遅かりし由良之助

なぜかロック掲示板の方で話題になっていた、この言葉。
ちょっくらと思ったことなんかを、つれづれに書いてみようとぞ思ふ。

と、その前に、いちおービギナーさんのために解説しておくと、由良之助(ゆらのすけ)は歌舞伎の三大名作のひとつと言われる「仮名手本忠臣蔵」という芝居に出てくる主役の名前です。姓は大星、名は由良之助。有名な47士の討ち入りを計画・実行した実在の人物、大石内蔵助(くらのすけ)がモデルです。
では、なぜ妙ちくりんな名前に変えてあるのか。ま、歌舞伎の戯作ってぇのはそうゆーもんよ、って言っちゃったらそれまでなんですが(苦笑)。「仮名手本忠臣蔵」は「太平記」の世界に仮託した物語なんですね。「殿中でござる」と取り押さえられちゃった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)塩谷判官(えんやはんがん)吉良上野介(きらこうずけのすけ)高師直(こうのもろのう)という名前で出てきますが、塩谷判官も高師直も「太平記」に出てくる人物だとか。高師直が塩谷判官の奥方に懸想して、でも思いがかなわず逆恨みするという物語をそのまま借りて、うまい具合に忠臣蔵の物語にすり替えてあるっつーわけです。そうすることで、時の幕府を批判してるわけじゃないのよ、だって、ほら「太平記」のお話でしょ? 弓引く相手は徳川殿じゃなくて足利殿だしぃ、ってな具合で、お上のおとがめを避ける目的もあったろう、とは思います。

さてさて。で、「遅かりし由良之助」
「何に遅れたの?」とゆーのがロック掲示板の方で出された素朴な疑問です。
そうですよねぇ、フツー疑問に思いますよね。これはですねぇ、歌舞伎の中だけのお話なんです。
歌舞伎じゃ由良之助は塩谷判官の切腹の場に駆けつけることになってるんですね。
実在の内蔵助は国元にいて、内匠頭切腹の悲報を受け取るわけですから、史実じゃない。
架空の人物も出てくるし、そーゆーとこが荒唐無稽を得意とする歌舞伎ならではなんですけども。

ところで、問題のこの言葉、劇中のどこにも出てきません。
切腹する前に、塩谷判官は無念の思いを内蔵助に伝えたいと思うのですが、内蔵助がなかなか来ない。
いつ切腹してもいいようにと用意を整えた塩谷判官は、御側衆の力弥(由良之助の息子)に声をかけます。
   判  官:力弥、力弥。
   力  弥:ハッ。
   判  官:由良之助は。
   (力弥、向こうをうかがい見て)
   力  弥:いまだ参上つかまつりませぬ
   (判官、心残りの思い入れあって)
   判  官:力弥、力弥。
   力  弥:ハッ。
   判  官:由良之助は。
   力  弥:ハッ。
   (花道のつけ際まで行き、向こうをうかがい見て)
   力  弥:いまだ参上(と言いつつ元の座へ戻り)つかまつりませぬ。(と平伏する)
   (判官、残念なる思い入れあって)
   判  官:存生に対面せで、残念なと申せ。
   (と検使の方を向かい)
   判  官:お見届け下され。
で、刀を逆手に持ち直し、おなかに突き立てるんですな。
と、そのとき、バタバタとつけ打ちがあって、やっとのことで由良之助が駆けつけるんです。
   由良之助:大星由良之助、ただいま到着。
   判  官:おぉ、由良之助か。
   由良之助:ハッ。
   判  官:待ちかねたわやい
とゆーことで、すんでのとこで塩谷判官の息のあるうちに目通りかなったわけですが、この間、
観客はみな、由良之助は遅い、いったい何しているのか、ってな思いでいるわけです。
で、そのじりじりするようなもどかしい思いから、誰が言いはじめたのやらですが
「遅かりし由良之助」って言葉が生まれて、いつの間にか独り歩きをしちゃったというわけですね。

この言葉は、かなり一般的に日常会話でも使われていたみたいです。
現に、うちのおかんがよくゆーとりました。
寝坊したりすると「遅かりし由良之助」。帰宅が遅くなれば「遅かりし由良之助」。家族の食事のお相伴にあずかっていた猫が何かの理由で遅れてくると、猫にまで「遅かりし由良之助」。
子どもの頃は、当然、歌舞伎なんて存在も知らないわけで、妙なおかんだなと思いながらも、いわゆる常套句みたいなものかなと漠然と思っていました。あとになって歌舞伎が元にあって生まれた言葉だと知ってビックリ。「え〜、うちのおかん、歌舞伎を見ていたのかぁ?!」って。ところが、見たことないんですよ。田舎のおばちゃんだし。戦争で焼け出され小学校もろくに行けなくて、読み書きするよりイモ堀りしてることの方が多かったみたいで、字を書くことにコンプレックスを持っていたりするし。でも、「遅かりし由良之助」は知ってる。だけじゃなく、それが、いとも自然に口をついて出てくる。これは実に不思議でしたねぇ。どうやら、おかんが子どもの頃には、まわりの大人がみなフツーにつかってた言葉らしいんですね。
むかしは、歌舞伎って、もっともっと日常的なものだったのかしらん、と思います。

もひとつ、うちのおかんがよく言ってたのに「そのとき義経、少しも騒がず」って言葉もありました。
すわ地震か?!とか、雷が落ちて停電したとか、何か思わぬ出来事に出くわしたときなんかに口から出てた言葉です。うっかりお茶わんを割っちゃったりしたときにも言ってましたな。「そのとき義経、少しも騒がず」と、まるでおまじないのように唱えながら、ちゃっちゃと割れた茶わんのかけらを片づけていたっけ。やっぱり常套句のひとつか、と漠然と受け入れていたんですが、後年になって歌舞伎を見るようになってから、「え〜、これも歌舞伎だったのぉ?!」とビックリしたものです。
「そのとき義経、少しも騒がず」というのは新歌舞伎十八番にもなっている「船弁慶」の中に出てくる、これは歌詞です。兄の頼朝に追われた義経一行が西国に落ち延びようと船を漕ぎだすと、義経に滅ぼされた平知盛の怨霊があらわれて義経たちに襲いかかる。が、「そのとき義経、少しも騒がず」太刀を抜いて応戦する。弁慶は数珠をもんで天に祈り、最後には知盛の怨霊は退散する。そーゆー舞踏劇なんです。
はじめて「船弁慶」を見たときには、もうビックリでした。知盛の怨霊の振りもスゴイんですが、それより、おかんがよく言ってた言葉が聞こえてきたときには、目からウロコならぬ“耳からウロコ”状態でした。
で、思ったのが、TVのない時代にはラジオだけが娯楽の友で、みんな耳をたよりに歌舞伎を“聞いていた”のだろうなぁ、ということ。人間が外界の情報をとらえるアンテナの80%は視覚だと言いますよね。でも、ラジオしかない時代には聴覚がすべてだったから、現代のわっちらなんかより、はるかに言葉のひとつひとつに耳を澄ませていたのだろうと思います。で、「あぁ、こいつぁいいや」と思った言葉を日常でもつかい、大人の言葉を子どもたちがまねてつかう。そうして、うちのおかんでも「遅かりし由良之助」だの「そのとき義経、少しも騒がず」だのと言うようになる。
いやはや、歌舞伎の中の一節が広く一般人の日常会話の中に入っていた時代があったんですねぇ、とゆーお話でした。(2000・2・16)