サクラの後味

『桜二号』『桜三号』の舞台をつらつらと思い返していたんだが、、、
テーマとコンセプトは違うよなぁ・・・と思ったりなんかした。
石井さんは、難しいテーマを選んでしまったのではないか、とも思った。

まとまるかどうかわからないけど、書いてみる。

『桜二号』『桜三号』の舞台のテーマは「戦争と平和」だったみたいだが、そのときのコンセプトも「戦争と平和」なのか? おそらく違うと思うんだよね。
一口に「戦争と平和」と言っても、いろいろあるからだ。
最前線に出陣した兵士の悲惨さもあるだろう、愛する者を万歳と言って送りださなくてはならなかった家族の涙もあるだろう。死ぬつもりで出陣しながら生き残ってしまった者は他人には計り知れない無念さを心の内に抱え込んでいるかもしれない。何の計画性もなしに猛進する国家に対する憤りもあるだろうし、一方で、何の疑問ももたずに追従するのみの一般市民だっていたはずだ。疑問は持てども口に出せないでいた、、、というのもある。
「戦争と平和」の何を伝えたいのか?
あまりにテーマが大きすぎて、ひとつの言葉に括るのは難しすぎる。
と、馬で鹿なおいらでも気がつく。
だからと言って「戦争と平和」のままでもマズイだろうと思う。
大きな概念を表す言葉で括ってしまっては、何を伝えたいのかが明確にならない。

限られた短い時間の中で、いちばん伝えたいことは何なのか。。。
それを表現する言葉を探し出せたら、それがコンセプトになるのだろう。
つまり、コンセプトはキーワードという言葉に置き換えることもできるわけだ。とゆーか、基本的に、単純明快なワンワードで表現できなければ、それはコンセプトとは言わないんじゃないか、とも思う。
んで、そうしたコンセプト=キーワードを具体的に表現する手段として脚本が書かれ、舞台装置がつくられ、音楽がつくられ、役者が演技をするんだろう。
そういう作業の大元になる言葉は、おそらく、漠たる概念を表すような大きな言葉じゃないはずだ、と思えてならない。おいらのような卑小な存在にも身近な、わかりやすい言葉であってほしい、と思う。
わかりやすいとは平易であることもそうだけれど、どれだけ「あー、あるある、そういうことって・・・」と頷けるか、ということだ。コンセプト=キーワードを身の丈サイズの言葉として抽出できないと、伝わるはずのものも伝えそこねてしまいかねない。
要はリアリズムなんだけど、舞台という虚構の世界では嘘のリアリズムであっても構わない。実際には身近になくても身近にありそうだなと思えるような具体的な細部を、どれだけ想像できるか構築できるかで、虚構の世界も限りなく実態をともなったものとなって見るものの目の前に立ち現れるはずだ。
綱渡りの作業をするうえでの命綱でもある。

振り返って『桜二号』『桜三号』の場合、キーワードは何だったのか・・・?
サクラ、か? 散ってしまった者、つまり死者への鎮魂歌なのか?
それも桜のように潔く散ったのではなく、見捨てられ散らざるを得なかった者への。
見捨てられていたとしたら、おそらく最前線の兵士だけの問題ではあるまい。戦時下においては国民全体が見捨てられていたのだ、国家から。
(もっとも、戦後から現在にいたるまで、見捨てられたままかもしれないが、、、それはまた別の話かもしれない。。。)
とにかく、笑いの入る余地など、どこにもない。他愛もない話になりにくいのだ。
そういう意味で、テーマ自体、非常に料理しにくい難しいものを、石井さんは選んでしまったのではないか、と思ったのだった。歌があり、芝居が入り、また歌があり、という構成も、料理方法を困難にさせたと思う。
楽しみ方を強要されるのは嫌いだと先に書いたが、物語にこだわる性分でもあるから、サクラを振って踊るなど、おいらにゃぁできねぇよ、、、と思った部分もあった。果たして桜盆踊りが鎮魂歌になるのか、、、よくわかんねーんだよなぁ。。。鎮魂歌たらしめるための般若心経っすか? う〜〜〜む・・・アタマが悪いだけでなく、アタマが固いのかね、おいらは? とりあえず確認できたことは、TVのチャンネルをポンポンと切り替えるようには、おいらのアタマはできちゃいないんだな、ということだった。外的刺激は電気信号となって脳内を伝わっていくのだが、人間の思考回路はデジタルじゃないのだな、と改めて思ったりもした。

姿月さんの美しさ、歌声の素晴らしさ、ダンスのキレのよさは楽しめたのだが、全体として、楽しめたようで楽しめない、微妙な後味が残ってしまった舞台だった。

*なんだか、かなりマジになってしまったな、、、らしくもねー(苦笑)

(2003.08.29)

ずん生の表紙に戻る