリージョ ポルファボール」「マルボロ ライト」通じたぜ。成功。

 街は、そこら中がイタリアンカラーが溢れていて、工事現場までエレガント。
独特の色彩感覚に目を奪われる。緑も多い。街を走っている黄色と黒のタクシーは、
狭い道でもビュンビュン飛ばす。
道路を横断するのをびびりながら、そばのおじいさんとともに道を渡る。
見るものすべてが灰色、赤(オレンジ)、緑(青)、黄色(白)のコントラストで美しい。
これが、僕のこの街の印象だ。
その中で赤いアディダスのジャージーに青、赤、白のゴアテックスのウィンドブレーカーを
着ている僕を、街行く人々が皆見ている。
原色の服を着ている東洋人の僕はちょっと浮いて見える。

「ポルテーニャ(ブエノスアイレス人)」は大体が、イタリア系の顔でみんなシックな服を着ている。
女性は、みんなミニスカートで颯爽と歩いていて、ブロンドの人が多く美しい。
色褪せた原色の街に、シックな人々。それが一体化していて、調和している。

 スーパーに入る。300g程度の肉のかたまりが、200円ちょっと。
ワインは一瓶¥150から¥300ぐらい。ミネラルウォーターは、1.8Pが¥50〜90。
レモンを1コ買おうとしたが、L売りで断られる。
しかも、売り子の言ってる事がわからず、並んでいる人たちを思わず振り返ったら、20人ぐらいの人
に「きょとん」とした目で見られてインパクトがあった。
恐ろしいほど、英語の通じない街だ。
結局、ミュージシャン以外で英語を喋ったは、空港の係員だけだった。

 昼前にギジェルモの家に戻ってきた時、一騒動あった。鍵が開かないのだ。
ここは、鍵が二ケ所あり、一つは1階のマンションの入り口の鍵で、もう一つは部屋のドアの鍵だ。
オートロックになっていて鍵無しで一度出たら、
かなりひどい目にあうだろうと、覚悟はしていたのだが。

 ギジェルモは、多分まだ寝ている。電話番号は持っている。
でも、肝心の電話の使い方が解らない。
マンションの目の前のに電話ボックスがあるのだが、どうもカード式のようで使えない。
すぐ向いの眼鏡屋に入ったが、店の女の子は急に入って来た東洋人にびびって後ずさりをし、
オーナーを呼んできた。
「電話を貸して欲しい」
「だめだ。すぐ、そこをまがったところ、2ブロック先に電話局があるので、そこでかけて」

 ちょっとぐらいいいじゃないか、と思いながらも歩いて行くと、確かにそれらしきものはある。
でも中は、電話ボックスが、20ばかり並んでいる店先に受け付けデスクがあるだけの
なんだかへんてこな電話局だった。
40セントを入れてかける。やはり留守電だ。
途方に暮れていたが、もしやと思い、ドアに付いたもう2つの鍵穴を廻したら、開いた!!
どうも、古い鍵穴を廻してたようだ。

 やっと部屋に戻って初めての大冒険にぼーっとしてると、ギジェルモが起きてきた。
「おう。今日は、ちょっとうちのお袋のところに晩飯に行かないか?」と言う。
 僕らは夕方、「チャカリータ駅」から20分の「セント=ルガーレス駅」に向かう。
セント=ルガーレスとは、聖地の事で、距離で言うと京都〜向日市くらい。
「エレクトリックと違うぞ。アコースティックだ。」
というその列車はディーゼルでドアなんて開いたまま。
薄暗い車内で、インディオ系のフォルクローレシンガーが歌いはじめる。

 そうこうしているうち、着いた駅前は、
まるで普通電車しかとまらない京阪沿線のようだ。
いい感じだ。
駅前で「CD10ドル」の表示を見て入った店に、明日会う予定のミゲール=カンティーロのCDがあった。
ミゲールは、「ペドロ イ パブロ」というグループで、70年代は大ヒットを沢山とばした、
国民的シンガーだ。ミゲールとは日本で知り合った。
彼もまたグスタボ=グレゴリオの友達だ。
日本では仕事も一緒にした。こ、こんなに有名だったとは。
早速、話の種にアストル=ピアソラのレア物と共に買う。

 町はオレンジ色の街灯に包まれた美しい町だった。
 公園では老人達が木製のボールゲームに興じている。
ボールを、もうひとつのボールのなるべく近くまで、当たらないように投げるんだそうだ。

 しばらく行くと、さびれた温泉街のような商店街に出た。セント=ルガーレスに続く参道だそうだ。
そこを教会に向かって歩いていると、
「あ、ちょっと。高校の同級生だ」とギジェルモは走って行く。
「岡本だ、日本の友だち。」
「ああ、初めまして」等と会う人皆に紹介してくれる。そんなだから、なかなか教会には着かない。
 着いた所は、イタリアのルルドの泉をまねしたというブエノスアイレスで最も大きい教会だった。
「小学生の頃、ここの一番高い塔の修復をするのに、ヘリコプターでてっぺんを運んだんだ。
シュールだったぞ」
そう話す彼の横顔は、小学生のようだ。

 ちょっと古ぼけてはいるが、どれも60坪ぐらいの落ち着いた家の町並みは、
もう薄暗く、家の前だけが明るい。近所の人たちが椅子を出して座っている。
「ここの同級生は日本人だ。一番仲が良かったんだ。」といって、 クリーニング屋に入ると
その同級生のママが「こんにちわ」と日本語で話し掛けてきた。
ギジェルモの同級生はいなかったが、孫達が出迎えてくれる。
 スペイン系の血が混じり日本のアイドルのような、かわいい姉弟は、
にこにこしてお婆ちゃんが、話す日本語を聞いている。
「じゃ、ママのところに行くんで」
「また来るね」とそこを離れた。
「ブエノスアイレスでは、何故かクリーニング屋と花屋さんは、日本人だったっんだ。」
ほう、そうなんだ。

 ギジェルモの実家は、玄関を入ると美しい陶器で飾られ、居間はオレンジ色の花模様のじゅうたん。
とりわけ高級ではないが、絵や人形できれいに飾られた家だった。
ママは寝室で寝てた。
「2年前に手術をしてから体力が落ちたわ。」
ママは、動きはゆっくりだが、重みのあるありがたい雰囲気のする人だった。

 裏庭(パティオ)は、ぶどうの棚でギジェルモは、何個かもいでくれた。
「自然栽培だ」と渡してくれる。
あと、市場で1回も見た事のない果物がある。みるとビワだった。
ママは赤ワインを開けてくれ、肉とマメの煮たものをよそってくれた。

「子供は?」
「まだです」
「さぼっちゃだめよ。」笑いながらそういう顔に思わず居心地の悪い気持ちになる。
「ヒロシマ生まれなんでしょう?」
「そう。親戚がたくさん死んだので、クリスマスプレゼントは、小さい時から少なくって、、。
いいところですね。ここらは。」
「いつでも、来るのよ。」そのような会話で、食事はすすむ。

アルゼンチンは政府が人々をケアしてくれない。と、いう話になり、
電気代も水道代も払わなかったら、
すぐに相手が老人でも止まる。とか、言っていた。
「日本はどうなの?」
「こんな家に住んでいたら、どこかの小さな会社の社長クラスですよ。
みんな小さい家に住んでいるんです。」
そんな事を言いながら、和やかな時間が過ぎていく。
「ぼちぼち、帰ります。」
帰り際に良い歳こいたギジェルモに、
ママが、ビニール袋に入れて何やら持たせるのは、日本と同じだ。

ギジェルモと二人になって、
「善い人だね。楽しかった。」と、心から言った。
彼は、満足げでちょっと恥ずかしそうな顏をした。
帰り道、ギジェルモのグループの話から音楽論になり、
最初メインでしゃべっていた僕も
彼の熱弁に負けて聞き役に廻った。

 要するに、アルゼンチンの音楽は、
レベルが高いが、ミュージシャンの仕事はない、という話だ。
高尚な音楽論が、いつのまにやら愚痴になっている。
実際、ジャズのCDは、1000枚売れたら、結構ヒットだそうだ。
「この国の奴らと来たら、サッカーとマドンナみたいな、外タレしか金を使わないんだ」

 話せば話すほど、興奮してくるギジェルモの話を聞いていると、もう家だ。
さすがにふたりとも、討論はもういいって感じ。

E-mailのチェックをギジェルモは、始め、
「オカ!」と、いって呼ぶのでいってみると、
アルゼンチンの女の子のページをインターネットで探して来ている。
「どうだ、アルゼンチンの女の子は、かわいいだろ。」
「まじで、そう思ってるよ。」
 
 で、この娘がいい、俺はあれだ、とかいっているうちに
一日が終わった。


3/29

 朝から、ファン=ファルー(フォルクローレギタリスト)に、家でレッスンしてもらう。

彼は、フォルクローレ=ギターの巨匠エドゥワルド=ファルーの甥にあたり、
アルゼンチンのトップギタリストだ。
ギジェルモは、僕が、スペイン語が解らない時、通訳をかって出てくれた。
 ファン=ファルーは、50才前の痩せて目のぎょろっとした、
眉毛の濃いセサミストリートののマペットのような人だ。
記録用にMDをセットすると、静かに見上げた目で、
「よろしい。アルゼンチンのフォルクローレに大切なのは
、2拍子と3拍子が、同時にあることだ。」
と、言って弾きはじめた例は、「サンバ(ZAMBA)」というゆっくりしたリズムの曲だ。
「もっともフォルクローレの基本となるのが、サンバだ。」
 始まった瞬間は、コンサートそのものだった。
世界でもっともシンプルなメロディーを世界でもっとも難しいリズムで演奏するその曲は、
土臭い香りがする。それをただ、弾いてみました、という雰囲気で弾く。
この人はただものではない。
「では、説明しよう。」
「アルゼンチン人でも、へたをすれば、こう弾く。が、サンバにだいじなのは、3拍目だ。」
こう言って説明する姿は、スターウォーズの老師そのものだ。
夢のような1時間が過ぎ、
時折笑っては、にらむ若めの老師は、去っていった。
「すごかったわあ。」
「俺も楽しかった」と、ギジェルモ。
「お礼になんかさせてよ。」
「じゃ、パリジャーダにいこうか?」
 パリジャーダを食べに行く。
まるで、ファーストフードのように、
焼いた肉に、オレガノやワインビネガーを加えて作ったチュミチュリー=ソースをつけて食べる。
赤身ばかりだが、案外柔らかく美味しい。
アルゼンチンは肉が安く、肉が 日本の御飯のように主食っぽい。
「健康に悪いぞ。」と、ギジェルモにいうと、「そう。悪い。」と、返ってきた。
「だから、成人病が多いんだ。」と。納得。
 アパートに帰ると、ミゲール=カンティーロから、「迎えに行く」と留守電が入っていた。
 PM4:00。迎えに来てくれたミゲールは、「『ラ=ボカ』に行こう。」と、言った。
『ラ=ボカ』は、タンゴ発祥の地で港町だ。
 案内してくれるミゲールは、50才前。
 70年代は、『ペドロ イ パブロ』の名で、
フォルクローレの匂いのするロックグループを作って、アルバムを10枚近く出している。
その後も、ソロアルバム多数。
最近は、タンゴとロックの混じったオリジナルを作り、
この『ラ=ボカ』にあるシアターで、3ヶ月のミュージカルを終えたところだ。
 書き忘れていたけど、きのう、3時にミゲールとは会っている。
彼とは、日本で1週間近くツアーをして、とても仲良くなった。
今回、ファルーのレッスンをコーディネートしてくれたのも彼。
ちょうどツアーに出ていると聞いていたので会えないと諦めていた。
しかし、予定が変わって会えるようになり、
うちの近所の地下鉄駅のそばのオープンカフェで待ち合わせをした。
 その時の印象は、日本で見せていたちょっとよれた大学教授と入った雰囲気でなく、
黒の皮ジャンに黒ずくめの服で、ファイロファックスを小わきに抱え携帯電話をかけながら現れ、
いっぱしの業界人であった。
「岡本。今日は、これから、人に会わないといけない。
明日は、ちょっと時間があるから、
ブエノスアイレスで一番良いところに連れてってあげよう。」
 今日のミゲールは、白地に赤のストライプのシャツに
ストーン=ウォッシュの黒のジーンズサスペンダーをして
黒いアディダスのスニーカーを履いている。金髪の彼にとても似合っている。
「どうだい、ブエノスアイレスは。」
「うん、みるものすべてが、フレッシュで感動のしっぱなし。」
そして、初日の町中の冒険を話した。
「ブエノスアイレスの住民は、観光客になれてない。
そういう、他から来た人をリスペクトする気持ちが足りないと思うよ。
政府もそう。社会保険なども、まだまだだめだし、リスペクト(敬意)が大事だ。」
  確かにそうかもしれないが、
知り合いに会う分には、素晴らしく親切にしてもらっているので、
差し当たってそうは思わないけど。
でも、そう言っているミゲールの運転は、とても他人にリスペクトを示した運転とは、思えない。
やはり、反対車線に入るし、狭い道路もビュンビュンだ。
日本でいつもグスタボの運転を怒っていたのだが、
もう、こっちでは普通だと思ってる。もう慣れた。
 「ずっと思ってるんだけど、女の人が綺麗ですよね。」
「うん。どんな貧乏人も、飯が食えなくてもお洒落をする。
そういうもんなんだ。ブエノスアイレスっ子は。」と答えた。
なるほど、一理あったわけだ。
 色んな記念碑を車で見ながらまわり、 『ラ=ボカ』に着いた。
小さな港があり、広くなった道が行き止まりっぽくなって駐車場になっている港の側は、
綺麗な散歩道になっている。
原色で塗った壁のシアターが、車を停めたすぐ、背中にみえる。
並びの建物もいくつかは、そんな建物だ。
「こういう、壁をまっ黄色や赤、青に塗るのは、ブエノスアイレスの伝統?」
「いや、こんな極端なのは、ここだけ。」
この広い道もちょっと行くと、
車の入れない20cmぐらいの直径の丸い石を敷き詰めた道に出る。
「これが、アドキンという石の敷き詰め方。そして、ここが、カミニート」
カミニートは、一般的に『小道』を指すが、
『カミニート』とここでいうのは、タンゴの発祥したここの通りを指す。
 アドキンは、グスタボ=グレゴリオのタンゴバンドの名前だけど、

『アドキン』は、本来ちょっとした路地の鋪装の一部に時々残っている。

車線のないような小さい通りにアスファルトの鋪装がとぎれて、
がたがた言って車が走ると、だいたい、その「ごろた石」で
敷き詰めた道だ。それを「アドキン」と呼び、
いいタンゴの演奏を「アドキンがある」とか言うんだそうだ。
『ラ=ボカ』は、観光地だなあという、いかにもな印象だが、
それでも写真をとりまくるただの観光客に成り下がってしまった。
 あと、買っておけば良かったのが、
そこで売られている絵。
タンゴの絵が、様々で素晴らしく綺麗だった。
「どこでも、買えるわ。」とたかをくくっていたら、
意外に市街地では、そんなもの無かった。
是非、タンギッシュなものを欲しい時は、
『ラ=ボカ』で。
「写真をとってくださいよ」
ミゲールは、最初ははずかしそうに撮ってくれ、
だんだんポーズを決めて二人で撮り合った。
「ここらの原色の家は、誰か住んでいるの?」
「ああ、普通に人が住んでるよ。」
「誰かの持ち家?」「いや、アパートとか多いんじゃないかなあ。どっちかっていうと貧乏な人のだ
と思う。」
「住んでみたいなあ」
「ふーん」
にこにこしながらも反応がなかったから、
あんまりお勧めでなかったのかもしれない。
 『カミニート』を出て、角のバーを発見。
「お茶でもしません」
「ああ、もちろん。」
そう言って、店に入って注文して世間話をしていたら、
店の女のコ、客が、時々声をかけてくる。
「知り合い?」
「ああ、そこで、この前まで、ミュージカルをやってたしね。」
「あ、そうか。」
「フットボールの物語で、プロのチームが成績不振で
オーナーに売られてしまう物語なんだ。」
「ハッピーエンド?」
「うーん。そうともいえないなあ。でも、悲劇じゃあない。」
「行こうか。また、レコーディングなんだ。」
「ごめんなさい。忙しいのに。」
「いいんだ」
 しかし、帰り道空気が悪いのか、初めてこっちで花粉症になった。
で、家に帰るとなんともなかったんだけど。
この晩は、適当に家にあるチョリソー(ミンチと香辛料を詰めた腸詰め)
とパンで済ます。勉強勉強。


3/30

 今日は、昨日遅くまで、ギターの練習をしていたのと、

やはり、時差ぼけと緊張で疲れが出て、昼まで寝てた。
それからギターの練習。他に気を引くものもないので、
集中できるのはいい。
 ボタフォーゴ邸にペドロのレッスンの打ち合わせに行く。 
ミゲール=ボタフォーゴは、ブルース=ギタリスト。 40才後半。
まるで、インドの行者のようなヒゲを生やしている。
彼は、菜食主義者(アルゼンチンに多し)
BBキング(ブルース=ギタリスト)、ジェフ=ベック(ロック=ギタリスト)
との共演歴を持つ。
まるで、アメリカのブルースギタリストのような腕の確かさだ。
他にもアルゼンチンには、ブルース/ロックギタリスト多く、みんなうまい。
一般に流行っているのは、 アルゼンチンでも、
ロック(ロック エン カステジャーノ(南米なまりのスペイン語のロック)。

ちょっと聞いたけど、どれもカッコよかった。

PM2:00にハイヤーを呼んでもらってボタフォーゴ邸に行く。
6ドルで行く、と交渉したが、小銭の持ち合わせがなく待ってもらってる間に
高くなってしまった。こういう時、もう一つ押せないのがいたい。
 ボタフォーゴの家は大きく、割と新しい家でうらやましく思う。
「ああ、ちょっと待って。」と言って通された部屋は、
たくさんのポスターが、部屋に貼ってある仕事場で
なぜかシタールが置いてあったりする。
作りかけのCDのジャケットが置いてあって、
日本公演の時の録音をトラックダウン中らしい。
「日本語で曲名、タイトルを入れたいんで、書いてくれないか?」
「OK。じゃ、後で書くよ。」「ありがとう。」
 1970代の銀色のフォードに乗って、
二人は、ペドロ=アギュラーの家に向かう。
 彼は、アルゼンチン有数の理論家で、
古くからたくさんのタンゴのリーダーを
育てている。
今回は、タンゴの理論とフォルクローレのリズムの形式に
ついて、講議を受ける。その通訳をつとめてくれるのが
ボタフォーゴである。
 近所の道に車を停めて、家まで歩く。
ペドロ=アギュラーの家は、緑に囲まれた小さな家だった。
彼は、80才以上。髪の毛は白髪。白いちょび髭の生えた
指揮者のカラヤンのようだ。
「何十年も前に、日本に行ったことがある。」と言い、
壁には、京都のペナントが、貼ってある。
日本の大学でも教えていたそうで、日本人形など沢山置いてあってびっくり。
 自己紹介を終えてレッスンを始めるんだが、
スペイン語しか話せないペドロのレッスンは、まるでボタフォーゴと彼のレッス
ンのようだ。
しかも、ペドロ=アギュラーは、念入りな性格らしく、
「えへん。まず、1小節は、音楽の最小単位のひとつで、2小節は1小節の2倍。」

なんて始めるので、
気を使ったボタフォーゴが、
「あのう、岡本は、4時間しかレッスンを取ってないので、
もっと早く進めてもらえませんか?」
と、いう一幕もあったのだが、
 実は、これが彼の素晴らしいところで、
今、人にレッスンをする時、作曲をする時
とてもすぐに役立つ概念になっている。
何ごともベーシックから、積み上げて最後の瞬間には、
とほうもないクライマックスが待っているのだ。
彼のレッスンは、長篇推理小説のようだった。
 ペドロ=アギュラーは、2時間ひっきりなしに喋り続けてレッスンは終わった。
それを、英語に訳し続けてくれたボタフォーゴに感謝だ。 

 おいとまの挨拶をして、家を出ると、
ボタフォーゴは、
「あんな先生だけど、ためになってるか?」と、聞いてきた。
ペドロを紹介してくれたのは、ボタフォーゴなのだ。
「すごいおもしろいよ。」
「そうか?ならいいんだけど。」
実は、もっとタンゴの実際の演奏法を教えてくれるのかと
思ったのだけど、あまりにベーシックで面をくらったところは、あった。
でも、そのベーシックな加減が、彼の偉大さで品格なのだ。
そのくらいわかるさ、僕だってプロなんだもの。
見方を変えれば、僕も一通りの苦労をしたからこそ、
言われる事が身に滲みて解るのだけど、あれが、10年前なら退屈だったかも。
「うちのギターの生徒で、ペドロ=アギュラーに理論を習った奴がいて、
譜面も読めなかったのに、5年たった今は、オーケストラのアレンジをして、
映画の音楽を書いてる。もう、マスターだよ。ペドロは、対位法も
和声法も12音技法も、果ては世界中の民族音楽まで、全部ひとりで
教えたんだ。」
そうだろな。そんなことだと思った。やっぱりただものじゃない。
 理論以外の何かをペドロなら伝えてる。

 それは、『音楽をおごそかに扱え』、ってことじゃないかな。
アルゼンチンに来て、何だかキーワードのように思えている。
ファン=ファルーもそう。
 日本では音楽を作る時、少しでも形になると「それでお金儲けできないか」
と、考える傾向が強いような気がする。
少なくとも今回会ったブエノスアイレスのミュージシャンには、
『おごそかに、敬意を持って、音楽をより美しく』
と、いう姿勢が感じられた。
 まだ、数日目だが、どっしりと音楽と向き合う気持ちが
僕の中に芽生えてきた。
 ボタフォーゴとペドロ=アギュラーの家を出て、もう彼の家に帰るかと思いきや、

ダウンタウンに車は向かった。彼は、多くの教則本を出しているのだが、

その出版社に向かう。リコルディ社っていうんだけど、クラシックの譜面で
聞いたことのある名前だ。あれってイタリアじゃなかったか?何かつながりがあるか
さだかではないが。
 着いてみると、譜面がワンフロアを占める大きな譜面売り場だった。
クラシックから、ジャズ、ロックまで。なかには、「クラシックバイオリニストの為の
ジャズ教則本」とか、まず日本でお目にかからないものも多い。
 タンゴ、フォルクローレに関しては、コーナーも充実で、「ギターの為のタンゴ譜面集」
「ギターの為のフォルクローレ譜面集」だけで、ずらっと一列分はゆうにある。

気が遠くなっていると、ボタフォーゴは、

「何れがいいのか聞いてあげよう。」と、言ってくれ、
ずらっと譜面を出してくれた。レジの中の人は、みんな知り合いらしく、
「日本からフォルクローレを勉強に来てるんだ。ファン=ファルーに習ってる。」
「へえ、じゃエドワルド=ファルーは、絶対必要じゃない?」
ってな具合で、どんどんみんなで出してくる。
「あわわ、あわわ。」って言ってると、
「みてみ。これ、一枚1.5ドルだぞ。」言っている。
本当に安い。
分厚い本も20ドルだ。こんなんなら、買っておくのもいいか。
「じゃ、これだけください。」
「OK。お金はいいよ。」
結局、ボタフォーゴが、プレゼントしてくれたのだ、、。
「ありがとう。いいの?」
「いいよ。いいよ。」
また、ブエノスアイレスに借りが増えてしまった。
 ボタフォーゴの家に着いて、彼の日本LIVEのCDのジャケットを手伝う。
「曲名とか、日本語で入れたいんだ。書いてくれる?」
「いいけど、下手だぞ。」
「それでいいんだ。」
「じゃ、これは、『ギタリスト』だ。」
「これは、『東京、新宿』だ。これは、漢字で、その他に、ひらがなとかたかな
が、ある。」
「おお!!」
と、この字をコンピューターに取り込んでエディットする男のコは、 喜んでいる。
彼、マチアスは、ボタフォーゴの全部の出版物のデザインを手掛けていて、味の
あるイラストも書く。
ブルースもうまい。本人は、ギタリストになりたいようで、
「ブルースをボタフォーゴに、ジャズを他の人に習っているんだ。」と言っていた。
見るからにイタリア系の顔の二枚目で、そのすがすがしい目は、さぞステージで
は映えるだろう。
「うまくいくといいね。」
1時間ぐらい仕事を手伝っていると、ハンバーガーがでてきた。
菜食主義のボタフォーゴは、とうふで出来たハンバーグを挟んだものだ。
「いけるじゃない。」
「牛を一頭飼うのに、沢山の牧草地が要る。それを自然を破壊してそれを作るのは、
どうかと思うんだ。同じ面積で多くの作物が育って何倍の人が飢えから脱出できるんだ。」
りっぱである。ロッカーらしい話ではないか。
肉ばっかり僕は、ここに来て喜んで食べているのだ。
多少反省する所はあるが、好きなものはしょうがない。肉は好き。

 そのうち、みんながお出かけの支度を始めた。
「うちの元生徒が、展覧会をやってるんだ。今日が初日でパーティーなので、行
かなきゃいけないんだ。」
と、ボタフォーゴが言うので、物珍しさもあり、ついていく。
マチアスと、ボタフォーゴ、それに思春期で妙に愛想の悪い、ボタフォーゴの娘の4人で、
例の銀のフォードで出かける。
途中、がたがた道があった。
「これが『アドキン』。」
 ブエノスアイレスの裏路地のところどころに、
ごろごろとした石で敷き詰めた道がある。
それは、昔ながらの道路の鋪装の仕方らしく、『アドキン』と呼ばれている。
『アドキン』は、ブエノスアイレスの昔ながらの鋪装の仕方であるとともに、
タンゴの良い演奏を『アドキン』がある、と言うそうだ。
で、グスタボ=グレゴリオが、日本で作ったタンゴグループが『アドキン』。
僕もメンバーなんです。
 さて、着いてみると、もう暗く、
石作りの神戸の異人館のようなかっこいい建物の中が照らされて、
着飾った老若男女が、談笑している。
二階に上がると、ブルースマンを写実的に書いたかっこいい色彩の絵がいくつも置いてある。
ボタフォーゴは、みんなの視線を浴び、若い男の子が、寄ってきて挨拶をしている。
いろいろな人を紹介してもらったけど、忘れた、、。
画商、音楽評論家、カントリーブルース=シンガー、画家etc.....。
ただ、言えるのは、みんなかっこいい。そして、美人多し。
なんだか、普段着で行って、浮いたんだよなあ。
びっくりしてへらへらしていた。
何だかギターを弾いてからだと大きな顔を出来るが、
ギターがないと、僕なんて弱いもんだなと思った。
一通り挨拶が済んだようで、ボタフォーゴは、帰ろう、という。
カルチャーショックもあり、今日一日がやっと済んで、車内でうとうと。
ギジェルモの家にpm9:00頃着く。
ギターを弾いたりちょっとしたが、疲れていて、やはりそのままフェードアウト
で寝てしまった。


3/31
 今日は、ギジェルモも僕も昼頃にゆっくり起きる。
「何か食べに行こうか。」と、僕が言う。
「じゃ、友だちに聞いたパリジャーダに行こう」
と、いうわけで、
 近所の小さいパリジャーダに行く。
パリジャーダは、バーベキューの肉と、ちょっとした料理を食べられる
いわば、お好み焼き屋のような存在。
6ドルのセットを頼む。
200gぐらいの牛肉ステーキと、チョリソー(太い腸詰めソーセージ)
モルシージャ(豚の血を腸詰めにして焼く。
なめらかな胆。もしくは、パテが詰まった感じ。美味。)
と、フライドポテト、パンが付いてる。
 初めて、こっちのテレビを見る。
バラエティー番組をやってる。
「俺は、ばかばかしいから、見ない。」
そういうギジェルモの家にテレビはない。貧乏なだけか?

 そういえば、最近、僕が、アルゼンチンのバッド=ワーズ(プラブラータ)を

沢山教えてもらったのだが、使うとすごくギジェルモは受ける。

どこにいっても、こういうことは、コミュニケーションの始まりなんだなあ。
ホームページではあるけど、使う使わないは、別にして、
知っておいてもらいましょうか。
罵倒するとき:
ラ コンチャ デ エルマナ(ねえちゃんのマンコ)
ラ コンチャ デ マドレ(かあちゃんのマンコ)
ラ プータ デ マドレ(かあちゃんの売春婦?)
パラ ア エル カラッホ(帆船のマストに吊るすぞ)

男性器:バルガ、チョット、ナボ、ガル、ピハ、チョタ、ピストーラ、ソコトローコ

エッチする:コヘル、ガルチャル、ピロワール、フィフアール、エンタルガール

女性器:コンチャ、カヘタ、カチュフレタ、アレゴージャ

いわいるアースホール:クーロ、オルト、オヘテ、マロン、パーボ、トラステ
たぶんオナニー:ボハード、ペロトゥード、パヘーロ

と、まあ、よくも色々あって、聞いてると結構、「ちくしょう」てな感じで使うので、

ギジェルモと僕なんて、簡単な言葉とこういう言葉だけで、会話をしてたりするので、

本当に程度が低くなってしまった。

たとえば、これを覚えよう
手をOKサインを出して、
「バルバロ(いい、いい。)」
「エクストラ オーディナリオ(普通じゃないぜ)」
「コモ エル オルト(最高だぜ!!)」
って、感じ。
「コモ エル オルト」は、「ケツの穴みたい」なんで、
褒め言葉じゃないけど、親しい仲では、勢いのある誉め方みたい。
 さすがに、これ以外は、使ったことはない。
カフェでコーヒーを飲んで、(コーヒーは、ブエノスアイレスでは、まず、エス
プレッソ)僕は家に帰る。
 ギジェルモ外出。
PM3:00にファン=ファルーが来る。
チャカレラを教えてもらって、今日も楽しい。
彼は、簡単な曲に大胆なリハーモナイズを施しては、ぜんぜん別の曲に変えてしまう。
同じメロディー3回でも、どれも違うのだ。
PM4:00過ぎ。1人で、地下鉄に乗ってカジャオ駅に。
ギジェルモと待ち合わせ。CDを探す。沢山のCDを買い漁り、町並みを楽しむ。
 PM8:00家に帰る。
PM8:40ミゲール=カンティーロと奥さんが、家に来る。
あれこれ、話し込み、先日見つけた彼の古いCDにサインしてもらう。
 PM10:00レストランに出かけることになる。

パリジャーダのレストランに行くことに決め、みんなでミゲールの車に乗る。

店は、ガラス張りで、すごく人が一杯。スカラブリーニから、1本北に入ったと
ころだったけど、
名前はわからない。どのくらい待つのか、ギジェルモが、聞きに入ったところで、
出てきた客のおっさんが、赤ら顔で
「中国から来たのか?」「いえ、日本です。」
「そうか、いいから、*****を頼め。絶対にいわないとだめだ。」
「*****ですね。」「そうだ。じゃあな。」
てな感じで、去っていく。ギジェルモが帰ってきて、
「何て言われてた?」「いや、******って言えって。」
「ああ、それは、バーベキューの一種だ。」
「ああ、そうか。」
で、ミゲールは、ミートソースのラザニア。
奥さんは、とり肉にグリーンソース。
ギジェルモと僕は、肉のバーベキューを2品頼んだ。
来たのは、驚くべき量のひと皿、ひと皿。
少し交換したけど、すごい。食べ切れん。
味は、まあまあか。
おごるつもりだったのだが、このくらい繁昌している店なら
良かったかな。ワインもおいしい。
奥さんが色々聞いてくる。
「日本では、何を食べるの?」
「肉なら何でも。基本的には、ここといっしょです。」
「中国とは、違うよね。」
「海を分けているから、文化的には、全然違いますね。」
「中国の人は、いろいろ食べるわよね。」
「そうですね。食べますね。」
「何を食べるの?」
そういわれて、日本を出発する前に見た、『薬膳/中国』のテレビで、
さそり料理、蟻だんご、芋虫の空揚げとか、思い出して、
「いろいろですが、ここで言うと、ディナーが台無しになるものも
含まれると思います。」
「わ、じゃ、聞かない!!」
 それからも、ギジェルモが、僕に教えてくれた話で盛り上がり、
ミゲールも、
「日本でな、警備員が、おーい。
ちょっと、ちょっと、ちょっと、ちょっと、ちょっと。って、何回も言うんだ。」
一同「へええ!!!。」僕「ちょっと、って、待てっていう意味なんです。」
「こっちじゃ、『ちんちん』の意味だよ!!あれって何回もみんな言うん
だ!!」と、ミゲール。
僕「あれは、待って、待って、待って、待って、言う意味です。」
一同「マテは、こっちじゃ『お茶』よ。」
僕「『ちんちん』は、日本語では、男性器ですよ。」
一同「アルゼンチンでは、乾杯よ。」
「何だかわかんなくなってきたね。」「がはは。」
ミゲール「日本に『パジェロ』って車があるんだ!!」一同「げー!!!!!!」僕「何?」
一同「アルゼンチンでは、『オナニー』っさ!!!」
一同「うわーーーーーーー。わけわからん。」
午前1時まで、盛り上がってお開きになった。
それでも、おごって70ドルいかななったんだから、安かった。
疲れた。長い一日だった。


4/1

AM7:00起床。タクシーを前の晩に呼んであって、
AM8:00には、ペドロ=アギュラーのレッスンに行くため、
ボタフォーゴの家まで行く。ボタフォーゴは、眠そうにしながらも、
用意をして、プロポリスを飲んだりしている。
健康的な人だ。

今日は、昼から、ギジェルモのお母さんに招かれてて、

アサドパーティーだそうだ。
ボタフォーゴを招待するが、そうだ!!彼は、菜食主義者だった、、。
それでも、ボタフォーゴは、日本でのライヴのマスターリングで忙しく、
パーティーどころでないらしい。そんな時に僕のレッスンに
付き合ってくれてありがたい。

ペドロの今日のレッスンは、すごくためになった。

フォルクローレのフレーズの流れ、リズムの流れ、
形式をどんどん説明していく。
結局、先日のレッスンは、今日の為にあったのだ。
そのレッスンは、これからの僕のバイブルになるだろう。

サンタ=ルガーレスのギジェルモの実家までボタフォーゴに送ってもらう。

もう、ボタフォーゴ様様だ。
すでに、着いてみると、アサドの準備が整っていた。

アサドは、アルゼンチンのバーベキューで、

本来は、野外で、牛1頭分の肉を時間をかけて
焼いたりするらしい。
でも、今回は、もっと小さい。
どこの家にも、パティオ(裏庭)があり、
そこにレンガでつくったかまどがある。
下に炭火を敷き詰めて、その上に直径1.5センチぐらいの
鉄の棒が、3センチぐらいの間隔でたくさん渡してある。
その上で肉を焼いていく。

日本で、グスタボ=グレゴリオの友人で、大学教授イラリオ=コップさんが、

やってくれるアサドは、バラ肉をうまく捌いて、
筋でかこまれた肉の固まりを作る。
それを、2〜3時間かけてゆっくり焼くと、
赤身でも、ジューシーで柔らかい焼肉が出来上がる。
それは、塩コショウで味付けしてあるんだけど、
食べる時は、アップルビネガー、または、ワインビネガーに
粒コショウ、オレガノ、バジル、タイムetc......を入れた
『チョミチョリーソース』をつけて食べる。

今回は、肉は、厚さ5cm以上ある

肉のかたまりがあって、バラ肉と、バラ肉の上の方にある肉を
使っている。骨のあいだのバラ肉の上におおいかぶさっているその肉が
柔らかくて美味しいんだそうだ。

そして、ゆっくり炭火で焼きながら、

飛んだ水分の補給に、水とオリーブオイルを混ぜたものを
時々塗る。そうして仕上がったバーベキューは、
本当に美味しかった。
そのほかにも、チョリソー、モルチージャといった
ソーセージ類や、ポージョ(チキン)も焼く。

今日は、ギジェルモと、ママ、そして隣の家のホルヘの

合作だ。ホルヘは、出来上がるころには、いなくなったが、
問題が起きて「ホルへ!」と、呼ぶと塀を乗り越えて
やってくる。楽しい付き合いだ。

赤のワインを開けて、ママとギジェルモと僕で食事をする。

ギジェルモも僕もすごい食欲だったが、作った量が並でないので、
ぜんぜん減らない。
恐るべきアサド。

夕方4時ぐらい。食事も終えて、たばこを吸ったり、

ギジェルモが書いた雑誌の記事を読んだりしているうちに、

昼の間に『サンタ=ルガーレス』に行こうということになった。
ママの手を僕がひいて、3人で歩く。
その途中も、ギジェルモの友人に会い、ママの友だちに会い、
ギジェルモの友人のおかあさんと会い、
それで、また、話が始まっていると、次の知り合いが現れ、
一向に前に進まない。

こんな経験は、日本ではできないので、

僕は、にこにこしているだけだったが、
何だか知り合いが妙に増えたみたいで、おもしろい。

前回は夜で、入れなかった『サンタ=ルガーレス』の寺院内部は、

広くてたくさんの人が、礼拝していて、
1人のリーダーの言葉のあとに、みんなでついて祈りの言葉を
唱和している。
マリア像とか、見てるとこの土地の人間になった気分だ。

一通り写真を撮り出てくると、ギジェルモの高校時代の

友人何人かとまた会う。
また、4〜5人が集まって雑談が始まった。
ギ「こちらは、岡本。日本から、フォルクローレの勉強に来てる。」
岡「どうも。初めまして。」
友「はじめまして。ギジェルモ、何で知り合いなの?」
ギ「友だちの友だちなんだ。ファン=ファルーに習ってる。」
友「ほう!!」
終始こんなぐあいで、ひとしきり時間がかかる。

やっと、帰ってきた時は、日が陰りはじめていた。

6:00もう帰ることにする。

ママは、戸口でずっと手を振ってくれてた。

8:00倒れるように部屋に帰って横になる。
起きた時は、夜12:00ぐらい。
ギジェルモの彼女が来ていた。

それから、すこしギターを弾いてみる。

このギターは、親父のギターで、
愛用のコンデエルマノス(通称エステソ)は、
ワシントン条約にひっかかるハカランダの木を
使っていて、一度外国に持って出たら、
持って入れない可能性があるので、
このおんぼろを持ってきたのだが、
とてもよく鳴っていて、
ファン=ファルーが、「譲って欲しい。」
と、言ったぐらいだ。

親父は古賀メロディーだけしか弾かなかったが、

フォルクローレにぴったりだと分かった。
そうなるとどこまでも使おうと思ってしまう。
ひとしきり弾いたらまた眠くなってきて寝る。


4/2

今日は、ミゲール=カンティーロの家に昼御飯に招待された。
AM11:30、ミゲールが、愛車のプジョーで、家の前まで迎えに来てくれた。
市内から、 一時間ほど、高速道路を使って行くと、
いかにもリゾート地といった感じの場所に降りた。
幹の直径1mもあろうかという杉の大木が生えた、
どっちかというと北海道をイメージさせる並木道を通り、
道をまがると塀に囲まれた大きな敷地がある。

鍵を開けて入ると、奥さんが迎えてくれた。
「こんにちは。」
「オカモトね。うれしいわ。」
奥さんは、ティビー。ブラウンの目、髪で、ほっそりしてて、
とても若く見える。

200坪はあるかという土地にログハウス風の平家の建物で、
入るとすぐにステレオがある。
その棚には、スティングがあったり、ベック(!)があったり、
日本のロックファンと変わらない。
ミ「『ベック』って、知っている?」
岡「いや、うちの学校の生徒とか、聞いてるみたいだけど。」
ミ「いいグループだ。うちのスフィアンが好きなんだ。」

息子は、スフィアン。ギターをやり、ピアノを弾く。
ミゲールのバンドでも、演奏している。20才だけど、味のあるギタリストだ。
娘は、17才でアイーダ。音楽学校でフルートをやってるそうだ。
ファン=ファルーは、フォルクローレの先生だそうだ。
二人とも、ブラウンの髪でお母さん似で、
ほっそりした繊細な美形だ。
ほかにも、ドラムをやる長男、ベースをやる次男がいるが、
この日は、ツアーに出てたらしい。もう、家族でバンドができる。

「この前、やってたミュージカルのビデオを見せてよ。」
「ああ、いいよ。」
これが、音楽も、踊りも、ストーリーもひねりが効いてて、
すごく良かった!!特に音楽の良さと役者の歌のうまさにめを見張った。

ストーリーは、
サッカーファンのマドンナ(ヒロイン)を取り合う二人のサッカー選手。
しかし、所属サッカーチームはおんぼろで、
オーナーは、金儲け主義。
採算の合わないチームを解散。資産を売却してしまう。
サッカーファンのマドンナは、お金攻撃で、
オーナーの奥さんになってしまう。
しかし、お金お金でぜんぜん相手にもしてくれないオーナーに
愛想をつかして、サッカー選手の二枚目な方(主人公)に
走る。が、嫉妬したオーナーにさされて死んでしまう。
と、いうものだけど、

最後に「それでも、サッカーをやろう。」ってな感じで、
音楽の中、サッカー選手役の役者が、ひとり、またひとり
パス回しの輪に加わって終わりなんだけど、
みんなうまいこと。何回も頭や足で弄んで、
他人にパスしても、地面に落とさなかったり。
ほんまもんみたい。サッカーうまいんだ。

ミゲールは、昔の相棒、パブロとともに(!)
10分ぐらいごとに 、ステージ両脇のセットの二階のバルコニーからでてきて、
金髪の古い形のかつらで、ワルツをギターで弾き語りして、
ステージの進行を歌う。これが出てくる度、爆笑で、
「さーどーなる、ふ、た、りはー。」
てな感じで、場末のギターリストって感じなのだ。
それが、往年のロックデュオ『ペドロ&パブロ』なんだから、
もう、アイーダといっしょに、見ながら涙を流して爆笑。
最後間近では、ステージに降りてきて、
主人公を励ます芝居あり。
美味しい役だった。

ぼちぼち、昼御飯の用意ができたようだ。
みんなで、テーブルを芝生の上に出す。
目の前は、100坪以上はこえる大きさの芝生の庭。
太陽がさんさんと照って気持ち良い。

白のワインを開けてもらって、
サラダと 鳥の丸焼きが、3羽出てくる。
みんなでわいわい言いながら
食べる。

ここで、スフィアンと、アイーダと、打ち解けた。

昼御飯の後、
彼のブエノスアイレスのLIVEテープを見る。
ミゲールの息子達がバンドをやってて、
バンドネオンや、ダンサーが入っている。

ロックだが、ブエノスアイレスのムードを醸し出す、
独特の音楽だ。
結構、半分以上は、以前、日本で僕もやったものだ。
でも、これを見て初めてミゲールの表現したいものが
分かった気がした。

でも、これをブエノスアイレス以外で
聞いたら、どうだろう?
繊細な、一度ブエノスアイレスに来た人間なら
想像できる楽しみが、けっこう多いだけに
どう日本で響くか興味がある。

ところで、
スフィアンは、 フォルクローレを
学校で習っていたそうだ。
そのテキストがあり、コードとメロディーが書いてあるやつで、
簡単なので、是非欲しくなった。

「コピーさせてほしいなあ。」
「いいよ。」
一日貸してくれることになった。

それを見ながら、1曲やってみようと、
いうことになったが、これがなかなか難しい。
そのうち、ブルースをやろうと
僕は、提案し、しばらくセッションしてたが、
ミゲールが、そばに立っている。

聞いてると思いきや、
「岡本、もう時間だ。7:00pまでに帰るのなら、
もう出発しないと、、。」
と、居心地悪そうに言った。
こっちもバツが悪くなって、
「あ、ごめんなさい。」
と、言った。
「行きましょう。」

一時間ほど、かかって家に着く。
ハイウエイは、渋滞してるんじゃないか
と心配していたミゲールではあったが、
大丈夫。

途中、
事故で、車が3車線のうち、2車線を
ふさいでいた。
一瞬、渋滞になったかと
ひやっとしたのだが、問題なく着く。
「明日が、最後だね。夕方寄るから。」
そう言って、ミゲールは、去っていった。

ギジェルモは、買い物にでている。
ファン=ファルーが、7時に来る。
いつも、目を見開いて、
「うわあ、うわあ」
言ってレッスンを受けるのだが、
今日は、何だか眠い。
やはり、疲れが出ているんだろうか。

終わってから、ファン=ファルーに
「今日は、眠いのか」と、突っ込まれてしまう。
何だか、うちの生徒の気持ちがわかるようだ。
「申し訳ない。ちょっと、疲れちゃったみたいです。」
「今日は、ゆっくりするんだな。明日は、長めにやるから。」
「ありがとうございます。」

そうは言っても、ブエノスアイレス最後の夜で、
今日は、ギジェルモと、その彼女を
晩御飯に招待している。

ギジェルモは、帰ってきて
pm9:00に、スカラブリーニ通りに面した
アパートでピアノのレッスンを受けてる彼女を
迎えに行って、
それから、そこらをウインドウショッピングして、
御飯にしよう。と、言う。

家の前の通りをまだ行ったことのない方向に
歩く。そうすると、京都の北山通りのような、
大人っぽい落ち着いたブテッィク街に着く。

まるで、ヨーロッパのような(行ったことはない)
シックな町並みで、
なんだあ、こういうところがあるのなら、
もうちょっと歩けば良かった。
と、思う。
ここは、昼間来たら、また、それはそれで、
おもしろそうだ。

日本の線香や、扇子が、
センスよくディスプレーされてたりして、
それが、また、ここまで来て、
ちょっと珍しい、変わったものとして
生まれ変わっているのは、
なんか楽しい。

本屋に寄って、何かお土産を
買おうとしたが、
アルゼンチンらしいもの(いわいる観光客の心をくすぐるもの)
がなく、かっこいいなあと思ったら、
フランスの輸入書籍だったりする。

レストランに行く。
たぶん、気を使って、ファミレスっぽい所を
選んだようだけど、
食べ放題、サラダバー有りで、
ギジェルモ盛り上がる。
「いつもここにきたら、3日分は食べるもんね。」

ここは、アサドを店内で焼いていて、
(正式には、パリジャーダだと思うけど、)
言えば、いくらでも、肉をプレートにのせてくれる。

が、アルゼンチン人は、そんなに
肉には、興味を示さない。
野菜にどっと群がるのだ。

肉食の弊害が、よく話題になっていて、
それで、みんな「野菜を、野菜を」って、
神経質になってる、と思う。

あんまり話したことは覚えてない。
ただ、ギジェルモが、本当によく食べたのと、
アルゼンチン人らしく、目の前で、
どんどんキスするのは、閉口した。
だってどこみていいか、わからないんだもの。

レストランを出てぶらぶらする。(勘定がぜんぶで、60ドル!!安い!)
もよりの喫茶店でお茶をするが、あいかわらずで、キスを
してふたリの世界だ。

もういいかげん帰ろうと思って、
「じゃ、明日の準備もあるので、先にかえるわ。」と、
言うと。
「何で?じゃ私らも帰る」
って、いう。
そんじゃあ、と、店を出たが、近所のバス停で、彼女は
帰って行った。

「なんだ。彼女泊まるんじゃなかったのか?悪かったね。」
「いや。なーに。」
そうギジェルモは、言って
道ばたの若者をちらっとみて。
「あれは、マリファナだなあ。」
とか言っている。

そうかとおもえば、
道ばたの雑誌を拾い上げ、
「見ろ。1972年のなんたらかんたらだ。」
と、いってもって帰ろうとする。

もうブエノスアイレスとも、
さよならだ。
家に帰って、ふたりは、自分の思い思いの
場所に腰をおろして、
ギジェルモは、E-mailのチェック。
僕は、天井を見つめて、
CDのアバークロンビーの演奏を聞いている。

ギジェルモ曰く。
「5月にロン=マクルーアが来る。
リー=コーニッツ(sax)も来る。
一緒にレコーディングするんだ。」

こっちにきてから、何かとはっぱを掛けていたんだけど、
予想外に早く決着がついたようだ。
僕もうれしい。
ギジェルモが、興奮してしゃべっている。

「じゃ寝るわ」
そう言って、ギジェルモ退場。
隣のビルの上の方の階から、フォルクローレが聞こえる。
みんなで歌っている。
うるさかったけど、窓をしめたら、
白い漆喰で、固めた 窓は、ほのかに
おんがくを透して雰囲気がある。

明日でお終い。


4/3

今日でブエノスアイレスは、お終い。
お世話になったギジェルモ=バッソーラとも、お別れ。
何回も電話したのだけど、
会えなかったTOMOKOさんに連絡がとれる。

スカラブリーニ=オルティスに住む彼女は、
昨日の晩、歩き回った所の近所に住んでいたようだ。
それでも、近いからと、朝11時からファン=ファルーの
レッスンがあると言うと、
それまでの朝10時半ぐらいに来ていただけると言う。

ありがたい。
結局、その頃にお会いできた。
十年以上ブエノスアイレスにすんでおられるようで、
雑誌関係や、日本とアルゼンチンのパイプ役のようなお仕事を
していらっしゃるようだ。

ファン=ファルーもじき現れて、
お互い自己紹介している。

今日は、ファン=ファルーに
僕の村上ゆみこ(ピアノ)さんとの、
テープを聞いてもらえることになっているので、
ちょうど良かったかもしれない。
TOMOKOさんにも、聞いてもらえるし、
なにより、じかに詳しい質問を出来る
最初で最後のチャンスなのだ。

まず、マテ茶を用意して、
すわっていただいて、聞いてもらう。
ファンは、黙って聞いている。
ミゲールに絶賛されたので、
どういう評価か、かたずを飲んで見守っていると、
「うーん。これは、チャカレラだね。
ちょっと、テンポがはやすぎかも。
で、3拍目を強調した方がいいなあ。」
手厳しい。

確かに日本から自信満々で持ってきたが、
学んだ後の今は、さすがに恥ずかしいこともやっている。
何曲かは、ちょっと聞かせられなかった。

「うん。やればいいんじゃない?」
てなかんじで、ちょっとクールな反応だったけど、
ま、しょうがないでしょう。

ワイノ、ビダーラ、ガトーなどのリズムを
足早に教えてもらっている間に
TOMOKOさんは、帰られた。

レッスンは、3時前まで、続けられたが、
白眉は、ビダーラだった。
「よし。じゃあ、良い曲があるんで、
教えよう。簡単だ。
歌詞、コード進行を書くんで、MDに録音したら
日本で歌うといい。」
そういってマイクの前で『スーボ』という
曲を弾き語りしだした。。

あまりに美しい曲で、その歌も味わいがあり
すばらしい演奏に思わず涙がこぼれた。

すばらしい瞬間だった。で、彼は、さらっと、
「これが、ビダーラ。ok?」と聞いた。
「OK,OK.」
ぼくは、べぞをかいて、それでも、
うなづいた。


4/3 No.2

ファン=ファルーは、
「私も日本に行くべきかもしれないな。」
と、言い残して、お茶を勧めたが、
「甥の誕生日で、これからパーティーがあるんだ。
ごめん。是非、お前の演奏は聞きたいから、
ギジェルモ=バッソーラにダビングしてもらうから。」
と、MDをギジェルモに渡した。

数枚写真を撮って、彼は帰って行った。
ギジェルモに、
「そういえば、朝からなんにも食べてなかったなあ。」
「じゃ、ピザでも、食べに行くか。」
「そうしよう。」
で、最寄りの駅の近所のピザ屋に入る。

大学かなんかの、学生食堂のような、
固い椅子にテーブルがたくさん置いてあり、
オープンエアの店だ。繁華街にあるので、
人通りも多く、
ふたりで、フライド=ポテトと、ピザ、
ビールの大びんを頼む。
このビールが、1リットルはあるだろう
巨大なびんでびっくりする。

おもてを歩く女の子を見て、あの子がかわいい。
あんな子がタイプだと、そんなことばかり
喋っている。
ギジェルモもめずらしく飲んだのだが、
飲むと熱弁になる彼は、
「日本では、月にいくら稼ぐのか?
どんな仕事をしているのか?
それで生活していけるか?」
聞いてくる。

おまけに、毎週1回でデキシーランドのバンドが、
入って、それのギャラをいくらにすべきだろうか?
とか、聞いてくる。
「そんなの、ここに住んだことないから
わからんなあ。それより何を弾くの?」
「バンジョーさ。」
「???ギジェルモが?」

「おかしいか?」
「××××××が、
某ホテルで、にせ牧師の仕事をしているのみたいだ。」

××××××は、僕の友人で、牧師でもなんでもないのに、
ルックスが、良いのでその仕事が来た。
教会でも何でもないホテルの結婚式場に、十字架を
ほいほい掛けさせてくれるキリスト教では、本来ないのだ。
で、見かけ上、キリスト教っぽい結婚式場が、ホテルに
できることもあるようだ。
 
しかし、彼は、評判も良く、どこかの法事に来て、
いっぱい御馳走は食べる癖に、いつまで経っても、
要領を得ない説教をするお坊さんより、ぜんぜんましだ。
ただ、ある日、全然喋ろうと思っても、
声が出ず、何かの力がとうとう働いたと感じて
偽牧師をやめたのだった。

ギジェルモの話しの続きに戻ります。

「そうそう、ミュージシャンはこっちじゃ大変さ。」
ミュージシャンはなかなか生活できないらしい。
こっちの人間は、
サッカーと、外タレにしか金をはらわないと
ギジェルモは、ぼやく。
「だから、バンジョーだって弾く」

ビールをもう1本頼む。
かなり飲んだけど、そんなに酔ってない。
ライトで、癖がない美味しいビールだ。

また、町の女の子を見ては、品定めを始めた。
ギ「岡本は、どうなんだ。」
お「僕は、スタイルは、あんまりこだわらないなあ。」
ギ「俺は、サンフランシスコに行ったが、
あそこの女ときたら、最悪だ。でぶばっか。
それでも、チャイニーズ、コリアの女の子は、
スタイルが良く、性格も前向きで、
すごい美人が多かったぞ。
日本はどうだ?」
お「日本も美人は多いし、最近は、みんなスタイル良いよ。
でも、騙されたらいかん。あれの、大部分は矯正下着のせいだ。
あれもある種のジャパニーズマジックなんだ。」
ギ「そうか!」
お「あと、注意しなきゃいけないのは、
美人に限って、英語はしゃべれないわ、
ちょっと頭が足りなかったりするので、
やっぱりちょっと注意かもしれん。」
ギ「英語は学校で習うのか?」
お「習うけど、日本人の女の子は
すごくシャイなんで、喋ろうとしないあいだに
忘れるんだと思う。使う機会もないし。」
ギ「日本に行っても、うまくいかんかもしれんなあ。」

僕は、日本在住の女の子全員をギジェルモ=バッソーラという
手の早いラテン男から救ったのだった。がはは。

「帰ろうか。ミゲールが来るし。」
ミゲール=カンティーロは、お別れに来てくれるのだと言う。


4/3 No.3
さて、もう、あれから半年が過ぎて、
盟友グスタボ=グレゴリオは、スペインに。

その奥さんでピアニストで、
僕とグローリー=マーを組んで活動していた
村上ゆみこさんは、なんと、亡くなってしまった。

去年まで元気にみんなでバンドをやっていたのに
すべてがゼロになってしまった。
信じられない。
御冥福をおいのりしたい。

とはいえ、このブエノスアイレス日記のさいごの部分を、
まず仕上げなければ、と思う。
+++++++++++++++++++++++++++++++
その後、家で帰り待っていると、
ミゲール=カンティーロが登場。

スフィアンから借りた譜面を返す。
しばらく話をしていると、あっというまに出発の時刻に。
ギジェルモは、タクシーを呼んでくれ、
荷物を持ってくれて、タクシーに乗せる。

バス停の前だったこともあり、
ミゲールを見つけた数人が
「なんで、ミゲール=カンティーロが、日本人の荷物を
運んでいるんだ、、。」って感じだ。

固く握手をして別れると、車は動きだし、
意外にあっさりとした別れだった。

      *  *  *  
あとは、もう帰り道。

タクシー:運転手は、猛スピードで運転。たばこをあげたら、またスピードが上がった。

ブエノスアイレスの空港:日系人のカウンターレディが親切。
俺の彼女は日本人だという空港スタッフが席をアレンジしてくれた。
あとで考えて、あれはあの彼女の彼氏だったか?

ブエノスアイレス〜マイアミ:インディオ系の小柄な浅黒い美人がとなり。
しかし、物凄く香水がきつい上に頭をこちらに向ける。
鼻が詰まった。はっきりいってストレス。

マイアミ〜サンフランシスコ:かわいい小柄な女の子、株のトレードをしていて
何とかマネージャーとか、書いた名刺だ。「すごい。」っていうと、
「マネージャーって、アメリカではすぐつく名前なのよ」とか言っていた。

サンフランシスコ空港;突然すごい花粉症に。薬局で鼻炎の薬を買う。
おばさんが、「ああ、おとといぐらいから変よ。わたしも薬を飲んだわ。」
あと、ミネラルウオーターと、テッシュを。
関西空港行きのカウンターでは、もう日本人ばっか。
もう、日本に着いた気分。

サンフランシスコ〜関西空港:となりは女の子3人組。
今回の旅行で初めて、あんまり話をしなかった。
それまでのつもりで話したらひかれたようだ。
アレルギーのため、鼻も詰まる。
静かに過ぎて行く時間。単行本タイム。

      *  *  *  
もう、とっても濃いブエノスアイレスでした。
もう一度行きたいな。
最後までありがとうございました。


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