【日本の伝説・伝承】


あたごのわかでんせつ
愛護の若伝説
嵯峨天皇の御代っていつか知らんが昔むかしのお話。左大臣清平には子がなかった。そこで「どうしても子供が欲しいのよ」と初瀬寺観音にお願いしたら、夢に菩薩があらわれて言うことにゃ、「子を授けてやってもいいけどさ、その子がみっつになったら父母のどっちかが死ななきゃならんけど」。それでもいいから子が欲しいとお願いして、やがて男の子が生まれた。男の子は愛護の若と名付けられてスクスクと育ち、3歳なんてとっくに過ぎて、いつのまにやら13歳になっちゃった。ホッとしたのかいい気になったのか、清平さんてば「神や仏の言うことだって偽りがあるもんだ、だから、ウソついたってかまやしないさ」。これを初瀬寺観音がしっかり聞いてて怒りまくり、すぐさま北の方の命を奪ってしまった。清平は嘆き悲しんだが、やがて雲井の前という若い女を後添えにすることになったわけよ。ところが、この後妻が愛護の若と顔合わせをする前に、たまたま彼を見かけて、なぁんと、先妻の息子とも知らずにフォ−ル・イン・ラブ。一日に七通も恋文を送るほどの入れ込みようだったっつ−から、もうメロメロになっちまったと思いねぇ。あとで義理の息子と知ってみりゃぁ、そりゃまぁビックリ。禁じられた切ない恋に悩むかと思いきや、清平に告げ口されたら困ると、ぬぁんと愛護の若を陥れようと画策するようになるのさ(ヲイヲイ、でしょ?)。愛護の若は継母のいじめに耐えきれなくなって家出をするの。でも、もともと、ボンボンやんか。ひとりで生きてく術を知らず、頼った相手ともすれ違いだったりして運もない。で、結局、あちこちさまよったあげく、滝に身を投げて死んでしまう、というお話なのだ。かわいそうに。なんだが、悪いのはいったい誰だ?




あんちんきよひめでんせつ
安珍清姫伝説
安珍、清姫という名前は出てはこんのだが、今昔物語にも「女の執念が凝って蛇となる話」というのがありやす。話は、こう。今は昔のこと、熊野詣でに行く途中の若い僧、これがすこぶる美男子だったんだな。一夜の宿を、と泊まった家の若い女主人が、この僧に一目惚れ。寝所にまで忍んできて、しつこく誘惑するもんだから、若い僧は困っちゃって「今は熊野へ行く途中だからマズイけど、再び帰りに寄りましょう」と約束して、女には引き取ってもらった。もちろん約束はでまかせ。待てども来ない男に、だまされたと悟った女は自分の部屋に閉じこもり、そのまま死んでしまった。無念のうちに死んだ女は、なぁんと大蛇になって部屋から走り出ると、僧のあとを猛然と追いかける。大蛇にあとを追いかけられていると知った僧は、走りに走って道成寺に逃げ込むと、鐘楼の大鐘の中にかくまってもらうことにした。しかし、やがて大蛇は道成寺にまで乗り込んできて、激しい毒気で鐘もろとも中にいた僧を焼き尽くしてしまった・・・。そして後日、ある高僧の夢の中に焼かれた僧が出てきた。自分まで蛇身となってしまい浮かばれんのだと嘆くので、高僧は女ともども供養してやった。こうして女も僧も蛇身から逃れ、自由になった。いやもう、仏さまってありがたい的お話になっており。っつーのがさ、なんで安珍・清姫っつー名前になるんだぁ? ご存知の方は教えてくらはい。ぺこり。


かさねでんせつ
累伝説
下総国羽生村(現在の茨城県水海道市)の百姓だった与右衛門という男、田畑にひかれ、醜い顔した累の入り婿になったのね。いわゆる財産目当ての結婚ちゅうやつ。ところが、この与右衛門、累の醜さがどうしても耐えられなくて、ぬぁんと累を鬼怒川に沈めて殺しちゃったのよ(・・・まさか最初っからそのつもりだったりして?)。その後、与右衛門はなにくわぬ顔して後妻を迎えるんだけど、来る人来る人、皆ことごとく累に取り殺されてしまうんだな、これが。ほとほと困り果てた与右衛門は、法蔵寺の祐天上人にすがりついて、最後にはなんとか救われましたとさ、チャンチャン、という話。ヲイヲイ、そんな男が救われちゃっていいのかぁ、と思うでげしょ? これって、どうやら祐天上人の法力を宣伝するためにつくられた伝説っつーことらしいのよねん。法蔵寺には累の墓があるみたいだけどさ。ふん、ってな感じ(苦笑)。でもさ〜、なんにも知らない後妻さんにゃぁ恨みはね〜だべ? 取り殺すんならダンナじゃないのぉ? あぁ、そんだけダンナに惚れてたっつーことなんだろーか・・・。累さんってば可哀想にぃ、ってんで、気の毒な累伝説をもとにした狂言がけっこうありますわいなぁ。


しのだづま

信田妻
狐が人間の女房となり子までなす、という話は異類婚の民間伝承の中でも有名なものらしい。「日本霊異記」にも「狐を妻として子を生ましむる縁」という話がある。欽明天皇の御代(というからには古いんだろうな、きっと)、ある獣が人間の女に化けて男と結婚したが、やがて素性がばれてしまった。ところが、夫は「子どもまでなした仲、いつでもやって来て寝ていけ」とやさしい言葉をかけてくれたもんだから、獣の妻は喜んで夫の言葉に従い、やってきては泊まっていった。以来、その獣は「きつね(来つ寝)」と名づけられた。・・・うまい! 座布団三枚あげよう(笑)。でも、これって和泉ではなくて美濃の国の話らしいのよね。どういうことから「信田妻」という名前が出てきたのかしらん。まさか、「芦屋道満大内鑑」が事のはじめじゃないでしょうねぇ。でも、だったら「有名な民間伝承の信田妻の世界を扱った狂言」なんてシレッと解説に書くこたぁないもんねぇ・・・? 浄瑠璃に「信田妻」というのがあるのかな? その元ネタは何だったのかな? はて、真相は? ご存知の方、教えてくだされ。ぺこり。


だてそうどう
伊達騒動
仙台の伊達家当主の座をめぐる後継者争いのこと。万治三年(1660年)に三代綱宗っつー殿さまが不行跡という理由で隠居させられると、側室の生んだ亀千代がわずか二歳であとを継いだ。すると、その後見となった伊達兵部っちゅう人が江戸家老の原田甲斐っちゅう人と手を結んで、藩政を勝手に動かすようになった。それに対抗したのが伊達一門の安芸とかゆー人たちだった。で、すったもんだ、という話。事の真相は、藩政改革の積極派であった甲斐一派に対する保守派の抵抗、というのが歴史上の解釈みたいでやんす。


みわやまでんせつ
三輪山伝説
古代、崇神天皇の御代のこと。美しい娘の元に、これまた類いまれなる美しい若者が夜中に突然訪れてきた。以来、毎夜やってくる若者と、娘は愛し合い、子どもを身ごもった。驚いたのは娘の両親。知らない間に娘が妊婦になっちゃたのだから、まぁ、そりゃ驚くわいな。そこで相手のことを尋ねると、おっとりしてるのか何というのか、娘は名前も素性も知らないと言う。両親は何とか若者の素性を知ろうとして、「赤土を床の前に散らし、糸巻きに巻いた麻糸を針に通して男の衣に刺せ」と娘に教える。「あいあい」。素直な娘は、教えられた通りにした。翌朝、延々と糸をたどって行き着いた先は三輪山の神の社。なんと、若者は三輪山に祀られた大物主の尊だったのだ・・・というお話(by 古事記)。大物主って、どうやら蛇身らしいのよね。だからカギ穴も抜けられるってことかしら、というのは置いといて。恋人の正体を知るよすがになったのが糸巻き(苧環)の糸というのが、「妹背山女庭訓」に折り込まれています。


もどりばし
戻橋
京都の一条堀川にかかる橋。この橋の上で、陰陽師として有名な安部晴明が死んだ父親の保名を甦らせたという話(っていうのは、おそらく「芦屋道満大内鑑」のことかしらね)から「戻橋」と呼ばれるようになったと言われている。晴明は、この橋のたもとに式神と呼ばれる使役霊を封じ込めて、必要に応じて呼びだしては使っていたとか。近所には、後世に建てられたんでしょうな、偉大なる陰陽師をまつった晴明神社もあります。また、この橋は、源頼光の家来の渡辺綱が鬼女の片腕を切り落としたと言われる場所でもあり、オカルトめいた観光名所になっておりやす。が、実際に見てみればただのコンクリートの橋で、どーっつーこたぁないでありんす。もう少し風情が欲しい、と思うのだが・・・。


よろぼうし
弱法師
能に「弱法師」ってのがあるんですよ。見たこたぁないけど(苦笑)その物語は、こんな感じ。河内国の高安通俊が他人の中傷をまにうけて、わが子の俊徳丸を勘当してしまった。のちに、おのれの非を知り、俊徳丸を不憫に思った通俊は天王寺に詣で、貧民に施しをすることで罪滅ぼしをしようとしていた。そこへ、ひとりの若い盲目の乞食があらわれる。ヨロヨロとよろめいて歩くので、仲間から“弱法師”とよばれていた、この乞食こそが実は俊徳丸で、仏のお慈悲か、父子は再会することができたのだったっつー話。なんでも、天王寺周辺には参詣人の施しを受けようと物乞いが始終集っていたらしく、そんなとこから生まれた巷説がもとになってるんじゃないか、ちゅうことでありんす。